樹木希林さんの記事 ~万引き家族のことなど~

・9月30日、女優・樹木希林さんの告別式が行われたーーー

AERAdot. 樹木希林が「ヌードより恥ずかしい姿」で見せた女優魂
カンヌ国際映画祭パルムドール受賞の「万引き家族」に「モリのいる場所」。公開中の2作品の、樹木希林さんのリアルな演技に多くの人が圧倒される。いかに「人間」「日常」を描くのか。縦横無尽に語ってもらった。「女優がそんなことをするのは、ヌードになるより恥ずかしいことですよ」って人に言われた。入れ歯をはずしたのよ。映画「万引き家族」で。髪の毛もだらぁと長くして、気味悪いおばあさんでしょう? 自分の顔に飽きたの。是枝(裕和)監督の作品に出るのも、これが最後だと思ったから提案したわけ。私ももう後期高齢者で、店じまいを考えないといけない時期ですから。それに、人間が老いていく、壊れていく姿というのも見せたかった。高齢者と生活する人も少なくなって、いまはそういうのをみんな知らないでしょう? 映画のなかで、みかんにかぶりつく姿がすごいと言う人もいるけれど、実を歯ぐきでしごいたの。歯がないって、そういうことなのよ。
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/雷が落ちた話も本当よ。カンヌに向かう途中の飛行機でね。離陸して間もなくだった。ドッギャーンってすさまじい音がして、私の座席の上の(内壁の)天井が破れて、破片やらなにやら色々落ちてきた。黄色い酸素マスクが三つユラユラ揺れて、まるでくす玉が割れたみたいだった。カンヌに着いて「飛行機でくす玉が割れちゃったから、カンヌでの賞はもうないと思うわ」って言ったら、「やめてくださいよぉ」ってみんなに嫌がられたわね。そうしたら、逆だった。あれは、パルムドール受賞の、前奏のファンファーレだったわけよね。是枝さん、これでファーストクラスに3回くらい乗れるわね。私は是枝さんから聞いた話で、大好きなエピソードがあるの。是枝さんが小学校半ばごろの話なんだけれど、学校の先生に「是枝君、あそこで騒いでいる生徒たちを静かにさせて」「この子たちにこっちの掃除させて」って。「是枝君」「是枝君」と言われるたび、「はい」「はい」って先生に言われる通り、一生懸命やってたんですって。それで、その年の通信簿が配られて、その通信欄に書かれていた、先生のひと言が「是枝君は、子どもらしい伸びやかさに欠ける」。笑ったわねぇ(笑)。おかしいでしょう。でも、大好きなエピソードなのよ。先生はなにげなく書いたんだろうし、実際そうだったんだろうと思う。だけどなにか後まで響くわよね、こういうのって。で、人生をそうやって見てきているのが是枝さんなのよ。(中略)
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小さなことの積み重ねが、映画のなかの「日常」にリアリティーを加えていく。でも、それは普段からいろいろ見ていないとできない。現場でいきなり思いつくものでないのよ。役者は当たり前の生活をし、当たり前の人たちと付き合い、普通にいることが基本。私は普通に電車に乗るし、Suica(スイカ)も持ってますよ。この間、「徹子の部屋」に出たとき、スイカをちょうど持っていたので出したら、(黒柳)徹子さんが「あら、スイカってこういうものなのね」って言うから、「皆さん、知ってますよ」って言ったわ。
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映画「あん」のときも、監督の河瀬(直美)さんがハンセン病の療養所に行くのに「西武新宿線の駅で待ってます」って言うから、「はい、わかりました」って。電車に乗って行って、帰りは(原作者の)ドリアン助川さんと3人で帰って。ドリアンさんが「希林さん、電車に乗って目立ちませんか?」って言うから、「そんなことないわよ」って答えたら、河瀬さんが「希林さんは、人のなか入るときに自分の姿を消しはる」って言ったの。そうなの。そうでなければ人間観察ができないでしょう。
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  型通りにいかないのが日常で、「人を見る」ことが演技の大事なアイデアのストックになるわけ。例えば「モリのいる場所」では、妻は縫い物しながら碁を打って。片手間にやっているのに強かったり。夫の服についたカレーをふかせながら電話に出ると、文化勲章を伝える内容だったり。「カレーのしみ」と「文化勲章」。それが日常であり、日常の面白さでもあるのよ。入れ歯も実は、若いころはずして歩いているおばあさんを街で見かけて、いつかやりたいと思っていた。「万引き家族」で念願かなったりなの。まさか「ヌードより恥ずかしい姿」を全世界にさらすことになるとは思っていなかったから。世界広しといえど、こんなことする女優、なかなかいないと思うわ(笑)。(構成/編集部・石田かおる)』
※確かに『万引き家族』の樹木さんを見て、最初は別人かと思ったもんなーーー。
まさかの、歯抜け婆さん。若い頃からお婆さんの役には定評があったが、ここ
へ来てガチの老人をぶっこんで来たか!と。恐るべし、女優希林!!

