ブログ移行期間 /アメトークを観た
→ 『【お肌よわよわ芸人】昨夜テレビ朝日系列で放送されたアメトーークのテーマは「お肌よわよわ芸人」でしたが、アトピー性皮膚炎患者さんあるあるについて一流人気芸人さんのエピソードが面白おかしく紹介されていました。いつも通り楽しく観させていただきましたが、皮膚科医としては患者さんの切実な日常を再確認することができて勉強にもなりました。アトピーの患者さんはかゆみに悩まされ続けることが多いなか、この番組を観られた方は芸人さんのお話に共感したり、勇気づけられたりしたのではないかと思います。「アトピー便り」で紹介させてもらった方がいいかなとも思いましたが、かなり久しく「気まぐれ随想録」も更新しておりませんでしたので、こちらで紹介させていただきました。再放送の機会もいずれはあるかと思いますが、ネット配信サービスでは早めにご視聴できるかと思いますので、ご覧になっていないアトピー患者さんは是非ともご利用ください。2018/4/13』
※今田耕司とサバンナ高橋が行っているという皮膚科の先生のひそひそ
トークのエピソードも面白かった(d゜ω゜d)♬
※ネタがすべってるときは、「あぁ、このあとボリボリかいてるんかなぁ~?」
って想像するようになっちゃうなぁー今度から。
※「ボリボリ」の音が気持ちいいというのは、、、唯一共感できたかなァ~。
年度・団体【1988年・UWF・後楽園ホール】 |
カテゴリー【旗揚げ】 |
見出し:『前田日明らが新生UWFを旗揚げ』 |
→ 『解説:長州の顔面を蹴撃したことで、新日本を解雇された前田日明は、85年9月に活動を停止したUWFの再旗揚げを決意。これに高田延彦、山崎一夫、中野龍雄、安生洋二、宮戸成夫が賛同し、4・8赤坂東急ホテルにて設立発表会見が開かれた。/ぴあ他で販売されたチケットがたった15分で完売したため一気に火が付き、わずかな当日券を求めて徹夜の列ができた。(中略)/この頃、新日本はストロングスタイルを掲げながら不透明裁定や暴動騒ぎが続いていたため、プロレスにおける強さを求めるファンの拠り所として支持された。それが世間に届くまで時間はかからず、UWFは社会現象となり巨大化していく・・・』
※ヤマちゃんのキックは、キレッキレやったっすよー。
→ 『1988年5月12日、後楽園ホール。新日本プロレスを追放された前田日明が旗揚げした新生UWFは、大いなる熱狂で歓迎されるとともに、その後のプロレス、格闘技界に一石を投じることになった。「選ばれし者の恍惚と不安、二つ我にあり」/新生UWF旗揚げ戦「スターティング・オーバー」の試合前になされた前田のあいさつは、今もプロレス界の名言の一つとして語り継がれている。もともとはフランスの詩人ポール・ヴェルレーヌによるもので、太宰治の小説などにも引用されている(原典では「選ばれてあることの恍惚と不安と二つ我にあり」)。続けて前田は「選ばれた者としての自負とこのままでやっていけるのかという不安」と、言葉の意味を説明している。このフレーズにより多くのUWFファンは、「U戦士はプロレス界から選び抜かれた精鋭」と認識し、また、それを応援する自身のことも「ほかのプロレスファンとは違って真贋を見極める目を持つ者」と、自負することになった。
カール・ゴッチやシーザー武志、藤原喜明(U参加は翌年)らがオブザーバーとしてリングサイドで見守る中、この日に組まれたのはわずか3試合。第1試合 高田延彦vs宮戸成夫(優光) 第2試合 中野龍雄(巽耀)vs安生洋二 第3試合 前田日明vs山崎一夫 所属6選手による対戦カードは、高田戦が手合い違いからエキシビション扱いになるなど、勝敗についての興味はさほど持てるものではなかった。それにも関わらず、チケットは発売開始からわずか15分で完売。後楽園ホールが入るビルの非常階段には、開場を待ちきれないファンが列をなした。「チケットが“発売数分で完売”とか“行列ができた”などはバブル期によく見られたマーケティング手法で、発表をそのまま鵜呑みにはできないが、前田の復帰を待ち望む声が大きかったのは確かです」(プロレスライター)
