樹木希林さんから。10代へ直筆メッセージ

withnews 「こんな姿になっても…」若者へ樹木希林さんが直筆メッセージ
役者の樹木希林さん(75)に、「生きづらさを抱える人たちに向けてメッセージを頂けませんか」とお願いをしました。今でこそ数々の賞をとる大女優ですが、過去のインタビューでは、幼少期は無口だったことや、役者になってからも「全然、必要とされない役者」だったと告白しています。その上で、「必要のない人間なんていない」と呼び掛ける樹木さん。がんで闘病しながら、いのちに向き合っている樹木さんから、編集部に届いたファクスは、どきっとする言葉がつづられていました。

編集部が樹木さんにインタビューを申し込んだのは7月中旬。それから約1週間後、突然、樹木さんご本人から、編集部に電話がありました。「ずっとずっと考えていて、お返事が遅くなっちゃったの。ごめんなさいね」/映画などで聞き慣れた気さくな口調は変わりませんでしたが、一言一言考えながら、「どうしたら伝わるのかしら。本当に無力よね、まったく書けないの」と話を始めました。ずっしりとした重みがありました。自らつづって寄稿したいと、ファクスで送ってきてくれたのが、次のメッセージでした。

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“昔からの本を読むと およそ 同じことを言っている /自殺した魂は 生きていた時の 苦しみどころじゃ ないそうだ /本当かどうかは わからないけど 信用している //私は弱い人間だから 自分で命を絶つことだけは やめようと 生きてきた こんな姿になったって おもしろいじゃない KIKI KILIN 75才”

/樹木さんは真意について、ファックスを送る前の電話で、こう話していました。「どうしたら伝わるのかしら」。樹木さんは、つらくてつらくて、今まさに死を考えている若者の姿を思い、言葉を探していました。「でもね、死んだ後の世界は素晴らしい、という風に、私は捉えていないの。生きている時より、大変らしいのよ。脅しみたいになっちゃうけどね」だから、生きてほしい――。樹木さんは、原稿料なども辞退し、言葉を託してくださいました。

樹木さんは、以前、朝日新聞のインタビューに幼少期のことを振り返っています。
「私の小学校時代を知っている人たちは「あの子が女優? まさかね」と、さぞ驚いたことと思います。だって、多くの人は私の声も聞いたことがないんですよ。いつも懐手をして、ほとんど口を利かない子だったんです。学校では、みんながいるところから、少し隙間を空けて立っている子でした。端っこから、周囲の人間をよく見ていました。(出典:2018年5月10日 朝日新聞朝刊 「語る 人生の贈りもの」から)

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樹木さんの小学校時代のエピソードがあります。「私は何だかモサーッとしていて、運動会でもいつもビリでした。だから6年生の水泳大会ではクロールや平泳ぎじゃなく、「歩き競争」というのに出たの。そんな種目に出る上級生は私だけ。あとは小さな低学年の子たちでした。そんなわけでタッタタッタと歩いていたら、あっという間にゴールして1等賞になっちゃった。そしたら、賞品がね、他の種目と同じなのよ。周りの6年生が「なんだ、こいつ。ずるい」と不平を言ってるのが聞こえました。たぶんこの時、他人と比較しても意味がない、ということを覚えたんだと思う。それは今も続いています。/幼いころは、「学校に行かない日もあった」という樹木さん。役者を目指したものの、はじめは「全然必要とされない役者だった」とも言います。2015年には、不登校のイベントに参加して、子どもたちに贈った言葉が、反響を呼びました。

 当事者の視点で不登校や引きこもりについて伝える「不登校新聞」がまとめた内容を引用させて頂きます。「新学期が始まる日、まわりのみんなが“おはよう、今日から学校だね”って笑顔で言葉を交わすとき、“私は学校に行きたくない”ということを考える気持ち、何となくわかります。だから思うの、そう思うこと、それはそれでいいじゃないって。私は小さいとき、自閉傾向の強い子どもでね、じっと人のことを観察してた。学校に行かない日もあったけど、父は決まって「行かなくてもいいよ、それよりこっちにおいで、こっちにおいで」って言ってくれたの。だから、私の子どもがそういうことになったら、父と同じことを言うと思う。それにね、学校に行かないからって、何もしないわけじゃないでしょう。人間にはどんなにつまらないことでも「役目」というのがあるの。「お役目ご苦労様」と言ってもらえると、大人だってうれしいでしょう。子どもだったら、とくにやる気が出るんじゃないかな。

