文房具屋さんで思わず購入したワンちゃんハガキ

※昔から、文具店でちょっと新しい便利グッズなどを見つけると衝動買いしてしまう。
本日は、マグネットシール(本来マグネットが貼れない場所を貼れるようにするテー
プ)および、マグネット数個(うち、和菓子シリーズのタイヤキ型マグネット含む)
、可愛いワンちゃんの写真入りの官製ハガキ×5枚。けっこうな出費になってしまっ
たワイナー。

1月1日もワンちゃん画像でスタートしたし、終わりもワンちゃんで締めくくろうか
なとボンヤリ考えた次第。今回のは全部ひとこと添えてあるタイプではあるが、、、
また面白い「写真で一言」があればコメントにお書きくだされ!採用いたします!

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※おっと2枚目はワンコじゃなかった・・・。


☆書籍「元気が出る言葉」&サライ「日めくり漱石」をお届け♪

(詳細は、1月2日の日記を参照のこと!)

☆さ~~て、本日1月31日(水)の、「元気が出る言葉」は~?

『多勢は勢いを恃(タノ)み、少勢は一つ心に働く/堪忍は無事長久のもと、怒りは敵と思え』
出展:?
発言者:徳川家康戦国大名江戸幕府の初代征夷大将軍 1543年1月31日~1616年6月1日)
『解説:小国から這い上がって権力のトップに上り詰めた家康らしい言葉を2つ。いずれも短いフレーズに、今に通じる真実が伝わる。』

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◎関連書籍、楽曲、映画(ドラマ)などなど・・・

AERAdot. 徳川家康の“ぽっこりお腹”は脂肪じゃなくて“菌”だった?
『年始特番もあった「徳川埋蔵金」探し。どうせ見つからないんでしょと思いつつ、ロマンもあって、つい観てしまう。だが待て。徳川埋蔵「菌」ならどうだ。記者が取材に行くとなんと……。今回編集部から与えられたミッションは「徳川埋蔵キンを探せ!」。探せ!って言われてもあなた。そんな簡単に見つかるもの?と文句を言いかけ、気がついた。なんだ、埋蔵「金」じゃなくて「菌」じゃないの。あー、よかった……いや、よくない。大体あるのか、そんなもん。「だから探してみてください」聞けば、アエラのダジャレ1行コピーを手がけているデスクが、「埋蔵菌」というダジャレを使いたい一心で、ひねり出した企画らしい。えー。気を取り直して、まずはネットで「徳川埋蔵菌」と検索してみる。と、「もしかして徳川埋蔵金?」と、いちいち訂正される始末。せっかくなので少しだけ、本物の「徳川埋蔵金」について紹介しておこう。江戸城開城の際に金目の物が一切見つからなかったことから、多くのトレジャーハンターたちが発見を夢見ている徳川家のお宝のことを言う。驚くのは、まさに国家予算級のその規模。今のお金にすると、数百兆円相当との説もあるらしい。ひー、探しに行きたい。でも、これじゃない。
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  そうしてかつてない難航が予測された今回のミッション「埋蔵菌探し」。ところが意外なほどあっさりと救世主は現れた。「たべもの戦国史」「戦国の食術」など戦国武将の食生活についての著書も多い食文化史研究家の永山久夫さん(85)だ。「金じゃなくて、菌でいいんですよね? ハハハハ。それなら、あります、あります」それも、数だけ言えば埋蔵金と同じ数百兆個規模! して、それはどちらに?「家康公のおなかのなかですよ」徳川家康は身長158センチ。「おなかがつかえて、馬に飛び乗れなかった」とのエピソードもあるように、ずんぐりむっくりの体形で知られている。ちなみにこれまでドラマや映画で家康を演じてきた俳優も、古くは森繁久彌から西田敏行まで“タヌキ形”が圧倒的に多い。ただし、そこらのお父さんのビールっ腹と違うのは、その中身だ。伝えられるその食生活などから考えて、家康は「腸活の達人」。膨らんだおなかを満たしていたのは、脂肪ではなく腸内細菌だったのではないか、と永山さんは推測するのだ。「人は普通、体内に約1.5キロもの腸内細菌を持っています。一方、家康公は、馬につかえるほどの大きなおなかで、人より多い2~3キロの腸内細菌を育てていたと考えられる。そしてこの腸内細菌が、何より家康公の長寿に貢献した“お宝”だった可能性は高い。まさに埋蔵菌ですよね」』

