3年B組金八先生 第8話 「子供の喧嘩に親が」

藤島ジュリー景子が生徒役で出ていたと聞き、ようつべで観てみた♪

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TBSチャンネル 3年B組金八先生」第1シリーズ
『世田谷の中学から桜中学に転勤になった国語教師・坂本金八。彼が非行・不登校・いじめ・親子の絶縁など、学校が抱える様々な問題を真正面から受け止め、生徒と一緒に涙を流しながら奮闘する。生徒の非行、親子の断絶、内申書など教育問題を題材にして、当時話題を集めた。中でも、6話にわたった「十五歳の母」では生徒の妊娠、出産を描き、また、東大をめざす高校生の自殺を取り上げ、反響を呼んだ。生徒役は“一五歳の母”を演じた杉田かおる、ツッパリ役の三原順子たのきんトリオ田原俊彦野村義男近藤真彦)らが出演。/エピソードリスト♯8:「子供の喧嘩に親が」・・・英語が得意な越智はるみ(藤島ジュリー景子)だったが、期末テストの成績が下がってしまった。それを東條絹子(平山裕美)に指摘され、カッとなり殴ってしまう。』

YOU TUBE 金八第8話 「子供の喧嘩に親が」


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※東條役の平山裕美さんは、現在は「貴山ゆうみ」という芸名で舞台を中心に
女優業を続けている模様。ちなみに旦那さんは、元倍賞千恵子さんの夫だった
小宮健吾さんという方のようである。

ウィキペディア 藤島ジュリー景子
『日本の芸能事務所・ジャニーズ事務所代表取締役副社長。関連会社「ジェイ・ストーム」、「ユニゾン」、「東京・新・グローブ座」の代表取締役社長。元女優・タレント。別名:藤島ジュリーK.。東京都出身。叔父はジャニーズ事務所社長のジャニー喜多川、母はジャニーズ事務所副社長のメリー喜多川、父は作家の藤島泰輔。/■経歴:1966年、当時藤島泰輔高浜虚子の孫娘である朋子という妻がおり、内縁関係にありバーを経営していたメリー喜多川の長女として生まれる。1973年、6歳でフジシマ ジュリーの名でフォーリーブス主演のミュージカル『見上げてごらん夜の星を』にて、芸能界デビュー。以来、「おはよう!こどもショー」、「小さなスーパーマン ガンバロン」、「3年B組金八先生(第1シリーズ)」、「HOT-TV」などで活躍した。/中学校は元麻布の「西町インターナショナルスクール」へ進学。高校は父親とともにアメリカへ留学。大学は叔父のジャニー喜多川と同じ上智大学比較文化学部を卒業。なお、大学時代にはスイスに留学している。フジテレビの秘書室勤務を経て、「藤島ジュリー」や「ジュリー・ケイ」の名でジャニーズ事務所のスタイリストになる。更に、初の自社レコードレーベル「ジャニーズ・エンタテイメント」の初代社長を経て、新レコードレーベル「ジェイ・ストーム」の代表取締役社長へと就任。また、母親のメリー喜多川と共にジャニーズ事務所代表取締役副社長も務めている。』

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たのきんトリオがしっかり台詞をもらっている~。その周囲には三原じゅんこや、
小林聡美さんの初々しいお姿も垣間見られるぅ~~♪
聞きようによっては、マッチが「母親のことなんて気にせずに自分の思うようにや
ってけよ」ってジュリーを励ましてるようでもあるところが興味深いではないか。
(30ウン年後の二人の関係を、何となく暗示しているようでもあり・・・)

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※ヒステリックに無茶な行動に走るキャラ。素でもそうなのでは・・・

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※金八っつあんの慰め方。「せっかくの平安美人が台無しじゃないか。」
一体誰を気にしての、おべんちゃら台詞なのか・・・w 少し鼻白んで
しまうーーー。

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※母親についてしまった嘘(本当は自分が東條さんを叩いたのに、自分が
被害者だと伝えてしまった。。。)でがんじがらめになるはるみ。
このあと、屋上から飛び降りようとまでする。全く、周囲を困惑させてば
かりの、迷惑な女生徒であるー。

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※母親は、娘と対立するライバルの東條を呼び、謝罪させようとする。
あれ?現実とリンクしてる?「東條さんを呼んで」の「東條」を
「飯〇」に換えれば、まさしくメリジュリ母子とおんなじ構図ジャマイカッ!

