ブログ移行期間 /九州新幹線にミッキー!
→ 『九州新幹線で、ミッキーマウスが車体にデザインされた列車の運行が、17日から始まりました。17日は博多駅で出発式が行われ、テープカットのあと、応募して招待された100組の客を乗せた最初の列車が、鹿児島中央駅に向けて出発しました。車体には旅行カバンを持って楽しそうに旅に出かけるミッキーマウスや福岡県の「いちご」など、九州各県の名産品も描かれています。
また内装にも、座席のヘッドカバーにミッキーマウスをイメージしたデザインのものを採用するなど、子どもだけでなく大人も楽しめるようデザインされています。娘と母親と一緒に3人で乗り込んだ鹿児島県の女性は「興奮しています。内装がとてもかわいいので、今度は夫も連れて乗りたいです」と話していました。このラッピング新幹線は、博多駅と鹿児島中央駅の間をことし11月下旬まで、1日10本ほどがほぼ毎日、走り続けるということです。』
※ついにくまモンとの直接対決か!?
・ミッキーマウス新幹線の運行初日のイベントは博多駅で行われた。
JR九州の800系新幹線を使っているので、イベントの参加者は
JR九州が中心になって行われたようだが、博多駅の新幹線の13
番から16番ホームはJR西日本の管轄で、JR西日本の社員も出
発式に警備などで参加していたようだ。
JR西日本は現在、ハローキティ新幹線を新大阪駅から博多駅まで運行
しているので、時間帯によってはJR九州のミッキーマウス新幹線とハ
ローキティ新幹線が博多駅でばったり出会うかもしれない。
年度・団体【1971年・日プロ】 |
カテゴリー【名言】 |
見出し:『「馬場さんに挑戦したい」』 |
→ 『解説:同ポイントで並びながら直接対決は行われず、馬場のワールドリーグ戦優勝を許した猪木が、爆弾要求。BI砲結成以後は禁断の一騎打ちとされていた。』
→ 『今年は全日本プロレス・新日本プロレスの40周年。それぞれその帝国を築いたジャイアント馬場とアントニオ猪木は「宿命のライバル」だったが、実際のところ2人の関係性はどんなものだったのか。DVD付きマガジン『ジャイアント馬場 甦る16文キック』(小学館)第5巻では、生前の馬場さんと親交の深かったシンガーソングライターの松山千春が、2人の知られざるエピソードを明かしている。/よく試合前の控室に会いに行ってたんですけど、いちばん驚いたのは、全日本プロレスの東京ドーム大会のときに、馬場さんの控室にアントニオ猪木さんが現れたことですかね。ドアが開いたと思ったら、入ってきたのは猪木さん。「あ、猪木だ」って、俺が緊張しました。/当時、世間では、馬場と猪木といったら誰もが知る宿命のライバルで通っていたし、猪木さんも盛んに馬場さんを挑発していたじゃないですか。「オレの挑戦を受けろ!」っていう感じで。実は、濱地紀生さん(注・プロレス会場設営会社社長。松山に馬場さんを紹介した)からも、力道山が亡くなった後の日本プロレス時代の末期、控室で、よく猪木さんが馬場さんを挑発していたっていう話を聞いていたんです。
猪木さんが、控室にもかかわらず、「早く決着をつけようぜ。いまこの場でもいいぞ!」なんて、馬場さんを本気で挑発していたとか。ほかのレスラーは誰も止められず、ふたりの兄貴分だった身長160センチの濱地さんが、「何やってるんだ! こんなとこで。やめろ、やめろ、やめろ」って、怒りながら間に入って、止めていたらしいんですよ。そんなエピソードを聞いていたので、猪木さんが入ってきたときには、大変なことになるかもしれないぞ、なんて思いました。/すると、猪木さんは馬場さんの前まで来て、「馬場さん、ご無沙汰しています」って礼儀正しく、挨拶をしたんです。馬場さんはというと、「寛ちゃん、元気かい。葉巻はいつ持ってきてくれるんだよ」なんて、ごく普通に答えているんです。その様子に2度びっくりですよ。あれほど、ふたりの関係性がよくわかるシーンはないでしょう。ほんとに馬場さんて、人徳のある人なんだと思いましたよ。※DVD付きマガジン『ジャイアント馬場 甦る16文キック』第5巻より』
☆本日の、『漱石と明治人のことば』は・・・
【今日のことば】「この金は“なまけ賃”なり」――須藤憲三 |
【解説】
須藤憲三は、雑誌『少年倶楽部』で、デビュー当時の大佛次郎などを担当した編集者。名編集長として名高い加藤謙一のあとを受けて同誌の編集長をつとめた。明治気質のすぐれた編集者であった。