ブログ移行期間 /TV「アナザー・ストーリーズ」
→ 『2019年2月19日(火) 午後9時00分(60分):番組内容・・・少女たちは血まみれの闘いに涙を流した!女子プロレスラー「クラッシュ・ギャルズ」。1980年代、突如現れた2人の試合は、やがて五輪で金メダル続出の女子レスリングへ!女子プロブームと最強女子レスリング日本代表との知られざるつながりが明かされる!さらに元ウィンク相田翔子、お笑い山田花子をはじめ、その闘いで「人生が変わった」という普通の女の子たちが30年を経て赤裸々証言。少女たちが闘いを求めた理由とは?
※山田花子の初々しい動画が観られた。
※動くかなたくさんを初めて観たよ~。
※いやー、いい番組でした!さすがNHKでございやす!
年度・団体【1983年・新日本】 |
カテゴリー【夢対決】 |
見出し:『IWGP公式戦で猪木と前田が唯一の一騎打ち』 |
→ 『解説:格闘王として覚醒する以前に前田は生涯一となる猪木との一騎打ちを経験。第1回IWGPリーグ戦公式戦として、高松市民文化センターで行われた。/前田はイギリス修業時代にヨーロッパヘビー級王座を獲得した実績を買われ、日本ではなく欧州代表としてエントリー。ジャーマン、ドラゴンと得意のスープレックスで追い込んだものの、直後に延髄切りを食らいピンフォール負け。UWFとして新日本にカムバックした際、再三にわたり一騎打ちを要求したが、猪木は応じなかった。』
※この試合は高3の時だから、家でリアルタイムで観ていたっけーーー(✿╹◡╹ )ノ
→ 『♦1997年の猪木・前田会談(週刊プレイボーイ) /猪木・前田会談は1997年で、当時の週刊プレイボーイ誌上に掲載されました。/前田「なぜシングルで戦ってくれなかったんですか?」/猪木「逃げてたから」(禁談―前田日明 究極の因縁対談三本勝負 1997・集英社 佐々木徹・著 から引用)この猪木・前田会談は、当初から掲載目的の会談(実質的には対談)であり、お互いに久方ぶりの対面だったのもあって、口角泡を飛ばすような展開にはならなかった。
前田日明と密接な繋がりを持っている船木誠勝、柴田勝頼を、自身の新団体IGFへ引き込みたく(?)、猪木は前田と会談を持ったと思われます。しかし建設的な進展もなく、猪木・前田は、お互いの批判合戦となり決裂しました。以上概略という形でまとめましたが、2007年の猪木・前田会談が一番大荒れだったのでは?現役時代、感情を正直に露にすることで、我々ファンの支持を得てきた前田日明。その前田が「「プロレス界をめちゃくちゃにした」と猪木に噛み付いたのには、それなりの理由がいくつかあると思われます。それは主だったものでは以下のことではないだろうか?/1.前田の若手時代に猪木が「今はこうしたこと(=プロレス)をしているが、いずれスポーツとして恥ずかしくない戦いを実現させる」と言っていたにもかかわらず、実際のところ猪木は、アントン・ハイセルへの投資に没頭したり、猪木自身が目立ちすぎてしまったこと。/2.細かいところで言うと、藤田和之のリングス入団が内定していたのに、猪木が横やりを入れ、オジャンにしてしまったこと(藤田和之はその後、猪木事務所所属選手に)。/3.2001年に前田・リングスが低迷した際、当時の新日本プロレス社長・藤波が救いの手を伸ばすべく、前田・リングスへの選手派遣を検討するも、これまた裏で猪木が暗躍し、前田・リングスへの選手派遣が頓挫したこと。