金八先生マニアックス 第1シリーズ 8話 「子供の喧嘩に親が」
『【みどころ談義】● 前回、はるみが英語を見事に読みこなすシーンがありましたよね。あれが地味に伏線になっていました。● 母役の小林千登勢さんは、保パパの山本耕一さんに続いて、夫婦で番組出演を達成しました。おめでとうございます。● なんだかズレた人ばかり登場してくる話になっていますよ。となると、それをまとめて圧倒した池内先生はたいしたもんだということになりますね。●今回のポイントは、クラスにも職員室にもまともな切り札がいて良かった、ということになりますか。●まぁ、金八がはじめから母親にはるみの方が殴ったんだと言っていれば、今回の事件そのものが起こらずに済んだような気はするけれど・・・。』

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※ドラマでは金八先生が、「東條を呼んでしこりを残すよりは、学校内で
解決した方がいい」と力説する。そして心を開くはるみ。反省するオカン
、という筋書きだ。現実でも、「飯〇を呼べ!」ってなった時に、金八さ
ん的な人物が(メリーさんを叱れるのはあの人しかいない訳だが・・・)ちゃ
んと筋の通った説得をしてくれていたなら、Sを解散させるようなことに
はならなかったかも知んないねぇ~。ッテ、チョット( ー`дー´)モウソウヒロゲスギ!?

3年B組金八先生 第1シリーズ 「贈る言葉

※ちょうど自分が中3の卒業にあたる年に、ドラマで流行っていたので
思い入れの強い楽曲になっておりンス~。その後、「武田鉄矢の人情より
薄い胸」などの喩えに使われるほどの、仲間への薄情さを某番組で知ら
され、複雑な想いになっていくわけであるーーー。曲はいいのにナァ~wと。




☆書籍「元気が出る言葉」&サライ「日めくり漱石」をお届け♪

(詳細は、1月2日の日記を参照のこと!)

☆さ~~て、本日4月14日(土)の、「元気が出る言葉」は~?

『台本は最低100回読みなさい。』
出展:川上麻衣子 Facebook
発言者:三國連太郎 (俳優) 1923年1月20日~2013年4月14日
『解説:「演技の鬼」と言われた。役作りで体重の増減する役者はいくらでもいるが、三國は老人役のため上下の歯を10本抜いてみせた。(家城巳代治監督「異母兄弟」)そんな彼が初舞台の仕事をもらい、不安を抱えていた川上に贈った言葉がこれ。三國は親鸞関連の本も出しているくらい仏教にも詳しいが、空海百万遍唱えれば一切の経典の意味が心の中に入るといっている。一流とはこういうことだ。』

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◎関連書籍、楽曲、映画(ドラマ)などなど・・・

Amazon.co.jp 生きざま死にざま オンデマンド (ペーパーバック) 三國連太郎(著)
『■内容(「BOOK」データベースより):他力を生きるということは自律して生きること。 --此文字指其他 単行本 版本。
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/■登録情報:/オンデマンド (ペーパーバック) 234ページ /出版社 ロングセラーズ /言語 日本語 /ISBN-10: 4845432390 ISBN-13: 978-4845432394 /発売日: 2006/3/1 /商品パッケージの寸法 5.3 x 0.6 x 7.5 cm /おすすめ度 5つ星のうち 3.4 /■カスタマーレビュー:足立辰雄 5つ星のうち4.0 「プロの役者魂がわかる」2013年5月17日・・・三國連太郎は『飢餓海峡』『復讐するは我にあり』などで重厚な役をこなした魅力的な俳優だが、その素顔はあまり知らなかった。最近、三國連太郎逝去のニュースに接しあらためてこの本を読む機会を得た。出生の秘密や父が棺桶屋を職業としていた事情から小さい頃から差別されてきたこと、煩悩から救われるために旅に出てリセットする習慣、なぜ俳優業を志し続けてこられたのかなどの心境が赤裸々に述べられている。飢餓海峡の主人公で犯人役の三国の迫真の鬼気迫る演技はただならぬものを感じたが、この書物の中で「実」のフィルターを通して「虚」を演じると述べている。どんな役をこなしてもやはりどこかに共通する体験や共感、共有するものがないと演技はできないという。仏教、特に身分差別と闘った親鸞への造詣が深く哲学的な問いかけを忘れなかった俳優である。』

★個人的には、「赤い運命」の連太郎さんの怖さが印象に残っている・・・。
・ごごラジ! 杉作J太郎さん 「山口百恵主演<赤い運命>を語る!」


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※子供心に、得体の知れない大人の恐ろしさを感じ、トラウマになった作品だったー。

☆本日の、『日めくり漱石』は・・・
サライ 「夏目漱石」の記事一覧

“酒を飲むならいくら飲んでも平生の心を失わぬように致したし(『書簡』明治42年1月24日より)”