樹木希林 「居酒屋ばあば」 (2017年)<50分51秒>


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※あぁ~~!映画『人生フルーツ』早く観たいよ~~~~~~ぅ!

☆DVDになるのは時間がかかりそうだ、っつーことで・・・
宝塚シネ・ピピア 公式
『11/24よりアンコール上映決定「人生フルーツ」。』
※その後、続々と樹木希林さん追悼特集を組んでおられます。素敵~~♪
通おうかしらん?

●映画『人生フルーツ』予告編


樹木希林さんが30年来の親友に生前、打ち明けていた『万引き家族』ラストシーンの秘密とは?〈週刊朝日〉
樹木希林さんの葬儀が9月30日午前10時から、東京・港区の光林寺で執り行われた。「全身がん」公表から5年。9月15日、自宅で家族に見守られながら、75年の人生を終えた樹木希林さんの死を惜しむ声が、あちこちから聞かれている。「今でもふっとそこに現れそうな気がする。寂しくてたまりません」。こう話すのは、希林さんと30年来の親友だった、ファッションデザイナーでブティック経営者の遠藤勝義さん(68)。希林さんが亡くなる2カ月前まで、2週間に1回のペースで会っては、一緒に食事したり、家に遊びに行き来する仲だった。遠藤さんを“ムッシュ”と親しみを込めて呼んでいた希林さん。「感覚が一緒」「あなたと出会えて良かった」――。生前、希林さんからもらった言葉は、大事な宝物だ。
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遠藤さんと希林さんとの出会いは、80年代の「夜のヒットスタジオ」の収録現場。遠藤さんは当時、アイドルとして全盛期を迎えていた榊原郁恵さんの衣装を担当しており、そのセンスに、希林さんが惚れ込んだのが始まりだ。以来、希林さんの衣装の相談を受けるようになった。「ここぞ」という時は、遠藤さんが仕立てる服を頼った希林さん。普段は、家族が着なくなった服を組み合わせて着ることも多かったというが、「人様の前に出る時は、あんまりボロ着ばかりも着られないわね」と、オーダーメードで服を仕立て始めた。とにかく物を大事にする人で、着なくなった服も自分でほどき、「これで何か作って」と、生地やビーズを持ってくることもあったという。/これまで遠藤さんが希林さんのために誂えた服は、30着超に上る。どれも、世界でたった一つのオリジナルだ。トルソーに生地をたらしては、衣装のイメージについて、ああでもない、こうでもないと、二人で延々と議論を重ねる。打ち合わせが終わる頃には二人ともヘトヘトだったが、「こういうのは疲れるけど楽しいわね」と、イキイキした表情で笑いあった。
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そんな数々のオーダーメード服の中でも、希林さんが特に気に入った服が、2008年、紫綬褒章受章式でまとった黒いドレス。黒いロングチュールと2枚仕立てになった作りで、肩から首にかけて連なるゴールドの刺繍が印象的な一着だ。希林さんは、このドレスを2010年の映画「ゴースト もういちど抱きしめたい」でも着用したばかりか、2015年のカンヌ国際映画祭でレッドカーペットを歩く時にも身にまとった。「こんなにも気に入ってくれて、本当に嬉しかったですよ。だけどオーダーメードで服を作っていることは、あまり外で話したがらなかった。“私はそんなガラじゃないし、恥ずかしい”なんて言ってね」(遠藤さん)
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(葬儀に訪れた松岡茉優さん)
希林さんが、最後に遠藤さんの店に立ち寄ったのは、亡くなる2カ月前のこと。遠藤さんはちょうど不在だった。いつも遠藤さんが店にいない時には、すぐに帰っていたのに、その日は珍しく、店の従業員と1時間半も話し込んだ。「照れるから」と、別れ際は振り返らず、さっと去るのがお決まりだったが、その日はなぜか、振り返って手を振ったという。「その1カ月後、希林さんと電話で話したのが最後でした。珍しく“これからも頑張ってね”“ありがとうね”なんて言葉が飛び出して、ちょっと嫌な予感がしていたんです」(同)/娘の内田也哉子さんからの電話で、希林さんの訃報を知ったのは、その電話から1カ月後のことだった。「体のあるうちに、会ってあげてほしい」そう也哉子さんから言われ、飛んで行った。「本当に綺麗な死に顔で、まるで寝ているように安らかなお顔でした」(同)30日に行われる本葬儀で、遠藤さんは希林さんに最期の別れを告げる。「希林さんは、映画を撮り終える時、心の中で“ありがとう”と唱えるのが決まりなんだって、話してました。
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映画「万引き家族」(是枝裕和監督)のラストシーンの中で、海辺にいる希林さんが口パクで何か言うシーンがあるでしょ。あれも、映画に“ありがとう”って話してたんだそうです。内緒だって言われてたんけど、希林さん、もう言っていいよね?」/常に感謝の気持ちで、作品と向き合ってきた希林さんは、作品を通して多くのものを人々に届けてくれた。日本中が、「ありがとう」の思いで、最期を見守っている。(本誌・松岡かすみ)※週刊朝日 オンライン限定』
※もう一回、樹木さんの勇姿を拝みに、劇場へ足運んでみっかなぁ~~~~。

