狡い三連星③

☆書籍「元気が出る言葉」&サライ「日めくり漱石」をお届け♪

(詳細は、1月2日の日記を参照のこと!)

☆さ~~て、本日12月13日(木)の、「元気が出る言葉」は~?

『ポッポヤは どんなときだって 涙のかわりに笛を吹き、げんこのかわりに旗を振り、大声でわめくかわりに、歓呼の裏声を絞らなければならないのだった。ポッポヤの苦労とはそういうものだった。』
出展:「鉄道屋(ぽっぽや)」(集英社
発言者:浅田次郎 (小説家 1951年12月13日~)
『解説:浅田次郎は現代小説、歴史小説、中国を舞台にした小説など幅広いテーマに取り組んでいる。しかし、共通しているのは悲しみ苦しみに生きる者たちの心情を描く作品が多いことだ。直木賞を受賞した「鉄道屋」もそうだ。配線間近なローカル線と定年を迎える鉄道員。彼は妻に先立たれ孤独の中にいる。紹介した言葉は、その作中の1シーンだ。日本の美徳に我慢強さ、忍耐強さが静かに表現されている。』

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◎関連書籍、楽曲、映画(ドラマ)などなど・・・

Amazon.co.jp アイム・ファイン! 浅田次郎エッセイ集 (小学館文庫) Kindle版 浅田次郎 (著)
『■内容紹介:書斎の内外で起こる爆笑と福音の日々。JAL機内誌『スカイワード』で好評連載中のエッセイ『つばさよつばさ』から生まれた『アイム・ファイン!』の文庫版を電子化。「飛行機の座席を選ぶにあたって、私は必ず窓側を指定する。旅慣れた人は通路側を好むものだが、どうも外の景色がみえないと損をしたような気がするのである」1年の3分の1は旅の途にある、超多忙作家の浅田次郎氏はまさに好奇心のかたまり。自身の目を通した国内外の出来事は、たちまち優れた一編の随筆へと姿を変えていきます。
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/■登録情報:/フォーマット Kindle版 /ファイルサイズ 647 KB /紙の本の長さ 253 ページ /出版社 小学館 /販売 小学館 /言語 日本語 /ASIN: B009HPEATG /Text-to-Speech(テキスト読み上げ機能) 有効  /X-Ray 有効  /Word Wise 有効にされていません /おすすめ度 5つ星のうち 4.5 /■カスタマーレビュー:Corybant 5つ星のうち5.0 「飛び切りのエッセイ・シリーズ第二弾」2013年4月12日・・・浅田次郎さんのエッセイ集としては一番かなと思う理由はやはり初出で読む場所がJALの中ということだからかもしれない。雰囲気が機内という環境の中で機内誌を読むしかやることがないとどうしても浅田さんのエッセイを意の一番で読んでしまうし、フムフムと納得しながら笑いながら目的地までの旅情を味わうのが出張でも旅でも恒例となってしまった。勇気凛々シリーズも最高だったがどれか一つと言われればこれですね。「つばさよつばさ」シリーズが今後も永く続くよう切望する。次回の発売は来年くらいかな?』

●「好きなことやってきただけ」褒章胸に浅田次郎さん(15/05/15)


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谷村新司さんはいま、息子さんの不祥事で大変デスが・・・

岡山の司法書士オレンジ法務事務所のブログ 2013年02月20日
NHKあさイチ」での水道橋博士
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素敵だ。すばらしい。舞台のコントのために、頭頂部を剃ってこの髪型にしたそうです。本人曰く「浅田次郎風」とのこと。わはははは…いいなあ~。俺もしてみようかなあ。』
※博士の芸風、未だ変わらず。。。

☆本日の、『日めくり漱石』は・・・
サライ 「夏目漱石」の記事一覧

“歌はやんだ。風が吹く(『三四郎』より)”

明治44年(1911)12月13日の漱石】瓦斯ストーブをつけて子供たちと唱歌をうたう

今から105年前の今日、すなわち明治44年(1911)12月13日の朝、漱石は謡の先生である宝生新を自宅に迎えて謡曲『盛久』を習った。なかなか難しく、強く吟じるところにくると散々な調子になってしまう漱石だった。稽古を終えたあとの雑談で、4日前におこなわれた霞宝会の催しに話が及んだ。