【1909年4月14日の漱石】酒に酔って喧嘩沙汰を起こし、大怪我をした弟子の治療費を用立てる

今から107年前の今日、すなわち明治42年(1909)4月14日、42歳の漱石は、門弟の小宮豊隆にこんな頼みごとをした。「銀行に行って俺の口座から50円引き出して、三重吉に送ってやってくれないか」/鈴木三重吉漱石の弟子のひとりだが、怪我で千葉の病院に入院していて、3日ほど前、病院から漱石宛てに金を送ってほしいという手紙をよこしていた。/漱石先生、門弟たちに対して優しくても、常に甘いわけではない。趣味や贅沢に使うようなお金を無闇に用立ててほしいというようなわがままを言っても、「御免こうむりたい」と断る。だが、ほんとうに困っている者にはきちんと手を差し伸べる。そういう意味では、じつに頼り甲斐のある先生だった。鈴木三重吉は、この少し前、千葉・成田の中学校に職を得ていた。三重吉はもともと酒好きで、しかも、あまり酒癖がよくない。漱石はかねてからそんな三重吉を危なっかしい思いで見ていたが、この成田行きに際し三重吉は禁酒を誓った。漱石はほっとするとともに、訓戒と激励の手紙を送っていた。/ところが、それからふた月かそこらのうちに、三重吉は酒に酔って鳶(とび)職人と喧嘩し、目の上をしたたかに殴られて視力にも支障をきたしかねない怪我を負い、入院するはめになった。怪我をした経緯に感心はできないが、漱石としてはなんとか三重吉を救ってやらねばならなかった。

ふと、酒好きで知られた俳人・尾崎放哉(おざき・ほうさい)の逸話が思い出される。/放哉も終の住処(すみか)となる小豆島(しょうどしま)へ向かう前日、京都で催された送別の宴で、兄事する俳人荻原井泉水(おぎわら・せいせんすい)らの前で酒を慎むことを約束した。井泉水は、放哉に乞われるまま、白扇(はくせん)にこんな一句をしたためて贈った。「翌(あす)からは禁酒の酒がこぼれる」/東大出身のエリートながら、会社をクビになり、愛妻とも別れる破目になるなど、放哉はこれまで何度となく酒で失敗を繰り返してきた。小豆島では、もう同じ轍は踏むまいぞ。明日からは禁酒。今夜だけは、別れの酒を酌み交わそう。井泉水はそんな意を込めて、この餞(はなむけ)の句を詠んだのだった。翌日、放哉は小豆島へ渡り、望み通りの独居生活に入った。だが、井泉水の白扇は、作者の思いと裏腹に、しばしば放哉が戒めを破る言い訳のために使われた。明日からは禁酒する、今日は飲ませてくれ、というわけだった。/三重吉も放哉も、ある意味同類だった。いや、酒飲みというのは、みな似たり寄ったりなのだろう。

話を、明治42年(1909)4月14日の漱石に戻す。漱石のもとにその後、高浜虚子から「田楽をご馳走するから遊びにこないか」という手紙が届いた。当時の日本ではまだまだ各戸へ電話が行き渡っておらず、その日の用事を手紙でやりとりすることもしばしばだった。郵便の配達はそれだけ頻繁だし、使いの者に託して手紙を届けるというやり方も利用されていた。/夕刻、麹町の虚子庵に赴くと、漱石門下の松根東洋城、小宮豊隆、野上豊一郎もやってきていた。東洋城は、稲荷寿司を手土産に持参していた。漱石は元来が下戸なのだが、この晩は珍しく酒を飲んだ。多少なりと、三重吉に思いを重ねてみようとの心持ちもあったのか。夜遅くなって雨が降り出した。深夜12時頃になって帰宅しようとする漱石に、虚子は自分の番傘と足駄(あしだ/雨天用の高い2枚歯のついた下駄)を使うように勧めた。勧めを受け入れた漱石は、羽織を畳んで懐に入れた。そして、着物の裾を外側に折り上げて、その端を帯に挟む尻端折り(しりはしょり)、足もとは足駄、頭に山高帽をかぶって番傘をさすという、なんとも珍妙な恰好で、雨をものともせず家路についた。いつもはお洒落な漱石先生、一杯機嫌で、少しばかり剽軽(ひょうきん)が前面に出ていたのかもしれない。

細かすぎて伝わらない関連動画など

(「酒」「喧嘩」で動画検索してみました!!)

狩野英孝石川梨華が酔った勢いでケンカ


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狩野英孝は芸能界に残れてるだけで奇跡だと思わないと。。。

中田翔に喧嘩を売る杉谷拳士2


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※このあと100%殴られてるやろー、これは・・・

ジョニーAのつぶやき:中田翔はただのヤンキーやからなぁ~~~~、いつまで経っても。