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 ただね「ずっと不登校でいる」というのは子ども自身、すごく辛抱がいることだと思う。うちの夫がある日、こう言ったの。「お前な、グレるってのはたいへんなんだぞ。すごいエネルギーがいるんだ。そして、グレ続けるっていうのも苦しいんだぞ」って。ある意味で、不登校もそうなんじゃないかと思うの。学校には行かないかもしれないけど、自分が存在することで、他人や世の中をちょっとウキウキさせることができるものと出会える。そういう機会って絶対訪れます。/私が劇団に入ったのは18歳のとき。全然必要とされない役者だった。美人でもないし、配役だって「通行人A」とかそんなのばっかり。でも、その役者という仕事を50年以上、続けてこられたの。 だから、9月1日がイヤだなって思ったら、自殺するより、もうちょっとだけ待っていてほしいの。そして、世の中をこう、じっと見ててほしいのね。あなたを必要としてくれる人や物が見つかるから。だって、世の中に必要のない人間なんていないんだから。私も全身にガンを患ったけれど、大丈夫。私みたいに歳をとれば、ガンとか脳卒中とか、死ぬ理由はいっぱいあるから。無理して、いま死ななくていいじゃない。 だからさ、それまでずっと居てよ、フラフラとさ。(2015年8月22日・登校拒否・不登校を考える全国合宿in山口/基調講演「私の中の当り前」から)

本木雅弘、一時危篤状態だった樹木希林の容態について語る(7分57秒)


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※樹木さん危機回避!良かった良かった。




☆書籍「元気が出る言葉」&サライ「日めくり漱石」をお届け♪

(詳細は、1月2日の日記を参照のこと!)

☆さ~~て、本日8月31日(金)の、「元気が出る言葉」は~?

『あの野郎は今スランプに陥って、非常に困っている。ざまぁみろ。』
出展:「人間平岩外四の魅力」(中経出版
発言者:平岩外四 (野蛮人 元経団連会長 1914年8月31日~2007年5月22日)
『解説:財界随一の読書家で、家にある蔵書だけで2,3万冊はあったという。作家城山三郎との対談集「人生に二度読む本」を読むと、いかに彼が経済人でありながら文化人であったかよくわかる。夏目漱石も愛読し、夏目流の非人情思想を活用して、この言葉のように自分を客観視して、ダメな自分(=あの野郎)をあざ笑うことで、逆に「なにくそ」というファイティングスピリットをわきたて、スランプを乗り越えるというのだ。そうだ、そういう自分の中でルールをつくっておくというのはいいアイデアかもしれない。』

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◎関連書籍、楽曲、映画(ドラマ)などなど・・・

Amazon.co.jp 人生に二度読む本 (講談社文庫) 平岩外四(著), 城山三郎(著)
『■内容(「BOOK」データベースより):経済小説の泰斗として数多くの名作を遺した城山三郎。財界リーダーとして活躍し読書家として知られた平岩外四。卓越した識見を備える二人の碩学は、古今東西の文学から何を感じ学んだのか。太宰治中島敦ヘミングウェイカフカジョイス…若き日に没頭した小説を再読し、その魅力を語り合う名著案内。
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/■登録情報:/文庫 304ページ /出版社 講談社 /言語 日本語 /ISBN-10: 4062764210 ISBN-13: 978-4062764216 /発売日 2009/11/13 /梱包サイズ 15 x 10.6 x 2 cm /おすすめ度 5つ星のうち 4.2 /■カスタマーレビュー:店長水木 5つ星のうち4.0 「作家と書痴、二人のおっさんの古典読書のすすめ」2014年10月11日・・・作家城山三郎氏と、財界人 平岩外四氏が出版した、読書のススメ。二人のオススメというよりは、どちらかが好きな12冊を紹介しつつ、その作者や紹介本の周辺について、プロの読書人の2人が放談する形式。各本紹介の冒頭に数ページ程度の紹介本要約があり、ネタバレ気味だが本書の趣旨のひとつは古典をどう味あうかという点であり、問題はない。昔気質な(おふたりとも老人ですから)お二人のダベリに終始する感はあるが、読書好きな人には、十分、我慢の範囲だろう。<紹介の12冊>「こころ」夏目漱石/「老人と海ヘミングウェイ/「人間失格太宰治/「変身」カフカ/「山月記・李陵」中島敦/「車輪の下」ヘッセ/「野火」大岡昇平/「ダブリン市民」ジェイムズ・ジョイス/「ダロウェイ夫人」ヴァージニア・ウルフ/「かもめのジョナサンリチャード・バック/「間宮林蔵吉村昭/「ワインズバーグ・オハイオ」シャーウッド・アンダソン』