旗揚げの前年、試合中に長州力の顔面を背後から蹴り上げ、重大な故障をさせたとして、前田は新日との契約を打ち切られた。アントニオ猪木が前田とともに滝に打たれるなど、和解ムードを漂わせながらも、結局、新日復帰とはならなかった。「次世代のエースとしてファンからの信奉を集めていた前田。弾圧を受けるほど信者の信仰心が高まる新興教団のごとく、新日からの理不尽な扱いを受けたことで、より人気が沸騰しました」(同) /新生UWFがどんなファイトを見せるかは、多くのプロレスファン共通の関心事でもあった。かつて「ごちゃごちゃ言わんと誰が一番強いか決めたらええんや」と言い放った前田が、新日という既成団体の枠から外れたときに、いったい何をやらかすのか。つまりは“ガチンコ”かどうか、それこそが興味の中心であり、ファンの期待をあおるように専門媒体もはやし立てた。中でも〈プロレスという言葉が嫌いな人、この指とまれ〉と表紙に打って、UWFの記事を掲載した『格闘技通信』はその顕著な例であろう。
では、実際の試合はどうだったか。「相手を壊そうが何をしようが、勝利が最優先される闘いを真剣勝負と言うならば、UWFは否です。あくまでも興行を意識したプロレスでした。わずかな所属人数で仲間を潰したのでは、興行が成り立たない。UWFの人気=前田人気である以上は、前田がその看板を背負わなければファンもついてこない。旗揚げ当初、すでにその道の専門家からは『UWFは格闘風プロレス』と喝破する声もありました。ただその一方で、試合形式はどうであれリング上の選手たちが真剣であったことには間違いありません」(同) /近年になってはUWFを「格闘技をかたったプロレス」と批判する声もあるが、しかしその意見は早計だ。総合格闘技という概念がなかった時代のこと(佐山聡の主宰した修斗が初のプロ興行を行ったのは新生UWF旗揚げの翌年)、真の最強を目指す戦いへの過渡期であり、試行錯誤の段階であったと理解すべきだろう。
この日のメーンイベント、前田vs山崎の一戦は、新日参戦時にはさほど目立った活躍のなかった山崎の予想外の奮闘によって、大いに盛り上がることとなる。山崎のしなるようなハイキックで前田がダウンすること5回。後のUWFルールであれば、この時点で山崎の勝利である。しかし、前田はふらふらになりながらも、ファンの声援を背にここから巻き返す。キャプチュード、ニールキックで山崎を追い込むと、最後は片羽締めで25分に迫る激闘を制した。「これからのUWFは自分たちの信じた道を進んでほしい。そして最後まで仲間割れしなかったら最高」、これは大会直後のシーザー武志のコメントである。』
※なんだかんだで、新日本の若手対UWFの若手の、遮二無二ぶつかっていく対抗戦が一番燃えたっけなーー。
☆本日の、『漱石と明治人のことば』は・・・
【今日のことば】「道徳は習慣だ。強者の都合よきものが道徳の形にあらわれる」――夏目漱石 |
【解説】
「道徳」ということをいわれて、普通、真っ向から否定することはしにくい。学校における道徳教育ということも、必要な面もあるのだろう。もっとも、教科書の記述を「パン屋」から「和菓子屋」に書き換えるよう指導するお役所のセンスは、どうかと思いますけどねぇ。
※なるほど、水面下の見えない部分ね~。わかりやすいかも。