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※まだまだ新作も残っているし・・・これからも楽しませてもらいます!
宜しく!希林さん!!(写真:アラーキー撮影)

内田裕也 - 朝日のあたる家(The House of the Rising Sun) NYWRF 40th

※希林さんが、「人生の最後に聴いて逝きたい」と雑誌のインタビューで
答えていた楽曲。




☆書籍「元気が出る言葉」&サライ「日めくり漱石」をお届け♪

(詳細は、1月2日の日記を参照のこと!)

☆さ~~て、本日9月30日(日)の、「元気が出る言葉」は~?

『人生の目的は、「自分の人生の目的」をさがすことである。自分一人の目的、世界中の誰ともちがう 自分だけの「生きる意味」を見出すことである。』
出展:「人生の目的」(幻冬舎
発言者:五木寛之 (小説家 随筆家 1932年9月30日~)
『解説:「青年は荒野をめざす」「風に吹かれて」など、五木寛之は初期の作品から一貫して人生の価値を求めて旅をする。「デラシネの旗」という作品もある。デラシネとは根無し草のこと。五木は、朝鮮、福岡、東京、金沢と放浪してきた。数々のベストセラー作品を書き続けてきた。が、阪神・淡路大震災を機に宗教にも関心を示し、エッセイの基調も変わってきた。自分の人生の目的とは何だろう。五木は生きる意味を探して、まだ筆を擱(オ)かない。』