霞宝会は4年ほど前、下懸り宝生流を維持・発展させる目的で設立された組織だった。能楽の一流派である宝生流には、おもに主役をつとめるシテ方の上懸りと、シテ方の相手役などをつとめるワキ方の下懸りがあり、漱石の謡の師である宝生新は、ワキ方の名人なのだった。4日前におこなわれたその霞宝会の催しの折、年のころ70代半ば、明治を代表する能楽師の宝生九郎が『鸚鵡小町』を披露した。九郎は5年ほど前からすでに一線を退いていたが、この日は特別に舞台に立ったのだった。

実のところ漱石は、これを、どこがうまいかわからないような感覚で聞いていた。これに対し、宝生新は、さすがに壮大雄抜の迫力に満ちていた。「あれは、心持ち、派手過ぎました。年のせいかもしれない」/宝生新は、率直な調子で、30歳以上も年長の先人の謡をそんなふうに評した。一般に、中年になると声の調子が低くなり、そこを過ぎるとまた高くなるものだというのである。このあたりになると、専門家でない漱石には皆目わからない。漱石はそんなものかと思って聞いていた。

数日前から、長男の純一と四女の愛子が風邪をひいた様子だった。昨夜は愛子は熱を出し、氷で頭を冷やしていた。それでも子供の体調は極端なもので、今日は、もうけろりとしている。午後になると、漱石はその愛子と炬燵でふざけて遊び、おやつの焼き芋を一緒に食べた。
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この日は曇天だった。分厚い雲が空を密におおい、夕方過ぎから部屋の中は凍るような寒さになった。漱石は瓦斯(がす)ストーブを焚いた。が、しばらくすると瓦斯がもれているらしくイヤな匂いがしたので、いったん止めた。夜、修理したあとで、再びストーブをつけた漱石は、子供たちとともに声を合わせて唱歌をうたった。「もういくつ寝るとお正月~」滝廉太郎作曲の明るいメロディに、ふと哀調がまぎれこむ。幼い末娘の雛子を失って初めての正月が、まもなくやってこようとしていた。

細かすぎて伝わらない関連動画など

(「ガスストーブ」「歌」で動画検索してみました!!)

●ガスファンヒーターの歌(借りモノ)

※心もホッコリ暖ったまりますなー。
 ハタサトミさんが歌う大阪ガス限定ガスファンヒーターの歌デス。

●四国ガスグループCM「ガスファンヒーター」篇 30秒


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ジョニーAのつぶやき:ストーブの歌って、めちゃんこいっぱいあるんだ・・・、ビックリ!



☆さ~~て、本日12月14日(金)の、「元気が出る言葉」は~?

『知恵のある人。知恵を出す。金のある人、金を出す。物のある人、物を出す。命ある人、命出す。四つが組んで頑張れば、世界の砂漠は緑化する。』
出展:?
発言者:遠山正瑛 (農学者 1906年12月14日~2004年2月27日)
『解説:遠山正瑛のような人が、世界が尊敬した日本人といえるのだろう。遠山は地球の温暖化・砂漠化の中、中国・ゴビ砂漠に300万本ものポプラの木を植え、緑を復活させた奇跡の男なのだ。と紹介するのは簡単だが、遠山は65歳の大学退官後に、昼は40度、夜はー10度という環境の中、10年以上、毎日毎日、黙々と植え続け、誰もが不可能と思った緑化を成功させるのだ。彼の原点には、日中戦争体験がある。遠山は緑化し、食料を増産し、世界平和も訴え続けた。』

