宇宙、日本、練馬 2018-10-08 言葉なしに弔う――『茄子 スーツケースの渡り鳥』感想
→ 『黒田硫黄の短編連作「茄子」中の一篇をアニメ化。先だってアニメ映画として制作・公開された『茄子 アンダルシアの夏』の、4年越しでの続編。舞台を日本、ジャパンカップ・サイクルロードレースに移し、ロードレーサーたちの悲哀と矜持を描く。「アンダルシアの夏」も、原作の描写を掘り下げディティールを補強していたが、この『スーツケースの渡り鳥』はさらに大胆に、アニメ独自の要素を加え、原作の精神性を保持しつつ、また違った印象を残す作品になっている。
おおよそ、小説の実写化やら漫画のアニメ化など、他メディアへのアダプテーションは、原作への批評として読まれることを宿命づけられる。そしてこの『スーツケースの渡り鳥』もまた原作へのある種の批評として読むことができる。原作における謎に、アニメ独自の答えを出した、という意味において。その謎とは即ち、「朴念仁」と形容される寡黙な名選手、ザンコーニがレースを途中で放棄した理由であり、この答えは原作のどこにも明確に描き込まれてないがために、アニメ化に際し強烈な補助線が引かれなければならなかった。その補助線とはすなわち、ある名選手の自死であり、この補助線によって、作品の纏う雰囲気は原作と一線を画している、といっても過言ではなかろう。
この補助線によって、唐突な他者の死に、いかに人間は向かい合うのか、という問いを登場人物たちに付きつけ、ある種の弔いの物語の色調を帯びる。それが「プロとはなにか/プロとしていかに生きるか」という『アンダルシアの夏』でも問われた主題と絶妙に響きあい、この『スーツケースの渡り鳥』という作品の主題系を成す。
とはいえ、そうした他者への弔いという主題は、作品がまさにその人物の死で幕が開くにもかかわらず、それほど前景化するわけでもない。それは一つはサイクルロードレースそれ自体の強烈な魅力によって、極めて優れたスポーツアクションアニメとして成立しているがゆえに、あくまで死者をめぐる問いはその後景に退くからでもあり、そして何より、男たちの弔いは言葉なしに行われるからでもある。ここで、なぜザンコーニという圧倒的な実力をもつ男が、中途棄権という形でレースを終えなければならなかったかという、原作の謎への回答めいたものがさしあたって与えられることになる。自死という形で人生を中途で降りた戦友に捧げる勝利は、このような形での達成されざる勝利こそ相応しい。あのまぼろしの勝利の瞬間に差す光を、死者からの応答と読むのは牽強付会のそしりを免れないかもしれないが、あのゴールの瞬間に訪れた彼岸と此岸を超越した奇妙な時間は、無言の祈りが死者と邂逅したがゆえに、そうした雰囲気を纏いえたのではなかろうか。
戦友の死にそうした勝利を捧げたザンコーニに対して、死者と同郷の友人同士であったチョッチは、彼とは違い、勝利を死者に手向けたりはしなかった。チョッチはザンコーニほど寡黙ではないが、死者への弔いについて、彼も多くは語らない。ただ、勝つために走り続けること、これからも死者とともに過ごした時間の厳しさの手触りを忘れず、プロであろうとすること。そうした無言の弔いによって、この弔いの物語は終わり、そして終わりのみえないプロの旅は続く。』
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年度・団体【1983年・新日本】 |
カテゴリー【夢対決】 |
見出し:『超異色対決 前田×ホーガン』 |
→ 『解説:5-21大分で実現したIWGPリーグ公式戦はホーガンの勝利。千葉公園体育館では特別試合として再戦が組まれテレビ中継されるも、超人が返り討ちに。9日間で2度も実現していた。』
※「イチバ~~~ン!」の雄叫びがしっくりハマるレスラーでしたン。
【今日のことば】「人はえらい人から凡俗まで曲りそうになる心をためなおして行くものであろう。それがえらい人のははたから見ればいつも真直(まっすぐ)に見える」――森鴎外 |
【解説】
明治の文豪としてしばしば夏目漱石と並び称される森鴎外が、大正10年(1921)11月15日付で、妻のしげ子あてに出した手紙の中の一節である。
人間というのは、いつもなんの迷いもなく、正しくあるべき姿を貫けるものではない。さまざまな欲望や損得勘定にとらわれたり、外からの誘惑もあったりして、ふと過ちをおかしてしまう恐れも、往々にしてある。あるいは、逆風を受けつづけていると、知らず知らずのうちに、性格や生き方が、いじけたり、ねじ曲がったりしてしまうこともあり得るだろう。そういう自己の姿勢を、ことあるごとに自分自身で意識して正していく。人生とはその繰り返しであると、鴎外は述べている。周囲からは、そんなこととは無縁のように見える偉い人でも、同じことをしているというのである。
念のため付け加えておくと、掲出のことばの「ためなおす」は「矯め直す」であり「矯正する」の意。この手紙を書いたとき、鴎外は齢59。軍医総監にまでのぼりつめた陸軍はすでに辞したものの、帝室博物館総長兼図書頭(ずしょのかみ)に任ぜられ、数年前から毎秋、
正倉院曝涼のため奈良へ出張するのが習わしとなっていた。その奈良から、18歳年下の妻へと手紙をしたためたわけなのだ。鴎外は、こうも書いている。「大臣になるような世わたり上手はその真直に見える外かわだけに骨を折る。真直に見えるように心
からしあげるのが真の人物であろう」
外側のお体裁だけを整えて要領よく出世し嬉々としているような世渡り上手は、鴎外の目から見ればお笑い種でしかない。まして、昨今は、その「外かわ」さえまっすぐに見せることができず、スキャンダルを巻き起こす大臣や国会議員が少なくないのだから困る。さて、同じ手紙の中で、鴎外は、どうやって自分を立て直せばいいかというところにも言及している。すなわち、「曲るものをためなおす定木(じょうぎ)は仏法でも西洋哲学でもなんでも好い、ただ香をたいて安坐していても好い」
要は、ひとつの基準のようなものを持って、自分自身で自分をしっかりと見つめ直すことしかないということであろう。鴎外はこの翌年、60歳で病没した。
細かすぎて伝わらない関連動画など
(「鴎外」「世渡り」で動画検索してみました!!)
ジョニーAのつぶやき:「乃木坂浪漫」はいいコンテンツっすよなぁーーーー。