樹木希林さん追悼 ーそして裕也の動向は・・・ー

HUFFPOST 生きるのも日常、死んでいくのも日常」  樹木希林さんが語っていた死生観
『「生きるのも日常、死んでいくのも日常」ーー。かつて女優の樹木希林さんが語っていた死生観を象徴する言葉だ。2016年に大きな話題となった宝島社の広告「死ぬときぐらい好きにさせてよ」にコメントとして発表したものだ。その樹木さんが9月15日、75歳で死去した。9月16日、テレビ朝日などが報じた。がん闘病が伝えられていたが、今年、カンヌ映画祭で最高賞パルムドールを受賞した「万引き家族」での演技が高く評価されていた。樹木さんといえば、2016年に登場した宝島社の企業広告「死ぬときぐらい好きにさせてよ」が大きな話題になったことも記憶に新しい。死は特別なものとして捉えられているが、死というのは悪いことではない。ジョン・エヴァレット・ミレイの代表的な作品「オフィーリア」をモチーフに、グリーンのドレスに身を包み、水の中に横たわる樹木希林さんの姿に「死ぬときぐらい〜」のコピー。正月早々、全国紙に大きく掲載された広告は大反響を呼び、その年の広告賞を軒並み受賞した。当時のプレスリリースで樹木希林さんは死生観をこう語っている。
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すべては日常の中にある。死と向き合っていた個性派女優らしい言葉だった。』

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※樹木さんの放つ言葉の一つ一つに、説得力が籠っていた!

HUFFOST 樹木希林さんの足跡を写真で振り返る【画像集】
『存在感のある演技で、数々の賞を受けた。』

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・21歳の樹木さん,。この年から始まったドラマシリーズ「七人の孫」での
 演技で話題になっていた=1964年12月

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樹木希林さん=1993年11月29日

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・映画「悪人」で第34回日本アカデミー賞助演女優賞を受賞(左端)=2011年2月

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・映画「わが母の記」で、第36回日本アカデミー賞主演女優賞を受賞=2013年3月

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・映画「あん」で共演した孫内田伽羅さん(中央)とともにカンヌ映画祭に参加=2015年5月

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・映画「万引き家族」がカンヌ映画祭パルムドールを受賞した=2018年5月

スポー報知 内田裕也、亡くなる直前に電話で名前呼びかけていた…終始うなだれ樹木さん見送る
『15日に死去した女優の樹木希林(本名・内田啓子)さん(享年75)の密葬が17日、都内の斎場で営まれ、夫でミュージシャンの内田裕也(78)、長女の女優・内田也哉子(42)、娘婿の俳優・本木雅弘(52)ら親族ら約30人が参列した。裕也は憔悴(しょうすい)した様子で、報道陣の前で語ることはなかった。黒スーツに黒いハット、メガネ姿で斎場を訪れた裕也。関係者によると、娘の内田也哉子ら親族と会話する場面もあったが、終始うなだれた様子だったという。荼毘(だび)に付された際は遺骨を拾い、妻を見送った。裕也は午後6時50分頃に帰宅。車を降りて車いすに乗り込み、無言で自宅マンションに入った。同行した女性スタッフは「(裕也は)ショックを受けていて、気持ちを整理して後ほどコメントします」と話した。
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樹木さんとは1973年10月に結婚したが、同居したのは最初の約1年半だけ。その後は別居状態を続けながら、つかず離れずの独特な夫婦関係を築いてきたが、妻を失ったショックは大きく、憔悴した表情だった。裕也は午後1時すぎ、都内の自宅マンション前に車いすに乗って姿を見せた。昨年、脱水症状で入院。現在は自宅療養中とあって、以前より少し痩せた様子だった。スタッフに介助されながら終始うつむいて車いすを降り、ワゴン車に乗り込んだ。報道陣から「希林さんへの思いをひと言」と質問が飛んだが、この時も無言だった。関係者によると、樹木さんの容体が急変した14日深夜、親族が別居中の裕也に電話で連絡し、声が聞こえるようにスピーカーをオンの状態に。裕也は、次第に意識が薄れていく樹木さんに名前を呼ぶなど言葉を掛けた。樹木さんはそれから程なくして、息を引き取ったという。裕也は16日に樹木さんの自宅を訪れ、無言の対面を果たした。最期をみとることはできなかった。』
※「家族に見守られながらお亡くなりになった」というニュース記事を読んで、
一番気になっていたのは、その「家族」の中に内田裕也氏は入っていたのか?
という件。どうやら死に目にも会わせてもらえず、電話でのお別れとなったよ
うだーーー。ちょっと可哀想な気も致しやすなーー。

内田裕也 妻・樹木希林に追憶コメント!


