『ムーンライト』
■スタッフ:/監督 バリー・ジェンキンス /製作 アデル・ロマンスキー デデ・ガードナー ジェレミー・クライナー /製作総指揮 ブラッド・ピット サラ・エスバーグ タレル・アルビン・マクレイニー /原案 タレル・アルビン・マクレイニー /脚本 バリー・ジェンキンス /撮影 ジェームズ・ラクストン /美術 ハンナ・ビークラー /衣装 キャロライン・エスリン=シェイファー /編集 ナット・サンダース ジョイ・マクミロン /音楽 ニコラス・ブリテル
■キャスト:トレバンテ・ローズ(シャロン/ブラック) アンドレ・ホランド(ケヴィン) ジャネール・モネイ(テレサ) アシュトン・サンダース(10代のシャロン) ジャハール・ジェローム(10代のケヴィン) アレックス・ヒバート(シャロン/リトル) マハーシャラ・アリ(フアン) ナオミ・ハリス(ポーラ)
■作品データ:/原題 Moonlight /製作年 2016年 /製作国 アメリカ /配給 ファントム・フィルム /上映時間 111分 /映倫区分 R15+
☆受賞とノミネート[ウィキペディアより]
・・・第74回(英語版)ゴールデン・グローブ賞で、『ムーンライト』は6部門のノミネートを受け、『ラ・ラ・ランド』(7部門)に次いで2番目となった。作品は映画部門 作品賞 (ドラマ部門)を獲得したほか、監督賞(ジェンキンス)、映画部門 助演男優賞(アリ)、映画部門 助演女優賞(ハリス)、脚本賞(ジェンキンス)、作曲賞(ブリテル)の5部門にノミネートされた。/第70回(英語版)英国アカデミー賞では、作品賞・助演男優賞(アリ)・助演女優賞(ハリス)・オリジナル脚本賞の4部門にノミネートされた。/第89回アカデミー賞では、作品賞、監督賞(ジェンキンス)、助演男優賞(アリ)、助演女優賞(ハリス)、脚色賞など8部門でノミネートを受けた。また、ナット・サンダース(英語版)とジョイ・マクミロン(英語版)が編集賞にノミネートされ、マクミロンはこの部門で初めてノミネートされた黒人女性となった。最終的に作品賞・助演男優賞・脚色賞の3部門を獲得したが、作品賞の発表時に誤って『ラ・ラ・ランド』受賞がコールされるというハプニングがあった・・・。
※アカデミー作品賞を観る時、得てしてハードル上がり過ぎて、「ポカーン」と
いう経験がこれまで何回もあるもんで、フラットな気持ちで臨んだよーー。
映像が美しいなー、とは感じたが、ストーリーにはあまりグッとくるところ
無く・・・。LGBT(性的マイノリティ)映画って、アカデミー賞になり易そう
だもんなーーー、みたいなうっすらした感想しか抱けなかった。。。何度か
観てるうちに良さがわかってくる類のスルメ映画なのだろうかー??
