【ラッシャー木村、アニキの元へ】天国でデスマッチ!

金網デスマッチの鬼、ことラッシャー木村さんが、天国に召された。
きっと今頃、天国で馬場さんと会って顔をくしゃくしゃにして喜んでいることだろう。
「アニキ~!タッグ組んでくれよ~!」とか言って、馬場さんに「いや、まず最初は、敵対関係で
引っ張って、そのあとで共闘だろう。あん時みたいにな。」なんて言われてるんじゃねー?(/ロ≦、)

スポニチ 「金網の鬼」「こんばんは」ラッシャー木村さん逝く
『「ラッシャー木村」のリングネームで活躍した元プロレスラーの木村政雄さんが24日午前5時30分、腎不全による誤嚥性(ごえんせい)肺炎のため死去した。プロレスリング・ノアが発表した。68歳だった。通夜、告別式は親族のみで行われる。/1941年生まれの木村さんは大相撲を経て65年に日本プロレスからデビュー。その後、東京プロレスを経て国際プロレスに入団し、70年に日本初の金網デスマッチを行った。国際解散後の81年9月には新日本プロレスに登場。初参戦の田園コロシアム大会では殺伐ムードの中、「こんばんは」とあいさつし、観客の度肝を抜いた。84年からは全日本へ移籍。ジャイアント馬場さんらを相手にしたユニークなマイクパフォーマンスは、プロレスファンの間で話題となった。00年のノア旗揚げに参加した後も、個性派レスラーとして活躍。04年に体調不良で現役を退いた後も、終身名誉選手会長としてノアに籍を置いていた。』

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スポニチ 新日本“こんばんは事件”を紹介し木村さんをしのぶ
ラッシャー木村さんの訃報に、プロレス界が悲しみに暮れた。新日本プロレスは公式サイトで、木村さんが初参戦した81年9月の試合を紹介。「田園コロシアムにて伝説のマイクアピールを決行。アントニオ猪木選手と抗争を繰り広げました」とのちに“こんばんは事件”として語られるエピソードを紹介。「その飾らないキャラクターでプロレス界の枠を超える人気を獲得し、テレビやバラエティ番組にも多数出演」と温かい人柄を伝えて、故人をしのんだ。ハッスルやZERO1などもコメントを発表し、昭和を代表する個性派レスラーの死を悼んだ。/木村さんが所属していたノアは、25日の富山大会で10カウント弔鐘を鳴らし、故人の冥福を祈ると発表した。』
※猪木の憎らしい敵役として、そして馬場さんの好敵手→弟分として、リング上に厳しさと温かさを振り
まいてくれた木村さんは業界の良心だったね。剛竜馬さんの時も感じたが、昭和プロレスの終焉をまざま
ざと思い知らされた感じだわなー。

ラッシャー木村のマイクコーナー


渕正信ブログ「酔々ブルース」ラッシャー木村さん死去の報
『いきなりのラッシャー木村さん死去の報。驚いている。木村さんとはここ10年お会いしていない。/私は全日本に残り、木村さんはノアに行った。だから話していないし呑みにも行ってない。馬場さんが生きていた頃、木村さんは馬場さんのタッグパートナーとして活躍された。私も「悪役商会」の一員としてよく対戦したもんである。そして例のマイクパフォーマンス。独身ネタでよく弄られた。むろん、そのことで真剣に悩んだことなんてなく大いに楽しませてもらった。/リング上では数限りなく対戦したが、プライベートでも地方や都内など何度も一緒に呑みに行った。実際、今の若い奴らは真面目で酒なんか呑みに行かない。結局は年寄り同士、私や木村さん、あるいはやはり亡くなった大熊元司さんとで赤提灯の居酒屋見つけてよく飲んで酔っぱらったもんだ。木村さんも大熊さんも焼酎だったなあ。「渕、マイクで喋る時はな、ゆっくり分かりやすく間をおいて喋るんだよ…」酒を呑みながらマイクパフォーマンスのコツを木村さんは教えてくれた。私は今だに焦りがきてできない。東北沢の鰯専門店、ステーキ屋…懐かしい。よく連れて行ってもらった。心よりご冥福をお祈り致します。』

