ブログ移行期間 /ガスト&くら寿司

☆姫路駅前の「ガスト」と、飾磨の「くら寿司」へ初見参!!




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☆「プロレス今日は何の日」と「漱石と明治人のことば」をお届け~♪

(詳細は、1月1日の日記を参照のこと!)

☆さ~~て、本日6月2日(日)の、「プロレス記念日」は~?

年度・団体【1983年・新日本・蔵前国技館
カテゴリー【事件】
見出し:『猪木舌出し失神事件』
『解説:リアルワールドチャンピオンを決める、トイウコンセプトで始まったIWGP。新日本参戦時のホーガンは猪木とタッグを組むことでそのカリスマ性やベビーフェイスとしての姿勢を間近から観察し、採り入れて自身のスタイルを確立。粗削りなパワーファイターは洗練され、猪木の前に立った。/終盤、場外戦で猪木は後頭部にアックスボンバーを食らい、頭を鉄柱に打ち付ける。なんとかエプロンに上がったものの、そこへリング場を突進したホーガンが「アックスボンバー三つ又の槍!」(by古館アナ)を炸裂させると、もんどりうってリング下へ転落。そのまま動けず、21分27秒、ホーガンのKO勝ちに。/猪木は舌を伸ばした状態で失神しており、病院へ搬送。その夜のニュース番組でも事件として報じられた。/翌年以後も毎年IWGPリーグ戦が行われ、87年の第5回を猪木が制したところで初代ヘビー級王者に認定。タイトルとしての歴史をスタートさせた。』

◎関連書籍、ニュース記事、試合動画、など。

●負け名勝負ベスト10 (12分38秒~)


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※これはガチで痛そうだ。。。

●闘魂注入ラインスタンプ


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※この「一寸先は・・・」ていうの、好き♪

☆本日の、『漱石と明治人のことば』は・・・
漱石と明治人のことば目次

【今日のことば】「死んでから、お前と別々になるのは不便だからな」――大原總一郎

【解説】
大原總一郎は、明治42年(1909)生まれ。父親の大原孫三郎は、倉敷絹織、倉敷紡績の社長をつとめ、大原美術館、倉敷中央病院、大原社会問題研究所などを創設した関西実業界の大物であった。

経済学者の大内兵衛のこんなことばが残っている。「金を儲けることにおいては大原孫三郎より偉大なる財界人はたくさんいた。しかし、金を散ずることにおいて高く自己の目標を掲げてそれに成功した人物として、日本の財界人としてこれくらい成功した人はいなかった」

美術館や研究所などが、その志高い「散財」の対象だというのであった。大原總一郎は、29歳の若さで、父・孫三郎からこれらの事業を受け継いだ。しかし、単なる継承者ではなかった。実業家として、日本独自の研究開発である新しい合成繊維のビニロンの工業化を実現した。一方で美術館には、ピカソ、ルオー、ミロ、ブラックなどの現代美術の秀逸のコレクションを加えた。のちに日本を代表する版画家となる棟方志功を逸早く見いだし、育て上げたのも大原總一郎だった。

高い識見を持って企業の責任や文化貢献の必要性を語り、それを世界的な視野で実践したという意味で、大原總一郎には父に優るとも劣らぬスケールの大きさがあった。また、生まれ故郷である倉敷を愛し、「倉敷を日本のローテンブルクにしよう」と提唱し、美しい街並みづくりにも貢献した。南ドイツの古都ローテンブルクの美しさは、世界各地を回った總一郎の目にも、とくに印象強く残っていたのである。

そんな大物の生涯は、さして長くはなかった。昭和43年(1968)、58歳での病没。亡くなる10日前、大原總一郎は入院先の病室でカトリックの洗礼を受けた。カトリックの信者である夫人の勧めによるもので、その際に呟くように言ったのが掲出の台詞であったという。告別式は、愛した倉敷の大原美術館の中庭でとりおこなわれた。

細かすぎて伝わらない関連動画など

(「大原總一郎」「美術館」で動画検索してみました!!)

●≪美しい経済人 大原總一郎≫ ダイジェスト版


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●倉敷の礎を築いた大原孫三郎 高梁川流域デジタルアーカイブ


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ジョニーAのつぶやき:「猪木失神舌出し退場」は、会場まで取り立てに来ていた借金取りから逃げるためであり、そのことがわかって坂口征二の「人間不信失踪事件」に繋がるんだわな~~。