おまけの一日~ジャンヌ・ダルクと夏目漱石~

☆書籍「元気が出る言葉」&サライ「日めくり漱石」をお届け♪

(詳細は、1月2日の日記を参照のこと!)


☆さ~~て、本日5月30日(水)の、「元気が出る言葉」は~?


『一度だけの人生、それが私たちのもつすべてだ。』
出展:?
発言者:ジャンヌ・ダルク(フランスの軍人 聖女 1412年1月6日~1431年5月30日)

『解説:人生は一度きりだ。そんなことはわかりきっている。しかし本当にそうだろうか?今ある、この人生こそが最初の人生であり、最後の人生なのだ。そう思うとなんだか、一日一日がいとおしくて、せつない。一度きりの人生で十分だと思いたい。そしてそれを使い切りたい。ジャンヌ・ダルクの言葉は、人生の確かな姿を、手のひらにすくい取ってみせる。彼女は信念をもって、フランスを救うべく自分の一度の人生を輝かせてみせた。』


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◎関連書籍、楽曲、映画(ドラマ)などなど・・・



『■内容紹介:「フランスを救え! ! 」。神の声を聞いた17歳の少女ジャンヌ・ダルクは、彗星のごとく歴史に登場し、わずか4カ月で対イギリス戦の戦況を一変させ、失意の王太子シャルル7世をフランス国王として戴冠させるが、19歳で火刑に処せられる。その活躍は、長いヨーロッパの歴史のなかでも、屈指の奇跡的事件とされている。大好評「皇妃エリザベート」「王妃マリー・アントワネット」につづく「歴史を変えた女たち」第3弾! !

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/■登録情報:/単行本 158ページ /出版社 創元社 /言語 日本語 /ISBN-10: 4422211625 ISBN-13: 978-4422211626 /発売日 2002/5/1 /梱包サイズ 17.6 x 12.6 x 1.4 cm おすすめ度:5つ星のうち 3.9 /■カスタマーレビュー: Amazon Customer 5つ星のうち5.0 「ジャンヌダルク知ってますか?」2002年5月30日・・・自分がジャンヌダルクに興味を持ったのは、浜崎あゆみのNew Singleであるfree&easyジャンヌダルクを題材にしていた、ということだった。イギリス・フランス間の百年戦争の中、神の声を聞き一人立った少女が、絶望していたフランス人に希望を与えるという偉業を行動して勝ち取った。しかし、イギリス側はこの少女の存在を聞き、ジャンヌダルクが捕虜になったとき、処女裁判という理不尽な質問責めにあうが、全てにおいてすばらしく、適切に答えた。それなのに、ジャンヌダルクを嫌ったイギリス側は男性の格好をしていたという一点で火刑にした。この時代、男性の格好はたいして問題ではなかった。ジャンヌダルクは自ら処刑台に立ち・・・・・この本を読んで、無意味な権力争いはすばらしい人材を消してしまう。ということを学んだ。是非、読むべきである一冊だと思います。』


浜崎あゆみ / Free & Easy (3分17秒)



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●映画『桃色のジャンヌ・ダルク』予告編



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※「桃色クローバーZ」に負けるなーーー!


ジャンヌ・ダルクになれそう


薬師丸ひろ子さんの『古今集』に収録!!

♬~鉄の鎧を身にまとう馬上の美少女 とても素敵 あなたのために

   私だっていざとなったら ジャンヌ・ダルクになれそう 愛しているから~


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☆本日の、『日めくり漱石』は・・・

サライ 「夏目漱石」の記事一覧


“好悪はある意味よりして人間の一部にあらずして人間の全体なり。理非曲直の嘴(くちばし)を入れて左右すべきにあらず(『文学論』より)”


【1912年5月30日の漱石】教え子から届いた中国の硯が壊れていて泣く


今から104年前の今日、すなわち明治45年(1912)5月30日、漱石は待ちかねていた硯を、ようやく手にしていた。それは、熊本五高時代の漱石の教え子である橋口貢が中国から送ってくれたものだった。当時、橋口貢は東大の政治科を経て外交官となり、清国湖北省沙市日本領事館に勤務していた。代金は為替で送るつもりでいたが、橋口貢からは、「弟の清へ渡してもらえば、弟が赤坂の留守宅の方へ届けてくれるので」といった趣旨を伝えてきていた。


貢の弟の橋口清は、一般には「橋口五葉」の名前で知られ、画家・装丁家として活躍。『吾輩は猫である』『草枕』『虞美人草』『門』など、多くの漱石作品の装幀を手がけることになった人物である。そもそものきっかけは、明治37年(1904)秋、漱石の紹介で雑誌『ホトトギス』に挿絵を描いたことだった。漱石は当初、『ホトトギス』の編集発行人である高浜虚子に、挿絵画家として橋口貢を推薦しようとした。漱石と貢とは、この頃、盛んに自筆の絵葉書をやりとりしていて、貢の描いた駱駝(らくだ)の絵が、虚子の求める誌面刷新のための挿絵のイメージと重なるように思えたのである。


ところが、漱石から話を聞いた貢は、自分より弟の清(五葉)の方が適任ではないかと返事をした。漱石は《御舎弟でも無論よろしく候》と返す。橋口五葉はまだ東京美術学校西洋画科に在籍する学生の身だったが、こうした経緯(いきさつ)から『ホトトギス』に挿画を描きはじめた。それが自然と、漱石の本の装幀の仕事へとつながり、そこから他の作家の本の装幀も手がけることになっていった。橋口五葉はこの後さらに、浮世絵研究にも精を出し、それを継承するオリジナルの木版画を制作し、「大正の歌麿」という異名を冠されていく。


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←仕事で中国に赴任していた橋口貢が、

現地から漱石に送った銅製香炉。漱石

は実際にこれを使って香を焚いていた

ようで、後年、この香炉から煙が立ち

のぼるさまを「筆立てと香炉図」に描

いている。神奈川近代文学館所蔵。


話を中国から届いた硯に戻す。漱石は以前から、本場・中国の文房具に興味と趣味を持っていた。東京にも行きつけの骨董屋があって時々覗いてみたりする一方で、たまたま現地に赴任するという橋口貢にも依頼して、香炉や鼎なども送ってもらっていた。その際、「硯もよいものがあればぜひ買い求めてほしい」と伝えてあった。師からのこの願いに応え、貢は仕事の合間を縫って、良品を探していた。/送られてきた硯は、なかなか趣深い逸品で、漱石は非常に嬉しく思った。値段は5円だったと貢からの手紙に書かれていたが、東京ではとてもそんな値段では買い求められないような掘り出し物に見えた。ただ、それだけに、運搬の途中で上蓋の前後が欠けてしまったのが残念で、涙が出るほど痛ましく感じられるのだった。


どこかで修繕できないものかと心にかけていたところ、ひと月ほど後、漱石は適当な店を探しあてた。早速、その唐木細工屋へ依頼して、欠けた上蓋を直してもらった。修繕の出来上がりは予期していた以上で、色合いも同じで継目もわからないくらい。漱石は橋口貢の好意にも報いられたような心地がして、ほっと安堵するとともに、いよいよ満足感を味わったのだった。


細かすぎて伝わらない関連動画など

(「橋口五葉」「挿絵」で動画検索してみました!!)


●橋口五葉展における鹿児島市長の開会あいさつ (2分27秒)


・開会の式典における森市長の挨拶である


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●有名な3名の浮世絵師による美人画15選!

  大正時代の世界も認める素晴らしい傑作集



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※独特の色気がある女体図でオジャル~。


ジョニーAのつぶやき:これからは挿絵にまで気を配って鑑賞するとしよう。。。