ブログ移行期間 /「金村義明チャンネル」タノシィ♬

金村義明チャンネル 松村邦洋モノマネ 掛布雅之金村義明は俺が育てた」


※まっちゃんはオモロイなぁーー。「星野さんのはそんなに似てないわ!」と

ガチで駄目だしするところも含めて、金村義明さんのトークと相性がいい。

時には松竹芸人の上條たけしが出ることもあって、なんじゃかんじゃで、いま

いっちゃんオモロいと思う「ユーチューブ・コンテンツ」である!


☆さ~~て、本日5月26日(日)の、「プロレス記念日」は~?


年度・団体【2000年・東京ドーム】
カテゴリー【引退】
見出し:『ヒクソンに敗れ、船木が引退。』

『解説:“400戦無敗”のヒクソン・グレイシーを倒すUWF最後の砦とみられていたパンクラス船木誠勝が対戦。闘うリングとして「コロシアム2000」というイベントが起ち上げられた。着流し姿で入場した船木は、日本刀を携えて決戦のリングに上がる。/パンチで左眼窩底を骨折しながらも、ヒクソンは動ぜず。チョークスリーパーで絞めると、船木はカッと目を見開いたまま失神。1ラウンド11分46秒で終戦となった。センター花道を引き揚げた船木は最後に振り返ると、「15年間ありがとうございました」と叫び、引退を表明した。』


◎関連書籍、ニュース記事、試合動画、など。


前田日明「UWFが分裂してなかったらヒクソンを攻略できた」


・前田氏の後輩の高田延彦船木誠勝が、ヒクソン・グレイシー総合格闘技で負けたことについての質問が飛んだ。前田氏は高田の実力を認めた上で、ヒクソン戦では精神的に負けていたことや、非情になり切れなかった船木の詰めの甘さを指摘。そして「あのままUWFが分裂せずに続いていたら、もっと研究を重ねて、ヒクソンを攻略できていたでしょうね」とつぶやいた。1991年に三派に分裂したUWF。前田、高田、船木、そして“組長”藤原喜明の知恵と技術を結集させていたなら…などと幻想してしまえるのも、プロレスファンならではのロマンだろう。


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フライデー ヒクソン・グレイシー(400戦無敗の男)告白「私の次に強かった奴」

→『私は6人の日本人格闘家と戦ったが、日本のファンの間では、郄田延彦との戦いが印象に残っているようだね。しかし、私がファイターとして尊敬しているのは、中井祐樹であり船木誠勝だ。郄田延彦とは'97年と'98年の2度戦い、いずれも腕ひしぎ十字固めで勝利。日本格闘界の威信をへし折った。いまだから明かせるが、私は船木との試合中に、負けることはもちろん、殺されることも覚悟していた。実は、私はグラウンドでの攻防の際に船木のパンチを顔面に受けて、左の眼窩底を骨折してしまい、眼がまったく見えなくなってしまったんだ。幸い船木はこのアクシデントに気付かず、私から離れてくれた。そこで攻撃に転じ、船木を倒してチョークスリーパーで仕留めたが、あれは最大のピンチだったと言っても過言ではない。スリーパーを決めたときも、彼はギブアップしなかった。失神したために試合が終わったが、彼はギブアップするぐらいなら死を選んだに違いない。船木は間違いなく戦士であり、サムライだった。日本が誇るべき人物だよ。/2000年の船木戦を最後にリングを降りた「400戦無敗の男」ヒクソン・グレイシー。引退の真相、日本人選手との試合の裏側を聞いた。

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船木と戦った8ヵ月後の'01年2月、私は長男を交通事故で失ったんだ。この事故で大変なショックを受けたことが、引退の大きな理由だ。その後、一度は復帰を考えた。実は(エメリヤーエンコ・)ヒョードルと戦わないか、というオファーがあり、この実現に向けて動いていた。ところが、試合の直前に足を痛めてしまった。結局ヒョードル戦は白紙となり、同時に肉体的な限界を感じるようになった。それで、引退を決意したんだ。いまは戦いの舞台からは身を引いて、世界中を回って講演活動を行っているよ。私は柔術を通じて、勝負論、精神論、心をコントロールする技術を身につけた。その経験やテクニックを一人でも多くの人に伝えたいと思っているんだ。/日本の格闘技のいまについても話しておこうか。残念ながらいまの総合格闘技の環境は、日本人格闘家にとっていいものとは言えない。UFC(アメリカを中心に流行している格闘技の大会)をはじめ、格闘技の主流は階級が細かく分類され、ラウンド毎の時間が短くなっている。