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isuta 樹木希林があの名画に!「死ぬときぐらい 好きにさせてよ」宝島社広告が今年もスゴイ
『「死ぬときぐらい好きにさせてよ」をメインコピーに、ジョン・エヴァレット・ミレイの名作「オフィーリア」をモチーフにしています。シェイクスピアの「ハムレット」の一場面を描いたこの作品は、生と死の間で神々しい美しさを放つオフィーリアの姿が印象的で、日本にも数多くのファンがいます。今回オフィーリアを演じたのは、“全身がん”を告白した後も飄々と活動を続ける名女優の樹木希林さん。
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少し微笑んだような表情が素敵で、ミレイのオフィーリアに負けないほどの存在感を放っていますね。よく見ると、日本らしい椿の花や実現不可能とされてきた“青い薔薇”、さらには幸福の象徴でしょうか、“青い鳥”なども登場しています。』

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※『モリのいる場所』での老夫婦役はカンペキでした!

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※若いころからおばあちゃん役が定番だったからでしょうか。
樹木さんはずっと今の状態のまま、芸能界を渡ってきたように
思えますーーー

●【西武・そごう】わたしは、私。樹木希林さんスペシャルムービー

※希林さんカッコ良すぎデス!

 《独り語りのセリフを全引用・・・》
今年、あなたはひとつ歳を取る。その度に、歳相応にとか、
いい歳してとか、つまらない言葉が、あなたを縛ろうとする。
あなたは、耳を貸す必要なんてない。世間の見る目なんて、
いつだって後から変わる。
来たことのない服に袖を通して、見たことのない自分に心躍らせる。
他の誰でもない「私」を楽しむ。そんな2017年が、
あなたには必要なのだから。
年齢を脱ぐ。
冒険を着る。

HUFFPOST 樹木希林さんを西武・そごうが追悼。「もっと冒険してもいいというメッセージいただいた」
『西武・そごうが17日、公式Twitterを通じて追悼のコメントを発表した。樹木さんは同社の「わたしは、私。」というキャンペーン広告に出演した。同社は「『年齢にとらわれることなく、自分らしく装い、自分らしく生きる。ファッションに、人生に、もっと冒険してもいいんだ。」という素敵なメッセージをいただきました」と追悼のコメントを発表した。』

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※ロケンロールな新婚時代。

樹木希林さんを偲んでwith soikll5

※フジカラーのCM見てると、子供のころのお正月が思い出されるヤー

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※蛭子さんだ、蛭子さんだ~~!

NHK NEWS WEB 樹木希林さん 去年撮影の映画が来月公開へ
樹木希林さんは、来月13日に公開される映画「日日是好日」に出演し、去年の11月から12月にかけて撮影に参加していました。「日日是好日」は、黒木華さん演じる主人公が茶道を通して人生を学んでいく物語で、樹木さんはこの中で茶道の先生の役を演じています。
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樹木さんが亡くなったことを受けて、黒木さんは「突然すぎて、なんと言えばいいか本当に言葉が浮かびません。希林さんとお仕事をご一緒できたことはとても光栄でしたし、かけがえのない時間でした。もっと、もっと、お話ししたかったです」とコメントしました。また、主人公とともに茶道教室に通ういとこの役を演じた多部未華子さんは「突然のことで言葉がどうしてもつまってしまいます。寒い撮影の中、樹木さんの控え室にお邪魔して、2人で膝掛けを分け合いながらお話ししたこと、忘れません。今はただただ、ご冥福をお祈りいたします」とコメントしています。/大森立嗣監督は「公開初日にお会いできると思っていたのに、残念です。撮影しながら希林さんのことが大好きになっていきました。大事なことをひょうひょうと語る姿が目に浮かびます。出会えたことは僕の財産です。今はただご冥福を祈るばかりです」としています。』
※劇場で予告編を観て、楽しみにしていた最新作(遺作ということに
なるのかしらん?)だ。これは絶対に劇場へ行くっきゃないッス!