>そのことで真剣に悩んだことなんてなく大いに楽しませてもらった。
※やっぱり気にしてたんだナァ~~~~~( ̄□ ̄ゞ)(/´。`\)

●超偉人伝説 断わりきれなかった男伝説 ラッシャー木村 1/2

※ちょっと泣けてしまう・・・

●超偉人伝説 断わりきれなかった男伝説 ラッシャー木村 2/2

※病室に死神が来て「そろそろ行きましょうか」とでも言ったのかな?で、それも断れなかったと・・(´・ω・`)

ラッシャーさんのかっこいい写真をいっぱい拾ってきて、追悼特集するなりヨー。

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ラッシャー木村・阿修羅原VS長州力・谷津嘉明

※流れるような見事な試合運びですなー。昭和プロレスここにあり!って感じ。ツープラトンが新鮮です。

☆最後に、別冊宝島「新日プロレス伝説の40番完全解明」より、ミスター高橋さんの記事抜粋↓
『経営の傾いた国際プロレスの選手が新日本へ参戦していた1980年、若手代表による対抗戦という位置付けで行われたのが、この蔵前国技館での藤波VS阿修羅原戦である。私は試合前に国際軍団の控え室を訪ねた。すると、エースであるラッシャー木村さんが私の姿を見つけるなり立ち上がり、一礼したのである。私は面食らってしまった。いくらアウェーのリングとはいえ、木村さんは国際のエースで、この世界の先輩である。その木村さんがこう切り出した。「高橋さん、ウチの原はまだキャリアが浅いんで、今日はどうぞよろしくお願いします」
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/そう言って阿修羅原にも挨拶させた。その実に丁寧な言葉遣いに、私は木村さんの人間性を見た気がした。(中略)国際が崩壊した後は、ラッシャー木村さんを大将に、アニマル浜口寺西勇の「はぐれ国際軍団」が新日本に参戦したが、新日本の彼らに対する態度は残酷だった。猪木さんは一度も木村さんにまともな形では取らせなかったし、3対1のハンディキャップマッチという屈辱的な試合も飲ませた。当時、国際軍団は外国人選手扱いだったため、私も木村さんたちとたまに飲みにいく機会があった。そこでは新日本に対する不満もぶつけられたが、木村さんはじっと聞いているだけで決して愚痴を言わなかった。また酒の席で浜口や寺西が「セメントをやらせたら猪木よりおっとう(木村さんのこと)の方が強い!」と言うと、「これも仕事だ!」と彼らを諌めたことさえある。団体のエースとして鳴らした木村さんにとって、新日本の扱いに不満がなかったわけはないと思うのだが、それをじっと我慢していた姿に私は感銘を受けたものだ。猪木さんが木村さんに完勝するときにはたいてい流血戦になった。私は何度となく木村さんに「仕事」をお願いしなければならなかったが、木村さんはイヤな顔一つしたことがなかった。80年代前半の一時期、猪木さんは国際軍団に圧勝して少年ファンの喝采を浴びたが、それもこれも木村さんのおかげである。木村さんはその後、UWFに参戦したものの離脱。この時も猪木さんには裏切られた形になっている。木村さんは猪木さんを離れ、馬場さんの全日本で引退までいい仕事をした。木村さんにとって全日本は、長く探した“安住の地”だったのだろう。立場上、木村さんにはイヤなことばかり持ちかけなければならなかった私だったが、あの藤波VS阿修羅原戦での控え室、木村さんの思いやりは今でも忘れられない。』

◎シャア語録
シャア専用手帳
ザビ家を連邦が倒すだけでは、人類の真の平和は得られないと悟ったのだ。(ファースト第38話)