→ 『「Indiewire」のエリック・コーン氏は「Moonlight」について「ゲイ映画というよりはむしろアメリカ史の転機において疎外感を具現化した作品」だと評しています。「オバマ時代が終わりを告げようとし、多様性という言葉をキーワードにした人種問題に関する議論が最高潮を迎えているこの重要な節目に、これまで黒人映画では放っておかれた領域に踏み込んだ目を見張るような映画が登場した。「Moonlight」は怒りや苛立ちを純然たる親密さに転換する。息の詰まるような世界を描いたこの魅力的なポートレートにおいて、唯一の潜在的なカタルシスはシャロンが自分はこうなりたいのだと強く願い、その感情を認識することにある。地味なトーンではあるものの、この映画はより自由に意見を言い合える未来を照らすかがり火なのだ」
一方、主人公のシャロンが作品を通してずっと無口であることに着目し、ジェンキンス監督がその静けさを見守り、尊重している点を本作の魅力として挙げているのが「LAタイムズ」のジャスティン・チャン氏。「シャロンは3つのパートでそれぞれ異なる俳優によって演じられているが、だからこそその感情の連続性は非常に素晴らしいものになっている。主人公がひとつの岐路を経たことが身体的な変化として示される部分もあるものの、ひとりの俳優は他の2人が持つ身体的特徴を特に引き継いではいない。にもかかわらず、彼らはそろって無口で情熱的だ。ジェンキンスのこの演出は非常に的を得たものだ。彼は映画を観る者に、過去のシャロンの外見、アイデンティティの表面を見るように促しているのだ。固定概念を乗り越え、主人公の内面を外見から切り離して考えさせるために。(中略)この作品は多くを語ってはいないが、全てを語っている」』
※公開前から、ひっそりと高評価だったミタイダーーー♪
→ 『カラリストのアレックス・ビッケルさんはですね、さらに少年期、青年期、成人期。これ、三部でできているんですけど、それぞれを異なるフィルムの質感を、もちろんデジタル的に再現して描き分けしていると。フジフィルム的な質感、アグファフィルム的な質感、コダック的な質感っていうのをデジタル的に再現して、というような、そういう描き分けもしているということで。要はね、デジタルカメラ時代だからこその映画的表現の広がりっていうのを追求しているという意味でも、この『ムーンライト』は結構革新的な一作というか。だからこれがアカデミー作品賞っていうのは結構歴史的に意味があるなという。デジタルカメラでやる映画的表現っていう……フィルム的表現まで含めた、デジタルカメラ表現の可能性、みたいなものを示しているということですね。(中略)
3人のシャイロンの演じ分け……別の役者がやっているわけですけど、その3人それぞれを、顔合わせとかさせずに、要するに演技の打ち合わせとかをあえてさせず、全く異なる人物としても見えるようにあえて演出したというのがバリー・ジェンキンスさんの今回の狙いだったようですけどね。ということで、このすっかりドラッグディーラーとして一応は成功しているらしいシャイロンくん。彼の矛盾した人生を象徴するかのように、いろんな過去の、彼がなぜこうなったか? の片鱗があるわけですよね。車には、幼い頃にかわいがってくれたフアンっていう、やっぱりドラッグディーラーですよ。彼と同じような人になっちゃっているわけですけどね。(そのフアンがしていたように)王冠、これがダッシュボードに置いてある。
一方、ナンバープレートの文字は「BLACK」。あのケヴィン。彼が唯一心を開いた相手であるケヴィンとの思い出の名称である「BLACK」。「あっ、お前、引きずっているじゃねえか、全然!」っていう。それがナンバープレートに表れていたりとか、ということで。ただ、かつて子供時代にかわいがってくれたドラッグディーラーのフアンと彼が違うのは、やっぱりシャイロンは、1人なんですよね。で、彼は、忘れようとしていた過去から呼び出しがあって、改めてそこに向き合う。しかも、その向き合う時に、ここがいいなと思うんですけど、改めてドラッグ中毒だったお母さんとも向き合うことで……ある意味、自分の人生をこうしてしまった人、お母さんを、まず「許す」っていう。その段階を経てから、本当に向き合うべき過去、あるいは本当に許すべき誰か、そして本当の自分に、会いに出かけて行くという、終盤の展開があるわけですね。』