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こうした試合では、技術よりフィジカルの強さがモノを言うんだ。日本の格闘家は、グラウンドなどの技術は優れているが、相手のミスをきっかけに勝負を仕掛けて勝つという傾向がある。それには長い時間が必要で、いまの3分や5分という短いラウンドでは不利なんだよ。注目している選手かい?私の次男のクロン・グレイシーだ。彼は技術面でも精神面でも優秀なファイターだ。間もなく総合格闘技の試合でもデビューすると思うが、グレイシーの名に恥じない戦いを見せてくれるはずだ。グレイシー伝説はまだまだ続くよ。』


☆本日の、『漱石と明治人のことば』は・・・

漱石と明治人のことば目次


【今日のことば】「大胆というのもいいけれど、大胆は堅実の上にはじめて成り立つものだ」――安藤百福


【解説】

日清食品の創業者・安藤百福が即席めんの開発に挑んだのは、終戦直後の昭和20年(1945)冬、大阪で出くわした光景が原点だったという。寒風吹きすさぶ夜、大阪駅のそばを通りかかると、屋台のラーメン屋に行列ができていた。1杯のラーメンをすするために、皆がじっと寒さに耐えて並んでいたのだった。


この光景を胸に、安藤は苦心に苦心を重ね、ついに急速油熱乾燥法を開発。昭和33年(1958)にチキンラーメンを発売した。これが即席めんの第1号。容器入りのカップヌードルの発売は昭和46年(1971)だった。今では多くの他社製品も店頭に並ぶが、発売当初はどちらも実に画期的な商品だった。


安藤百福明治43年(1910)台湾生まれ(戦後、日本に帰化)。立命館大学在学中からメリヤス関係の会社を設立。その後、機械部品の製造、塩や栄養剤の製造・販売などを手がけながら、即席めんの開発に取り組んだのである。


上に掲げたのは、その安藤百福が次男の宏基に社長の座を譲るとき、投げかけたことばだという。一度は長男の宏寿を社長にして自身は会長職に退きながら、適任でないと見極めて、社長に復帰。その後、時機を見計らっての次男の社長就任という経緯があるから、このことばにも深い思いがこめられていると見なければならない。会社経営というのは、堅実だけでも、大胆だけでも成り立っていかない、守りと攻めのバランスが肝要ということだろう。


明後日5月28日からは、テニスの全仏オープンが始まる。日清食品所属のプロテニスプレーヤー錦織圭選手は、どんな戦いを見せてくれるか。手首の故障が気にかかるが、「堅実」かつ「大胆」なテニスで、悲願の4大大会初優勝をめざして突き進んでもらいたい。


細かすぎて伝わらない関連動画など

(「安藤百福」「カップラーメン」で動画検索してみました!!)


安藤百福の名言集!インスタントラーメンが誕生するまで(12分46秒)



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※まさに、「文化」を売った人でした。。。


☆2019/7/19には、安藤百福さんの漫画が発売されるみたい・・・。

小学館 小学館版 学習まんが人物館 「安藤百福」 まんが/田中 顕 シナリオ/水野光博

→『「平成最後の朝ドラ」となり、平均視聴率21.4%の好成績を残した『まんぷく』。実際のインスタントラーメンの生みの親として注目が集まっている安藤百福が学習まんがで登場します!

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百福はなぜインスタントラーメンを発明したのでしょう?きっかけは若い頃に空腹で死にかけた経験でした。その後生涯を通じて「食」で人々を幸せにしたいと願うようになり、数々の事業を興しては失敗し、何度失敗を重ねても前を向いて進み続けました。そして辿り着いたラーメンという答え。妻の揚げる天ぷらがきっかけで、世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」が誕生しました。その後百福はインスタントラーメンのグローバル化を目指して「カップヌードル」を発明します。今ではインスタントラーメンは、世界で年間1000億食以上が消費されており、20世紀最大の発明ともいわれています。人生の後半に数々の偉大な発明をした百福は、「転んでもただでは起きるな」「人生に遅すぎるということはない」などの名言を残しています。考えて考えて、考え抜け――!食文化の革命に執念を燃やした男の哲学は、現代を生きる我々に前向きな希望をもたらしてくれます。』



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※なるみさん、出てるやーーん。


ジョニーAのつぶやき:「まんぷく」、、、観てみよっかなぁーーーー。