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◎関連書籍、楽曲、映画(ドラマ)などなど・・・

Japanese.CHINA.ORG.CN 日本人はなぜ砂漠に植林するのか 2012-01-10 11
『20年ほど前、中国で砂漠緑化の父と呼ばれる83歳の日本人・遠山正瑛氏は、内蒙古の恩格貝(エンゲルべい)で植林を始め、97歳で亡くなるまで14年間も続けた。その植林事業は今も日本沙漠緑化実践協会に参加する数多くの日本人に受け継がれている。協会の名前が「砂漠」ではなく、「沙漠」と書くのは、砂漠の地下に水があるからこそ植えた木が生きられるのだと、協会の人々が確信しているからだという。
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かつて、遠山正瑛氏の恩格貝での植林目標は300万本だったが、協会の努力のもと、すでに360万本の植林が達成された。植林の参加者たちは、砂漠に行くたびに変化を感じている。まず、植えた木は太くなり、緑は濃くなった。「植えたばかりの木はせいぜい直径3センチくらいですが、20年前から続けているため、最初のころのものはすでに20―30センチになりました。最初に行ったときは一面平らな砂漠だった場所が、今では東西16キロで、南北10キロの広大な森林になっています」と松村さん。植林した場所には、草も生えるようになった。「列車に乗ると、かつての茶色の山が、今は下のほうが濃い緑が、頂上を薄い緑が取り囲む状態になっているのが見えます」。恩格貝の道端には遠山正瑛氏の像が立っている。作業着姿で、シャベルを手に持ち、ゴム長靴を履き、視線を遠方に向けている。彼が足跡を残した砂漠に、今では数多くの日本人が訪れ、植林することによって人類の平和に貢献したいという彼の遺志を受け継ぎ、黙々と緑を育て、自らの行動で砂漠の生態を改善し、人類の住む地球の再生を目指している。「人民中国」より』

プロジェクトX 遠山正瑛 (17分)


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※神々しいお顔です。。。

☆本日の、『日めくり漱石』は・・・
サライ 「夏目漱石」の記事一覧

“生徒の風儀は、教師の感化で正していかなくてはならん(『坊っちゃん』より)”

明治25年(1892)12月14日、25歳の漱石】子規からの手紙で意外な事実を知らされ驚く

今から124年前の今日、すなわち明治25年(1892)12月14日、25歳の漱石は、高校時代からの友人である正岡子規から思わぬ内容の手紙を受け取り、夜になって返書をしたたむべく机に向っていた。子規からの手紙には、講師として東京専門学校(現・早稲田大学)の教壇に立つ漱石の評判があまり芳しくなく、生徒たちの間では排斥運動を起こうそうとしている者もいるらしい、といったことが書かれていた。漱石東京帝国大学の英文科に在籍する学生の身分ながら、一方で、この5月から東京専門学校の講師をつとめていたのである。漱石の講義を受ける生徒の中には、子規の従弟である藤野古白もいた。おそらくはその辺りが、情報の出所だったのかもしれない。

漱石にとって子規の手紙は意外だった。いわれてみれば、学校で使っているランプの蓋に、生徒の誰かによって「文集はサッパリ分らず」と悪戯(いたずら)書きされているのを見たことはあった。けれども、その程度のことはよくあることで、そんなものをいちいち気にしていたら教師などは1日もつとまらないと、漱石は打ち捨てていた。もちろん、経験は浅く、自身の教え方がうまいとは思っていない。生徒によっては、なかなか授業についてこれない者もいるかもしれない。だが、けっして漱石が手を抜いているわけではない。学校の決められた制度の中で、進めるべき講義を進めている。もともと2時間だった受け持ち時間を、生徒たちの希望によって3時間に増やした経緯さえある。排斥運動など、思いもよらなかった。

漱石は返書に綴った。《生徒が生徒なれば辞職勧告を受てもあながち小生の名誉に関するとは思わねど、学校の委托を受けながら生徒を満足せしめ能(あた)わずと有ては、責任の上また良心の上より云うも心よからずと存候間、この際断然と出講を断わる決心に御座候》/子規のいうところが事実なら、すぐにも、文学部の責任者たる坪内逍遥に辞表を提出する気持ちにもなっていた。

漱石はこの3日後、子規のもとを訪ね、直接話を聞き、事情を確かめた。その後、学校側にも聞き合わせてみたが、生徒たちからとりたてて問題提起はなく、漱石も辞表を提出することはなかった。どうやら子規は、小耳にはさんだ噂話に過剰に反応し、取り越し苦労をしたものと思われた。それもこれも、相手のことを我が身のように慮るからこその行き違い。漱石と子規、まことの親友だった。

細かすぎて伝わらない関連動画など

(「報告」「排斥」で動画検索してみました!!)