※もう、宇多丸氏の、音楽に関する蘊蓄は難しすぎてわっかりましぇ~ん!全省略。
やはり、映像美や挿入ミュージックに関しては、ツウにしかワカラン(気付かん)
レベルの深みを持っているんでしょうて。。。まだまだ甘ちゃんですワ、ワチクシはー。
→ 『まず、この映画が「ゲイ映画」という括りでいいのか? という問題から。確かに、シャイロンとケヴィンの性的交渉を伴った関係が物語を貫く軸の一つとして描かれています。しかし、単純に「ゲイ映画」と言い切ってしまうことには少々疑問が湧きました。子供時分から性的に進んでいたケヴィンですから、高校時代に幼馴染で奥手なシャイロンに性的いたずらを仕掛けるというのは割に不思議ではないこと。思春期の男子同士での性的なじゃれあいは、日本でもよく聞く話であります。その翌日に巻き起こった騒動でシャイロンの人生を変えてしまったという罪悪感をケヴィンは引きずって生きてきたでしょうし、成人したある日、贖罪の気持ちで電話をかけただけのようにも思えます。/一方、シャイロンはどうでしょう?子供の頃から”faggot” (ホモ、オカマ)と罵られいじめられてきましたが、それはチビで貧弱で、かつ歩き方に由来するものであり、当時のシャイロンが男に対して興味を抱くような描かれ方は全くされていません。そんな奥手なシャイロンが性的に目覚め始めた高校時代に見る悪夢は、ケヴィンが女性と性交渉している現場を見てしまうこと。その後、ケヴィンとじゃれあい程度の性的交渉があった以降、超マッチョな大人の男に成長した後も誰とも性的交渉を持っていないシャイロンは告白します。見るからにフェロモン剥き出しのシャイロンの人生で、ケヴィンとのじゃれあい以降、誰とも性交渉がないというのは、彼をゲイとして考えると非常に不自然な印象が残ります。
”シャイロンの性的指向は男に向いているのではなく、幼馴染のケヴィンにしか向いていない。”こう考えると、シャイロンの言葉も説得力を持って聞くことができます。(シャイロンがその言葉を知っているかどうかは別にして)彼のセクシュアリティは「ゲイ」と言うよりも「デミセクシュアル」であると考える方がしっくりくるのです。≪※デミセクシュアル・・・強い感情的な絆がすでに築かれている関係の場合にのみ、人に対して性的に惹かれる(Asexualityarchive.com より≫ /ここで、初見の時には「禍福は糾(あざな)える縄の如し」の禍(不幸)が多すぎたシャイロンの人生に少しばかりの幸福が現れたエンディング、だという印象が大きく変わってきました。ケヴィンからのいきなりの電話を受けて、明らかに喜びを表すシャイロンは、まるで初デートに向かうティーンの男子のごとく、いそいそとアトランタからマイアミのリバティシティまで数100キロも車を飛ばしてケヴィンに会いに行きます。再会した瞬間、ケヴィンは明らかに動揺を見せます。それはそうでしょう、長く引きずってきた罪悪感をやっと謝罪することができ「いつか再会することがあったら」という前提で話した旧友が、電話してから程なく目の前に現れたのですから。甘っちょろいロマンティストの僕は、初見時にはケヴィンもシャイロンに対して何らかの愛情を抱き続けてきた、と思い込んで見てしまっていたようでした。(後略)』
※ゲイ映画は、普遍的な人間同士の愛に心打たれるか、「自分とは関係ないかな」
と感じてしまって無反応に終わるか、の2つに1つやわーー。
ナガの映画の果てまで 【解説】映画「ムーンライト」なぜこんなにも映像が美しいのか?