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◎関連書籍、楽曲、映画(ドラマ)などなど・・・

孤独のすすめ - 人生後半の生き方 (中公新書ラクレ) 新書 五木寛之(著)
『■内容紹介:著者が2015年に『嫌老社会を超えて』を出版し、世代間闘争や暴走老人に警鐘を鳴らして約1年半。老人による交通事故報道が後を絶たず、2017年には改正道路交通法が施行されました。100歳以上の高齢者が6万人を超え、団塊世代が70歳を迎える今、新たな「老い方」を考えることは日本にとって、私たち一人ひとりにとって最も重要な課題であるといえます。しかし、「高齢になっても元気に前向きに」は誰もができることではありません。老いに抗わず、等身大に受け止め、工夫して楽しむ。「嫌われる、迷惑をかける老人」にならないなど「賢老」という生き方のために日々実践できることを、84歳の著者自らの体験も交えながら綴った1冊。
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/■登録情報:/新書 181ページ /出版社 中央公論新社 /言語 日本語 /ISBN-10: 9784121505859 ISBN-13: 978-4121505859 ASIN: 4121505859 /発売日 2017/7/6 /梱包サイズ 17.4 x 11 x 1 cm /おすすめ度 5つ星のうち 3.3 /■カスタマーレビュー:TAKERU VINEメンバー 5つ星のうち4.0 「五十代からはシフトダウン」2018年4月27日・・・老いの愁いを、「孤独」と等価なものとしている。「孤独」をたのしみ、受け入れるには、精神の自立が必要で、そのために重要なのは死生観の確立ではないかという。老いていく自分を「諦める」ことから、それは始まる。「諦める」とは、マイナス思考ではなく、「明らかに究める」という意味なのである。今は、嫌老社会であると著者は認識している。高齢者に向けられる「嫌老」という眼差しに気づき、自分なりに、つつましく生きていく。右往左往してみるもよし。老いという現実を、肯定的に受け止める言葉を本書はプレゼントしてくれる。五十代はとうに人生後半に突入している。シフトダウンして生きる。これが、「老い」を肯定するための大切なキーワードだろう。』
※「アキラカニキワメル」を略して「アキラメル」か・・・。
言葉のセンスが抜群に良いですな~~。惹かれます!!