→『今年4月から小学校で正式教科化された「道徳」。これまでは、価値観の押し付けにつながりかねないとして教科化を見送られてきたが、いじめ問題が相次いでいることなどから国は子供の規範意識を高めるため、道徳の教科化を進めたという。小学校の道徳で“教えなければならない価値”は、“感謝”“礼儀”“家族愛・家庭生活の充実”“規則の尊重”“伝統文化の尊重・国や郷土を愛する態度”など22に上り、教師たちは国の検定に合格した教材を使ってこれらの価値を児童に教える、とされている。しかし価値を「教える」ことと「押し付ける」ことは、似て非なるもの。道徳の授業をどのように進めればよいか、現場の教師たちにも葛藤があるという。4月23日放送のクローズアップ現代+(NHK)では、昨年度、試験的に道徳を教科として導入した小学校に密着し、道徳の授業の在りように迫っていた。
東京都内の公立小学校で4年生のクラスを受け持つ新任の女性教諭は、「お母さんの子供に対する気持ち・思い、無償の愛を考えさせたい」と、道徳の教材に「お母さんのせいきゅう書」を選んだ。22の価値の中のひとつである“家族愛”について考えさせる狙いだ。教材の内容は以下の通り。
この教諭に限らず、現場の教師たちは試行錯誤をしながら、日々手探りで道徳の授業に取り組んでいる。中には「教材は理解できても、価値自体の理解が自分の中で微妙なまま、毎週1回ある。やり続けるのは不安」と語る教師の姿もあった。“教えなければならない価値”と、自分自身の持つ価値観、両者の擦り合わせに苦心している教師もいるのかもしれない。/道徳の授業で使われる教材は、ひとつの物語でひとつの価値観を教えることになっているものがほとんどだという。しかし道徳とはいえ“ひとつの物語”を読んで抱く感想や意見はひとりひとり異なっているのが自然なのではないか。学生時代、道徳や国語の授業で、“正解”とされる感想を書くことが出来ず、前述の男子生徒のような状況に際した人は少なくないと思う。漫画やドラマでどの登場人物に感情移入するか人によって違うのと似て、答えをひとつには絞れないだろう。道徳の授業というだけで、児童たちが“狙い通り”の感想を覚えるとは言えない。そもそも児童たちの考えをひとつの価値観に落とし込んでいいのか、という疑問が残る。全員、立場が違うのに、同じ感想を抱くことは不自然ではないだろうか。
22の価値には“国や郷土を愛する態度”というものもあり、“国”とは日本を指すわけだが、外国籍の児童は必ずしも日本が母国とは限らない。先の4年生のクラスで取り上げられた“家族愛”も実際はデリケートな価値観であり、「二分の一成人式」同様、親への感謝を強要することになってしまう懸念がある。父がいて、母がいて、という家庭ばかりではなく多様な家族がすでに存在している事実も覆ってしまいかねない。今回教科化されるにあたって道徳は、他の教科(国語や算数)同様、評価の対象にもなった。数値評価ではなく教師は文章で児童の成長について記入することになっており、入試では活用されないというが、道徳を“評価”されること自体、自分の心の内側を評価されているようだと負担に感じないものだろうか。/しかし一方で、道徳の授業で児童たちをひとつの価値観に導くのではなく、むしろ多様な価値観に触れられるよう、授業のやり方を工夫している小学校もあるようだ。タブレット端末を使って少数意見にも触れられるようにしたり、児童たちが決めたテーマで班ごとに話し合ったりといった取り組みも、番組では紹介された。ひとりひとり価値観は違い、仲がよくても全く同じ価値観の人などおらず、ひとつの価値観に導くよりは色んな意見を聞く機会にしたほうが良いのではないか、と私も思う。道徳の時間が、児童たちがさまざまな価値観と出会うきっかけとなり得る授業を望みたい。』
※中途半端な動画だけど、これを観させた上で、いろいろ考えさせる、
話し合わせる、ということなのかなーー?