●木希林さんインタビュー!VOGUE JAPAN Women of the Year 2013


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※樹木さんの新作映画がもう観られないというのは、とてつもなく淋しい。
 もっともっと芸能界への恩返し、続けてもらいたかった・・・。




☆書籍「元気が出る言葉」&サライ「日めくり漱石」をお届け♪

(詳細は、1月2日の日記を参照のこと!)

☆さ~~て、本日9月17日(月)の、「元気が出る言葉」は~?

『目の前の山に登りたまえ。山は君のすべての疑問に 答えてくれるだろう。』
出展:?
発言者:ラインホルト・メスナー (イタリアの登山家 冒険家 1944年9月17日~)
『解説:地上で多くのストレスや悩みを抱えながら日々を生きている。それでも、黙々と山に登ってみると体の疲れとは反比例して、心は軽やかになっていく。晴れもよし、雨もまたよし。四の五の言わず、ためらわず山に登ろう。山より大きな猪はいないのだ。君のすべての疑問が、その山ほど大きくないことに気づくだろう。ラインホルト・メスナーは人類史上、最初に8000メートル峰全14座完全登頂に成功した冒険家だ。』

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※みるからに山男やなぁ~~~~~。

◎関連書籍、楽曲、映画(ドラマ)などなど・・・

●映画『ヒマラヤ 運命の山』予告編

・1970年に標高8,125メートルのナンガ・パルバートでルパール壁の初登頂に成功した登山家、ラインホルト・メスナーの実体験を基に描かれる冒険記。

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※きょ、兄弟で登るんやーーー。

Amazon.co.jp ラインホルト・メスナー自伝―自由なる魂を求めて 単行本 ラインホルト・メスナー (著), Reinhold Messner (原著)
『■内容(「BOOK」データベースより):自然と、そして自分と向き合うためにひたすら登りつづけるアルピニストラインホルト・メスナーが、山への情熱をいだきはじめた幼年時代から無酸素登頂への挑戦、8000メートル峰全登攀を経て、やがて旅に心の安寧を見いだすまでをつづった本格的自伝。
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/■登録情報:/単行本 442ページ /出版社 阪急コミュニケーションズ /言語 日本語 /ISBN-10: 4484921243 ISBN-13: 978-4484921242 /発売日 1992/11 /梱包サイズ 19 x 13.8 x 3.4 cm /おすすめ度: 5つ星のうち 4.0 /■カスタマーレビュー:扇風機が壊れた 5つ星のうち4.0 「やっぱりメスナーはスペシャルでユニークな存在」2008年10月13日・・・メスナーの登山記録が淡々と記されています。巻頭のほうでは、メスナーがどのようにしてクライミングに興味を持ち、練習を重ね、その道へ進んでいったかがわかります。そして、それを読むにつけメスナーはスペシャルでユニークな存在なのだなと実感しました。本書では、弟ギュンターの死の経緯についてもメスナーの言葉で書かれています。一つ一つのクライミングに割かれている分量が少ないせいもあり、「物語」としてのドラマティックさはあまりないです。なので、途中で中だるみしてしまう人もいると思います。しかし、メスナーについて知るためには、やはりメスナー自身が書いたこの本を読まないとわからないと思います。そういう意味では、メスナーに関心がある人は一読すべき一冊だと思います』


もしあなたに「なぜ生きているのですか」と訊ねたら、何と答えますか。私にとって山に生きることとの間に違いはありません

私はこれまでに一本もボルトを使っていません。酸素ボンベも同様です。これはいまだに私の哲学になっています。酸素ボンベなしで登れないのなら、その山には登りません

死の危険がなかったら、クライミングは、もはやクライミングではありません。山に登っているとき、私は死を求めているのではなく、それとは正反対に、なんとか生き延びようとしています

自分自身のために登る。僕自身が祖国となり、僕のハンカチが国旗となるからだ

死ぬ本人にとっては、死は悲劇ではありません。本人が生きていて悲劇を味わうわけではないからです。悲劇は後に残された者だけのものです

☆本日の、『日めくり漱石』は・・・
サライ 「夏目漱石」の記事一覧

“いくら心配してもなるようにしかならんものだから、そうあくせく焦慮しないがいいでしょう(『書簡』大正元年8月15日より)”