●「海角七号」のラストシーン~時を超えた「野バラ」の合唱

・「海角七号」(2008年 魏徳聖監督)は、台湾映画史上最大のヒット作となった。日本統治時代から60数年を経た今、戦前と現在の日台のラブストーリーが描かれる。「野バラ」は日本統治時代に省歌として唄われ、戦後の中国国民党独裁時代においても、ドイツの歌曲であるが故に禁止されることはなかった。(日本の曲はすべて排斥された。)つまり、時空を超えた、日台共通の歌なのである。

●中国が世界にネット検閲を強要 米シンクタンクが指摘


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ジョニーAのつぶやき:ネット検閲システム「防火長城(グレート・ファイヤーウォール)」恐るべし・・・



☆さ~~て、本日12月15日(土)の、「元気が出る言葉」は~?

『空の青さをみつめていると 私に帰るところがあるような気がする/どんなよろこびの ふかいうみにも ひとつぶのなみだが とけていないということはない』
出展:前者「六十二のソネット41」(角川書店)/後者「黄金の魚」(講談社
発言者:谷川俊太郎 (詩人 1931年12月15日~)
『解説:谷川俊太郎は21歳に出した詩集「二十億光年の孤独」(1952年)で脚光を浴び、以来60有余年、一貫して詩人であり続けている。私たちが知っている日本の詩人の多くが戦前に活躍した人たちだが、戦後これだけ多くの詩や童話、散文で表現し続けている詩人は彼だけだ。紹介するのは、翌1953年発表の「六十二のソネット」からの有名なフレーズ。もう一つはそれから40数年後の作品だ。いずれも谷川らしく心にしみる言葉。ぜひ谷川作品から心に残る詩を見つけてほしい。』

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◎関連書籍、楽曲、映画(ドラマ)などなど・・・

Amazon 二十億光年の孤独 (集英社文庫) 谷川俊太郎(著), 川村和夫(翻訳), & 1 その他
『■内容(「BOOK」データベースより):ひとりの少年が1対1で宇宙と向き合い生まれた、言葉のひとつぶひとつぶ。青春の孤独と未来を見つめ、今なお愛され続ける詩人の原点を英訳付の二カ国語版で初文庫化。著者18歳の時の自筆ノートを(一部)特別収録。
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■登録情報:/文庫 272ページ /出版社 集英社 /言語 日本語 /ISBN-10: 9784087462685 ISBN-13: 978-4087462685 ASIN: 4087462684 /発売日 2008/2/20 /梱包サイズ 15.2 x 10.6 x 1.6 cm /おすすめ度 5つ星のうち 4.5 /■カスタマーレビュー: パンと見世物 5つ星のうち5.0 「谷川俊太郎の処女詩集の初文庫化です」2008年3月1日・・・詩人谷川俊太郎の記念すべき出発点となった昭和の名詩集『二十億光年の孤独』が文庫本でお目見えするのは、なんとこれがはじめてなんだそうです。意外な気がします。いまから半世紀も昔に、太平洋戦争の敗戦国でまだ貧しかった日本の、二十歳そこそこの若者が出版したとは信じられないくらいに、みずみずしい抒情と快活な才気に富んだ詩が50篇。当時の詩壇の大御所だった三好達治が序詩を寄せて絶賛したことも納得できる、画期的で清新な詩集です。処女作には作家のすべてがあるとしばしばいわれますが、この詩人の場合も、現在にいたる旺盛な詩作の拡がりと深まりの萌芽をここに見いだすことができるのではないかしら。本書には、表題の詩集のほかに、読解の助けになる貴重な文章がいくつか、草稿となった自筆の大学ノートの一部の写真版、それから高校程度の英語力があれば読めそうな全収録作品のやさしい英訳までも附録についていて、文句のつけようがない充実ぶりです。これはおすすめ。』

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谷川俊太郎「二十億光年の孤独」Shuntaro Tanikawa【詩・朗読:牧野理香】


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※これは有名なフレーズですねえー。

ほぼ日ブックス
『本になった『谷川俊太郎質問箱』は、連載の内容に新しい質問を加えて、全部で64個の質問と答を掲載しています。巻末に、谷川さんと糸井重里の対談を加え、ほぼ半分が本のための書き下ろしの、192ページの本になりました。また、谷川俊太郎さんに「ぜひ質問がしたい」という谷川さんの「お友だち」のみなさんにも質問を寄せていただき、谷川さんが答えています。「お友だち」からの質問は、ムービーでもごらんいただくことができます。このページのバックナンバー(下のほうにあります)をごらんください。』
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糸井重里さんとの癒着が露骨だ。。。