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社長のミカタDIGITAL
『ひらいわ・がいし : 大正3(1914)年生まれ。愛知県常滑市出身。東京帝国大学法学部を卒業した昭和14(1939)年、東京電燈(現・東京電力)に入社するが、昭和16(1941)年に召集され、戦争末期にはニューギニア戦線でジャングルを敗走。飢えと熱病のため、107人の部隊のうち生き残ったのは平岩を含めてわずかに7人だけだったという。復職後、昭和43(1968)年に54歳で取締役就任。昭和49(1974)年には末席の常務から一足飛びに副社長となる。昭和51(1976)年、社長に就任。昭和59(1984)年には会長に退き、平成5(1993)年からは相談役を務めた。財界きっての読書家で蔵書は3万冊ともいわれる。平成2(1990)年、第7代の経団連会長に就任。平成4(1992)年、宮沢内閣が邦銀の不良債権処理のために公的資金を投入しようとした際には、経団連会長として「そんなことは考えることもできません」と反対した。上の言葉は東電の会長時代のもの。これに続けて「現在、地球上に起こっている様々な事象は、多かれ少なかれ当事者たちが『利によって行ってきた』結果である」と語った。
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公益事業を預かる経営者として自分自身と東電の上層部を戒めたものだが、平成14(2002)年には原発の点検記録改竄問題が発覚。相談役だった平岩を含め、東電の歴代社長4人が引責辞任した。経団連会長時代の〝平岩語録〟としては、「組織が人を動かす企業は活力を失い衰退していく。人が組織を動かす企業は発展成長する」「人間、逃げちゃいけないと思うんです。大事な時にふわっと逃げる人がいる。これ落第です。ボールは正面でつかむものです」などがあるが、福島原発事故発生時の東電社長、清水正孝氏は入院したまま辞任。〝平岩イズム〟が実践されることはなかった。昭和62(1987)年に名誉大英帝国勲章(KBE)を受勲、平成18(2006)年には桐花大綬章を受章。東電の事実上の創業者で〝電力の鬼〟の異名をとった松永安左エ門(1875~1971年)は、その遺書に「死んでも勲章位階(もとより誰もくれまいが、友人の政治家が勘違いで尽力する不心得かたく禁物)これはヘドが出るほどに嫌いに候」と書いた。平成19(2007)年、92歳で死去。』

☆本日の、『日めくり漱石』は・・・
サライ 「夏目漱石」の記事一覧

“もし悪いようだったら、病院に入れてやるがいい(『永日小品』より)”

1906年8月31日の漱石】娘を入院させた夏目漱石、父としてつらい思いを噛みしめる

今から110年前の今日、すなわち明治39年(1906)8月31日の早朝、39歳の漱石と妻の鏡子は、まだ3歳に満たぬ三女の栄子を、大学病院の隔離病棟に入院させた。/「お母さん、なんかお腹の調子が悪い」栄子がそんなふうに言い出したのは、数日前のこと。鏡子は当初それほどの大事とは思えず、しばらくすればよくなるだろうと考えていた。ところが、日を経てもどうも改善する様子がない。便の色も変なので、昨日の夜、近所の医師に来てもらって診察を受けた。すると、赤痢の疑いがあるという。そんな経緯で、この朝一番に隔離病棟へ入院させる羽目になったのだった。まだ童女だけに、病棟に押し込められた栄子は、さかんに「家に帰りたい」と泣き声で訴える。それが一層切なかった。漱石は栄子の様子を見守りながら、苦しい思いで胸がいっぱいになっていた。「子供が病気になるのは、自分自身が病気するよりずっとつらい。もし万が一のことがあったらどうしよう」言葉にすれば、そんな思いであった。

この日、漱石は所用があって書いた2通の手紙の中にも、自ずと栄子の病のことを綴り込んだ。《僕の第三女が赤痢の模様で今日大学病院に入院したという訳ですがね。ことによると交通遮断になるかも知れません。小供の病気を見ているのは僕自身の病気より余程つらい。しかも死ぬかも知れないとなるとどうも苦痛でたまらない》(高浜虚子宛て)/《十歳以下の小児の病気ほど心苦しきものはこれなく。実は小生も四人の小供をもち候。それが時々病気を致し候節は、自分の病気より遥かに心配に候。現に第三女は赤痢にて今朝大学病院に送られ候》(藤岡作太郎宛て)と、ここまでは親として当然の情。それに加えて、手紙文中に次のような表白も垣間見えるのは、漱石がいかなるときも表現者として冷徹に人間の実相を写そうという思いにとらわれているからこそのことだろう。作家の哀しい業と言ってもいい。《こうなると自分の小供の病気を美文にかいて見ようなどという余裕は出るところにこれなく候。傑作は出来なくてもよいから早く全快してくれればよいと、それのみが苦になり候。(略)現に病人の児を抱えたる親はいかな詩人でもそんな余裕はあるまじくと存じ候》

赤痢は伝染病であるだけに、家の中も、畳を上げて消毒をするやら、井戸さらえなども余儀なくされ、ひと騒動だった。やがて警察医がやってきて家族の健康診断も行い、向こう10日間ほど人の出入りを禁ずる交通遮断も申し渡された。もっともこれを全面的に守るのは無理があるので、表向きは「交通遮断」としながら、私的な出入りまで差し止められることはなかった。鏡子は、できれば栄子にずっと付き添っていてあげたいと思ったが、乳飲み子の赤ん坊(生後8か月の四女・愛子)もいてそうもいかず、家と病院を行ったり来たりしていた。漱石も大学に出講した帰途、毎日のように病院へ足を運んだ。衛生面への配慮もあって、夏目家に水道がひかれたのは、この赤痢騒動からまもなくのことであった。

細かすぎて伝わらない関連動画など

(「赤痢」「病院」で動画検索してみました!!)

●「クロロマイセテイン療法 赤痢、腸チフス、百日咳」東京シネマ1956年製作


●ガスト 赤痢感染


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ジョニーAのつぶやき:すかいらーく赤痢事件は、一つの転機になったのかしらん~?