【1913年9月17日、46歳の漱石】単行本の校正を門弟の誰に頼むかで大いに悩む

今から103年前の今日、すなわち大正2年(1913)9月17日、46歳の漱石は小説『行人』の単行本出版に関連して、門弟で東京帝国大学の学生である岡田耕三(のちの林原耕三)へ連絡の手紙を書いた。

《小生の行人も本屋で着手してもよいと報知してやらねばならぬ時機となり候処、君は検定の為大分多忙のように見え候が御都合は如何にや、もしお差支あらば内田が是非やらしてくれと云うているからあちらへまわそうと思います。然し内田は月々の小使に困るのでないから君の都合さえつけば君に譲る積だろうと思う》

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『行人』は漱石が前年の12月6日から東京と大阪の朝日新聞に連載を開始し、漱石の体調不良のために4月7日で中断していた。この2日前の9月15日に「『行人』続稿に就て」という原稿を同紙に掲載して、近く連載を再開することを読者に告知していた。/漱石は当初、間があいてしまったので、続きの原稿は新聞紙上には載せず、単行本の方で読んでもらえればいいだろうと考えていた。そのつもりで、7月半ばから続編(塵労)の執筆準備にとりかかっていた。ところが、朝日の方で、中断後の続稿を新聞紙上に掲載しても読者はさほど戸惑わないし、むしろ読みたい人も多いのではないかという話になり、この翌日(9月18日)から連載再開予定となっていた。

一方で、単行本の発行元は大倉書店ということで下話が進んでいた。新聞連載再開という形をとるにしろ、大倉書店の方へは連絡をして、そろそろ発刊に向けた編集作業にとりかかってもらう必要があった。漱石は、単行本をまとめる際には、門弟の誰かに校正を手伝ってもらうことが多かった。門弟たちからいえば、勉強にもなり、また出版元から支給される手間賃は彼らの学資や生活費の足しにもなるのだった。

手紙文中の「内田」は、このころ東京帝国大学に在籍している内田栄造。のちに『百鬼園随筆』『阿房列車』などのユーモラスな随筆や短編集『冥土』に見られる夢幻的小説で名をなす内田百間を指す。百間(内田栄造)の実家はもともと岡山の裕福な造り酒屋で、百間が中学時代に倒産したとはいえ、小遣いに窮しているようには見受けられなかった。アルバイトをする必要性は岡田耕三の方が高い。漱石はそう認識し、優先順位をつけて気配りを働かせていたのである。漱石の推測通り、岡田耕三は多忙で校正の手伝いにまで手が回らなかった。結局、その任には内田百間が当たった。

細かすぎて伝わらない関連動画など

(「校正」「連載」で動画検索してみました!!)

●【伊集院光】2013年7月29日深夜の馬鹿力~伊集院さんがサイン会を開かない理由

・2013年7月29日放送。伊集院光深夜の馬鹿力より。
伊集院ひかるさんがサイン会を開かないのにはある理由がある、という話題。

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※実際のサイン会は大盛況だったようですー

あだち充『タッチ』で和也の死に編集長がNG

・あだち氏の代表作「タッチ」では、主人公の上杉達也の双子の弟・和也が交通事故で亡くなるという展開が、多くの読者に衝撃を与えた。田中裕二は「漫画の歴史の中でも最大のひとつでしょう」と振り返り「あの時のいわゆる担当の人と、あだち先生はどういう感じだったんですか?」と質問をした。市原氏は、当時の編集者は自身の恩氏であるとし「実はあれは『タッチ』が始まる前から決まっていたんです」と告白した。だが、当時の編集長は知らなかったそうで、亡くなる前の連載を読んだ編集長から「まさかこれ、死んでるんじゃねぇだろうな?」「もし死んでるんだったら、載せねぇからな」とまで言われていたのだという。
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そのため、編集者は「死んでるわけないじゃないですか」とその場を取り繕い、あだち氏の原稿が上がると、チェックした校正紙を編集長の机に置き、内容を直せないように2日間いなくなったのだという。この話に太田と田中は大ウケ。田中は「すげぇ話!!そんなことあったんだ、聞いてよかった」と名作の裏話に興奮していた。
※『爆笑問題の日曜サンデー』2015.7.19より

ジョニーAのつぶやき:校正作業って“鬱陶しい”の一言だよな~~~