漫画タイトル「ニューヨークへ」

毎日新聞 りえさん手帖

毎日新聞 2018年3月19日 東京朝刊


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※「はじめてのおつかい」みたいに、西原さんがこっそり後をつけて行って、

黙って漫画化するつもりなんじゃあ?


☆最近は全く更新されなくなった、西原ブログ「太腕繁盛記」だが、、、

青山浩と西原理恵子の太腕繁盛記 第34回 たまには純広漫画です

※スピンオフ的なコッチのブログはかろうじて続いてるなっ!

 ペッチーーン!(カミナリのどつき漫才のごとき張り倒し音、挿入!)


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●おかん飯:西原理恵子枝元なほみ「エノキとシュンギクかき揚げ」



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※お金がないときは、てんぷらに限る♪つまみ食いエダモン。


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※またぞろ、フリーメイソンの選挙で、位が上がったらしきかっちゃん♪


☆・・・なぞとブー垂れてたら、西原ブログ、更新されてやしたっ!

西原ブログ お久しぶりです。

『ずいぶんブログさぼってました。さぼって帰りづらくなっておりました。反省しております。写真は反省してなくてすいません。おなかぬくいわーの文田さんです。文田さんでごまかしております。』


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●落札理由が凄かった



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Abema TIMES 高須院長、3000万円で落札した『昭和天皇独白録』を開封 2018.02.21

高須クリニック高須克弥院長が、19日に更新した自身のアメブロで、米ニューヨークの競売で落札した『昭和天皇独白録(しょうわてんのうどくはくろく)』の原本を宮内庁に届け、開封したことを報告した。高須克弥オフィシャルブログより

昭和天皇独白録』は、昭和天皇が戦前、張作霖爆殺事件から先の大戦終戦に至るまでの経緯を1946年に側近に対して語った談話をまとめた記録。独白録の内容は1990年代に日本で出版され、大きな反響を呼んだ。昨年12月に約170ページ分が米ニューヨークで競売に出され、高須氏が3000万円余りで落札した。

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  「竹田先生のお世話で昭和天皇独白録を宮内庁陵部に運び開封することになった」と、明治天皇の玄孫(やしゃご)で作家の竹田恒泰氏の車で移動する様子を公開した高須院長。パートナーで漫画家の西原理恵子氏も同席したことも明かした。続けて高須院長は宮内庁の職員が輸送の荷ほどきをする様子や、「梱包の釘に興味を示す」と10cmほどの長い釘に興味を示す西原の様子も紹介。姿を現した原本の内容などを写真で一部公開し、「昭和天皇の生々しい玉音が拝見なう」とつづった。高須院長は落札にあたり「国の宝を取り返さないといけない」とコメントしており、「日本に戻せたのは かっちゃん先生のお陰です」「有言実行なさった高須先生 すごい、凄すぎです」「改めてかっちゃん先生を尊敬致します!」など、読者から称賛の声が寄せられている』


スペリオール最新号より。。。

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●『炎上上等』高須クリニックのVIPルーム公開!高須院長、チベットを語る!



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※院長!また外国の政治に首突っ込んでると西原さんにドヤされますゾッ!




☆書籍「元気が出る言葉」&サライ「日めくり漱石」をお届け♪

(詳細は、1月2日の日記を参照のこと!)


☆さ~~て、本日3月21日(水)の、「元気が出る言葉」は~?


『「できること」が増えるより、「楽しめること」が増えるのが、いい人生。』
出展:NHKワンセグ2「モタさんの“言葉” 第43話」
発言者:斎藤茂太精神科医、随筆家。 1916年3月21日~2006年11月20日

『解説:通称モタさん、歌人斎藤茂吉の長男にして、作家北杜夫の兄、斎藤茂太精神科医だが、多くの随筆本の著者として人気がある。名言の数々もあり、2012年からNHKワンセグ2でミニ番組「モタさんの“言葉”」の放送が開始された。そのなかのひとつを紹介する。いかにもモタさんらしいウィットの効いた前向きな言葉だ。できることが多いからと言って、人生が楽しいわけではない。楽しいことを増やす、そう考えると生き方に余裕と行動力が増してくる。』


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◎関連書籍、楽曲、映画(ドラマ)などなど・・・


☆他にも、名言いーーっぱい!