★「イケメン戦国」というゲームでの家康様♪
乙な彼氏 イケメン戦国|徳川家康の魅力とストーリーまとめ
『公式サイトでは、野心家×天邪鬼とありますが、ただのツンデレですw華奢な見た目ですが、剣術の腕は確かですし弓道にも精通していて、立派な武闘派。イケ戦メンバーの中では少し離れたところから、ツッコミを入れるようなポジションですが、石田三成さんとの掛け合いは観ていてホッコリできますよ。弱い存在の主人公を快く思わないことにも、理由があって、、、そして、笑顔が堪らないのです。カレの笑顔を見るために、家康ルートを何周もする気持ち分かります!/がろはる_ショック「個人的に家康推しファンはかなり熱狂的な感じがします( ゚Д゚)」』

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※家康のイメージは皆無なんだけど・・・w

●「関ヶ原」予告編(ロングバージョン)


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※実写じゃ最高のイケメン家康!ではなかろうかーーー。

☆本日の、『日めくり漱石』は・・・
サライ 「夏目漱石」の記事一覧

“これからいつまで生きられるか、もとより分らない。思うに一日生きれば一日の結構で、二日生きれば二日の結構であろう(『思い出す事など』より)”

【1899年1月31日の漱石正岡子規を通じて知り合った俳人と生死について語り合う

今から117年前の今日、すなわち明治32年(1899)1月31日、数え33歳の漱石は熊本で3度目の冬を迎えていた。引っ越しを重ね、この頃住まっていたのは、熊本で5軒目の家となる内坪井町の家だった。この内坪井町の家は、現在、市の史跡「夏目漱石内坪井旧居」として一般の見学者を受け入れている。邸内には、直筆原稿や写真などの資料も展示されていて、往時の漱石の暮らしを偲ばせる。

漱石は熊本赴任後まもなく妻を娶(めと)り、その妻・鏡子はいまは身重の体だった。この日の夜、漱石は鏡子を家に残し、市内船場にある旅館研屋(とぎや)へ足を運んだ。この旅館は漱石と熊本で結婚式を挙げる前日、鏡子が父親の中根重一とともに宿泊した宿でもあった。宿では、漱石より2歳年少の村上霽月(むらかみ・せいげつ)が待っていた。霽月は松山の俳人にして、資産家の実業人。漱石が松山の下宿・愚陀仏庵に病気療養の正岡子規を受け入れたとき、子規を通じて知り合った人物だった。子規が東京に戻ったあとも漱石と霽月の交流は続き、松山へ里帰りした高浜虚子も交えた3人の句会を繰り返し楽しんだりもした。霽月のこのときの熊本来訪は、仕事がらみのことであったのだろう。

漱石と霽月は、深夜まで生と死の問題などについて語り合い、俳句も詠んだ。この頃の作とされる漱石の次のような句は、もしかするとこの夜に生まれたものだったのかもしれない。《吾折々死なんと思ふ朧かな》《死して名なき人のみ住んで梅の花》話ばかりか俳句のテーマにも「死」が入り込むのは、子規の抱える病が暗い影を投げかけていたせいでもあったろうか。

細かすぎて伝わらない関連動画など

(「生と死」「語り合う」で動画検索してみました!!)

満島ひかり永山絢斗共演『海辺の生と死』予告編


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※これはDVDがレンタル解禁になったら、真っ先に借りに行かねばなぁー

松本人志の放送室』 「死」についてラジオで語っています・・・


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ジョニーAのつぶやき:パンツだけは綺麗に・・・。いろんな意味で教訓としなければ、ですっ!!