これら以外にもまだ前田の猪木に対する怒りの理由はあるのかもしれない。とにかくこうした積もりに積もったことが前田日明の中にはあって、プロレス界~広義ではマット界ともとれる~を、猪木が「めちゃくちゃにしたんだ」というあの口論へと発展したのではないだろうか?お互い、まったくの平行線です。この先和解することはあるのでしょうか?私自身は、上記の対談では「逃げていたから」などと言ってますが、これは猪木特有のジョークでしょう。前田自身が怖かったのではなく、リング上以外の部分(いわゆる借金問題や団体の移籍問題等)で多忙だったため、前田だけを相手にしている余裕がなかったものと思っています。』
やったら前田を殺すから、とことんまでいったら、避けてんねや、
という読みがあったけど、僕は事実を知っているわけですよ。
田中正悟さんと前田日明がロイヤルホテルにいました。
誠 いました。
竹内 そのロビーに猪木が来ました。
誠 来ました。
竹内 その二人を猪木がこそっとロイヤルホテルの隅に呼んで、土下座して、
「頼むっ、対戦だけはやめてくれ」、と。
誠 (^。^) ププププ
竹内 「ホンマに真剣勝負やりたかったら他所行ってやってくれ」、と。
誠 (^○^) ギャハハハハハ
竹内 「他所にはいくらでもおる、ガチンコ受ける奴は」、と。
「俺は受けへんから」っつって土下座した、と。
誠 そうやんね。
竹内 そんな人ですよ。
だめでしょうけどネーー。
☆本日の、『漱石と明治人のことば』は・・・
【今日のことば】「名寄岩ァ……に勝った、綾昇ィ……」――19代目式守伊之助 |
【解説】
明治の初年に一度、土俵にあがる相撲取りもシャツを着るよう規則が定められたという話がある。新しい時代を迎え、これからは、外国の人たちも相撲見物をするだろう。その際、日本人が裸で肌を見せるというのは失礼だから、何か着た方がいいだろう。そんなことから生まれた規則だったらしい。特別あつらえの大きな上下のシャツを着て、その上からまわしを締めたが、もみ合っているうちにびりびりに破けたりしてどうにもならず、すぐに元に戻されたとか。/落語家の故6代目三遊亭圓生が、あるときの高座のマクラの中で、この逸話を紹介している(三遊亭圓生『噺のまくら』より)。6代目三遊亭圓生は、非常に勉強熱心な人で、落語の噺の中に登場する地名や人名、歴史的背景についても綿密な研究や実地踏査を重ね、それまでなんとなく口伝えに伝えられてきたものの誤りを改めたこともあったというから、これも史実にもとづく逸話だったのだろう。
細かすぎて伝わらない関連動画など
(「19代目式守伊之助」で動画検索してみました!!)
→『■大相撲初場所5日目=17日、東京・両国国技館「死んでもラッパを離しませんでした」。日清戦争で戦死した帝国陸軍のラッパ手、木口小平はラッパを吹きつつ突進し、死して口からラッパを離さなかったといわれる。こちら立行司、式守伊之助は土俵下に転落しても軍配を離さなかった。取り直しになった結びの一番。このところめきめきと力をつけている錦木の攻めにタジタジとなった横綱白鵬が、回り込みながら土俵際で左上手投げを放ち逆転勝ち。このとき、白鵬をよけようとした伊之助は俵に足をひっかけたのか、東のたまり席に真っ逆さま。しかし、ここからが行司魂の見せ所で、落ちながらも勝負はしっかり見届け、軍配を西の白鵬に上げた。
第41代の伊之助は、“ホモセクハラ”騒動で退職に追い込まれた前伊之助のあとを受け、7場所ぶりの立行司として今場所昇格したばかり。この日で3日連続結びで物言いがついたが、いきなり差し違えでは“進退伺”どころではない。「落ちながら、ちゃんと相撲は見ていた。痛いとかいう以前に、とにかく見てなきゃいけないんです」と、ほっとした表情で言った。/今年59歳で還暦目前。「トレーニングは欠かさない。体は30代だから大丈夫。でも、ご心配、ご迷惑をおかけしました。白熱した相撲の行司をさせてもらうのが一番。これからも心落ち着かせて、頑張ります」さすがに立行司らしいコメントで、報道陣を見事に裁いていた。』