斎藤茂太の名言・格言

『多くの悩める人を勇気づけた「心の名医」として、日本精神病院協会の名誉会長などを務めながら、執筆や講演活動もおこない、90歳で亡くなられるまで生涯現役を続けた。』


感動こそがストレスに負けない最大の秘訣。そして、長生きのコツでもある。
楽観的になりたいなら、客観的になることだ。
人生に失敗がないと、人生を失敗する。
人の顔を美しくする最高の美容術は、笑いである。
他人に花をもたせよう。自分に花の香りが残る。


※さりげなくて、心に残るフレーズが多いですねーー。


●3分で読める「人間関係で「キレそう!」になったら読む本」斎藤茂太



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※モタさんはタモさんと表裏一体?


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※「ゆっくり力」すなわち「モタモタする力」ってこっちゃね。


☆本日の、『日めくり漱石』は・・・

サライ 「夏目漱石」の記事一覧


“すべての創口(きずぐち)を癒合(ゆごう)するものは時日(じじつ)であるという格言を、彼は自分の経験から割り出して、深く胸に刻みつけていた(『門』より)”


【1887年3月21日の漱石】大好きだった長兄・大助との永遠の別れを悲しむ


今から129 年前の今日、すなわち明治20年(1887)3月21日、漱石は悲しい出来事に直面していた。長兄の大助が肺結核でこの世を去ったのである。31年と2か月の短い生涯だった。大助は色の白い鼻筋の通った美男で、漱石より10歳年上だった。漱石の頭の中には、兄弟としての親しみというよりも、大人対子供としての関係の方が深くしみこんでいた。まだ学生だった漱石は、病が重くなり自宅で病床についた大助の傍らに、よく付き添っていた。枕もとで兄の愛読書を読んであげたり、屏風の陰で自身の勉強のための書物を開きながら、徹夜で看病したこともあった。そんな漱石に、大助の側も、さりげない優しさを寄せた。


漱石は8人兄弟の末っ子。4人の兄と3人の姉があったが(うち2人は夭逝)、この大助にもっとも好もしい感情を抱いていた。四十九日の法要を終えてひと段落ついた頃、ひとりの女性が、夏目家を訪ねてきた。彼女はもともと柳橋(花街)の芸者で、元気だった頃の大助が馴染みにしていて、深い関係にあったというのであった。/山梨からやってきたというその女は、「兄さんは死ぬまで奥さんをお持ちになりゃしますまいね」と尋ねた。「しまいまで独身で暮らしていました」


夏目家三男の直矩(なおのり)がそう答えると、女はほっとした表情になり、「それを聞いてやっと安心しました。私のようなものは、どうせ旦那がなくっちゃ生きていかれないから、仕方がありませんけれども…」と呟くように言い、墓所のありかを聞いて帰っていった。/漱石は半ば夢見心地で、ただ女の後ろ姿を見送った。そうすること以外に、まだ21歳の若い漱石にはなにもできなかった。後年、不惑を過ぎ、人生の酸いも甘いも身をもって知った漱石は、折にふれ、この女性に再会して兄のことなどを物語ってみたいものだと、しみじみと思った。そして、そのことを、随筆『硝子戸の中』にも綴ってみるのであった。


細かすぎて伝わらない関連動画など

(「兄の死」「独身」で動画検索してみました!!)


鈴木蘭々 兄の死を語り涙...知的障害をわずらっていた



吉田拓郎の独身生活でヘロヘロ!妻の森下愛子に帰ってきてと毎日メール!



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森下愛子さんがロケで出張中のため独身生活を送る拓郎さん。 自ら作る朝ごはんについて紹介する。 台所に立つたびに、涙が・・・


ジョニーAのつぶやき:食器洗い中に感じる♪~人間なんてラララァララララ~ラァ~♪