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※これ、大好きな絵本♪

☆本日の、『日めくり漱石』は・・・
サライ 「夏目漱石」の記事一覧

“かの地の模様をかいて遥々と二三回長い消息をした(『吾輩は猫である』中篇自序より)”

明治34年(1901)34歳の漱石】留学中の夏目漱石、ネタを探してロンドンの町を歩き回る

今から115年前の今日、すなわち明治34年(1901)12月15日は日曜日だった。ロンドン留学中の34歳の漱石は、忙しい勉強の合間を縫って、ハイド・パークへと出かけていった。日本への通信の種を拾うためであった。少し前、東京・根岸で病床に伏す親友の正岡子規から、漱石のもとへ手紙が届いていた。はるか海を越えて、ひと月半余りかけて渡ってきた手紙であった。

《僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヤウナ次第ダ》そんなふうに書き出された手紙の中には、こんな一節もしたためられていた。《僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガッテ居タノハ君モ知ッテルダロー。ソレガ病人ニナッテシマッタノダカラ残念デタマラナイノダガ、君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ往タヨウナ気ニナッテ愉快デタマラヌ。若(も)シ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ(無理ナ注文ダガ)》

漱石は子規のために、ぜがひでも手紙をかかねばならなかった。いまさら、へたな慰めの言葉などいらない。できるだけ明るい調子で、ロンドンの日常の話題を伝えたい。漱石はそう思っていた。日曜日のハイド・パークでは、いろいろな者が大道演説をしていた。キリスト教徒が「アーメン」と唱えているすぐ傍らで、無神論者が「地獄? 地獄とは何だ。もし神を信じない者が地獄に落ちるなら、ヴォルテールも地獄にいるだろう」などと演説している。

セント・ジェームス・ホールで、日本の柔道家と西洋のレスラーとの試合があると聞きつけ、出かけていったのも、この日だった。一番安い席(日本円で50銭ほど)は売り切れてしまっていたので、漱石は1円25銭ほどを奮発して入場した。だが、試合をしている者の顔など、とてもわからないくらい遠く離れている。日本の相撲でいう「砂かぶり」のような特等席へは、5円とか6円の大枚をはたかなければ座れないのだった。肝心の柔道家とレスラーの試合は、予定が後れて時間がとれなくなり、とうとう中止となってしまった。その代わりに漱石が観戦したのは、スイスのチャンピオンとイギリスのチャンピオンによるレスリングの試合だった。

馴染みがないから、どうしても漱石にはぴんとこない。この3日後(12月18日)に漱石が書いた子規宛て書簡には、こんなふうに綴られる。《西洋の相撲なんて頗(すこぶ)る間の抜けたものだよ。膝をついても横になっても逆立をしても両肩がピタリと土俵の上へついて然も一二と行司が勘定する間此ピタリの体度を保って居なければ負でないって云うんだから大に埒のあかない訳さ。蛙のやうにヘタバッテ居る奴を後ろから抱いて倒さうとする、倒されまいとする。坐り相撲の子分見たような真似をして居る》

だが、夜中の12時近くまでかかったその試合の記事が、翌日の朝刊には紹介されていて、漱石はその迅速さには大いに驚いた。《こつちの新聞なんて物はエライ物だね》これが、漱石から生前の子規に届いた、最後の手紙だった。

■今日の漱石「心の言葉」
かの地の模様をかいて遥々と二三回長い消息をした(『吾輩は猫である』中篇自序より)

細かすぎて伝わらない関連動画など

(「ハイドパーク」「演説」で動画検索してみました!!)

●ロンドン ハイドパーク


●イギリスでは群集に向かって何をしゃべってもいいという公園がある。

・毎週日曜日になると、我こそは!という演説自慢の人々がやってきて
熱弁を振るいます。何をしゃべっても 咎められることはありません。

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※この公園では、落ち着いて休むってことは無理っぽいな~w

ジョニーAのつぶやき:優秀なアーティストたちの競演・・・。人のふんどしで相撲シリーズ、終了~~~~~!