→ 『本作は主人公シャロンの成長を3つの時期に分けて描いていると最初に書きましたが、その時期ごとに3つの異なる色彩演出を施しているんですね。本作はすでに挙げた通り、デジタル撮影にはなるんですが、カラーリストの技術によってフィルム撮影の模倣的な演出を施しているんです。しかも、3つの時期ごとに異なるフィルムの模倣を施しているので脱帽です。 (つまり、いろいろな映画用品メーカーのフィルムの内で、本作の作風に合うものをチョイスして、デジタル撮影でありながら、人工的にフィルム撮影風の映像を作りあげているんですね。そしてその際にフィルムの特徴を反映させているわけです。) /①幼少期:フジフィルム(暖かみがあって、肌の質感をより引き出せるのが特徴です。)
/②10代:アグファフィルム(これは古くに廃業されてしまったドイツのフィルムメーカーのフィルムなのですが、画面の明るい部分にシアン(青緑色)を加える事ができるという特徴を持っているそうです。)
/③成人期:コダックフィルム(アメリカに拠点を置く世界最大の写真用品メーカーの製品で、控えめになることなく、映像にポップさと輝きを付与できる点がメリットだということですね。)
このように異なるフィルムを模倣した演出が成されていることも、映像美に一役買っていますし、何より3つの時期で映像のトーンが変化するという点に着目すると興味深く映画を楽しむ事ができるのではないかと思います。』
※なるほど、そういうこだわりがあったのネン~~。
eiga.com ベン・アフレック、監督・主演作「夜に生きる」は「偉大なギャングスター映画へのラブレター」
→ 『アフレックの創作意欲はまったく尽きる気配が見当たらない。「“ムーンライト”を見て、“クソ! こういう映画を作るべきだった”って思ったよ、マジで(笑)。誰かの人生について描いた、演技が光る映画を作るべきだと思ったんだ。あの映画を見て本当にぶっ飛んだよ、最高だ。僕は、彼(バリー・ジェンキンス監督)と知り合いでもなかったんだけど、どうしてもそれが伝えたくて、彼にEメールを送ったくらいだった。“あなたは最高の監督です。大ファンです。この作品は傑作です”ってね。」』
※「羨ましい」という感情が沸き上がるのは、ソッチ方面に才能の萌芽があるときだ、と聞いたこともあるゾ~。いつの日か、ベン・アフレック主演・監督のゲイ映画が観られるかもネーー。ベン・アフレックと親友・マット・デイモンの超友情・・・。若干、興味あるかもーーwww
ホテルの従業員を飴で買収しようとして・・・ |
『ベリベリワイロ』 |
【その他、出川のつぶやき・・・「セレブが泊まるホテルはこんななりでは入れない」「ジャパニーズ・キャンディー」「ベリベリワイロ ベリベリワイロ」】
・有名人とツーショット撮影をする企画「パパラッチ出川」にてホテルのドアマンにアメを渡して有名人の情報を得ようとした時に言った言葉。
→ 『ミラ・ジョボビッチ(Milla Jovovich)を待ち伏せしているとき、哲ちゃんはある行動に出ます。彼女が宿泊するであろうホテルのドアマンに話しかけ、日本から持ってきた飴を彼にあげます。明らかに狙っているのがバレバレな「賄賂行為」です。それから会話を続けていくうちに、ドアマンは少しずつ哲ちゃんに巻き込まれていきます。気付けば周りに他のホテルマンやガードマンも加わる始末。みんな哲ちゃんのテリトリーに入ってしまいました。
ミラがやって来ると案の定ガードは緩く、写真を撮ったり会話したりとパパラッチは大成功に終わりました。ミラ自身がとっても気さくな人だったから上手くいったのかもしれません。でも予め周りを固めていった、哲ちゃんの策士の面があったからこそ上手くいったんだと思います。』
“紙一枚の差” |
「社会に対する責任ということを同じように考えてやっていても、その徹し方には差がある。一方は「これで十分だ」と考えるが、もう一方は「まだ足りないかもしれない」と考える。そうしたいわば紙一枚の差が、大きな成果の違いを生む。もう十分だと考えると、苦情があっても「ああ言うが、うちも十分やっているのだから」ということになって、つい反論する。けれどもまだ足りないと思えば、そうした苦情に対しても敏感に受け入れ、対処していくということになる。そういうことが、商品、技術、販売の上に、さらに経営全般に行われれば、年月を重ねるにつれて立派な業績を上げることになるわけである。」
・島にやってきたお金持ちのドビン・ポットが歌った不幸と幸せ紙一重