●織江の唄{青春の門

※この曲、妙に耳に残る♪

毎日が発見ネット 作家・五木寛之さん インタビュー 2018年4月14日
『ロマンスグレーの波打つ髪にツイードのジャケット。おしゃれで、メタボなんて言葉とは無縁のスタイルを保っている作家の五木寛之さん。「80歳過ぎまでは歯医者以外は病院のお世話にならず、"自分の面倒は自分で見る"という考えでやってきました。いま、85歳。左脚が痛むので病院に行ったら、変形性股関節症と診断されました。原因は加齢のようです」。笑顔でそうおっしゃいますが、実は五木さん、若いころから片頭痛など数々の持病があり、50歳ぐらいまでは体調不良に悩まされてきたのだとか。まず、その持病を克服した健康法について伺ってみました。五木:昔から"医療に治療なし"と言いますが、病気は治すのではなく、だましだまし馴らして、治めるもの。だから僕は、「治ります」というのはあまり信用しないんです。健康ブームのいまは本当に情報が氾濫している。寝方一つでも、横向きで寝るのがいい、仰向け寝がいい、うつぶせ寝がいいと権威のある人が全く違うことを言われ、治療法や薬も数年前とは全く違う情報が次々に出てくる。確かに、医学は急速に進歩していますが、科学で解明されているのは、まだほんの一部に過ぎません。そうした中で、生きていく上で本当に役立つのは、知識よりも人間の直感。薬を飲んで「何か嫌な感じがした」とか、「このお医者さんとは合わない」という体の声だと思いますね。/五木さんがそう考えるようになったのは、50歳を過ぎてから。人生の後半をどう生きるのかを考えるようになってからだそうです。「僕が、最も持病に苦しんでいたのは40歳~50代前半。この間、数年にわたる休筆を、2回したほどです。特に苦しかったのは、1カ月に一度ぐらいの周期でやってくる激しい片頭痛と吐き気でした。そして、その原因が分からないことも、不安材料になっていました」そこで、自分の体調を観察し、体の声を謙虚に聞くようにしてみたと言います。すると、片頭痛の予兆が次第に分かってきたのだとか。
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「僕の場合は、気圧が変化すると上瞼(まぶた)が下がったり、唾液が少しネバネバし、額はそんなに熱くないのに首の後ろが熱くなったりする。それをいち早くキャッチし、天気図を見て、高気圧が低気圧に変化するときは、無理をしない。風呂に入らない、アルコールを控える、締め切りを延ばすとかね(笑)。そうやって自分で工夫しているうちに、体調の整え方が分かり、自分に合った生活習慣ができてきたのです。腰痛も同じです。若いころは、どうにか治せないかと悪戦苦闘したものですが、『腰痛は生涯の友。完治しなくていい』と考えを変え、自分なりの矯正方法をやってみると、それが気分転換にもなり、不思議と痛みも和らいできました。治療というより、『養生』です。古来中国では、人間には持って生まれた〝先天の気〟と、生を受けてから養われる"後天の気"があり、二つのエネルギーがなくなると死を迎えると考えたそうです。ですから、元気に生きるためには、食事、睡眠、運動、環境などに気を配り、生きる力を養う『養生』が欠かせない。そういうことが分かってきたのは、50歳を過ぎてからですね」ところが、健康情報が氾濫しているいまは、少しでも具合が悪くなると病院へ駆け込み、薬を飲む「健康病」の人が多くなったと五木さん。「整体で知られた故・野口晴哉(はるちか)さんの言葉に、『風邪と下痢は体の大掃除』という名言があります。風邪をひくのも、下痢をするのも、無理をして体のバランスが壊れていることを教えるためのサイン。上手に風邪をひけば、以前よりも体調が良くなると野口さんは言っています。風邪のひき始めに高熱が出るのは、早く終わらせるための反応なのに、苦しいからとすぐに解熱剤や風邪薬を飲んで、熱を人工的に下げてしまう。それで風邪が長引き、免疫力がかえって弱まり、風邪の裏に隠れている病をなかなか見つけられないということも起こります。片頭痛にしても風邪にしても、『予兆のない病気はない』。これは、僕の持論です」
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そう言いながら五木さんが引いてくれたのは、兼好法師の『徒然草』の一節。四季はなほ、定まれるついであり。死期はついでをまたず、死は前よりしもきたらず、かねてうしろに迫れり。「四季は順繰りにやってくるが、死期はいつくるか分からない。死は前からではなく後ろから忍び寄ってくる...。兼好が言うように、病も、死も後ろから、気づかぬうちに迫ってくるというのが真実だと思います。その予兆を見逃さないためにも、体の声を聞ける直感力を養っておかなければと思います」/五木さんが40歳になる前にタバコをやめたのも、車好きとして知られていたのに60代前半で車の運転をやめたのも、やはり、予兆を感じ取ってのことだったとか。「いまのように嫌煙権などなく、物書きとタバコはセットのような時代でしたから、ヘビースモーカーでした。ところがある日、息苦しくて地下鉄に乗れなくなった。息を吸うことはできても、うまく吐き切れない。それが、タバコをやめた理由です。車の運転をやめたのは63歳です。新幹線に乗っていても、60歳までは通過する駅名がピタッと止まって読めた。それが読めなくなり、いつも走る高速のカーブを曲がるときに、同じラインをトレースすることが難しくなってきた。これは、動体視力が衰え、立体感や遠近感を認識する能力が衰えてきた証拠です。運転をやめるのは、男を辞めるぐらいの思いがありましたね。乗らなくなってからも、車のボンネットを開けて、エンジンをいじってみたり...。でも、人間は一定の年齢を超えると生理的にも肉体的にも衰えていく。それを認めず、『前向きに』とか、『アンチエイジングで』というのは、老いをネガティブに捉える発想です。『老い=あきらめ』と捉えている人もいますが、そもそも『あきらめる』とは、『明らかに究める』という意味。自分の状況を明らかに究めて受け入れ、その上で、その時々の自分に合った、自分に必要な生き方を模索していくことが大事なのだと思いますね」/体調が悪く、49歳で2回目の休筆宣言をしたとき、龍谷(りゅうこく)大学の聴講生となって仏教史を学んだ五木さん。それは、「人生の後半生には内面が必要」と考えてのことだったと言います。そしていまも、咀嚼(そしゃく)、誤嚥(ごえん)、転倒など、毎年、新たなテーマを決めて勉強をしているのだとか。「自分で実験をして検証をしなければならないので、面白いですよ。お金がかからない趣味ですね(笑)。例えば、咀嚼。いまでは人の顔を見ていると、どちらの歯で多く噛(か)んでいるか、分かります。均等に噛まないと、顔がゆがんでくるからです。誤嚥と転倒は、肺炎や寝たきりの原因となるため、高齢者にとっては予防したい二大テーマ。自分でも左脚が痛むようになってからは、転倒には常に注意を払うようになりました。なぜなら、無意識が事故を招くからです。
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よく、ギックリ腰予防には、『これから重い物を持ち上げるぞ』と脳に指令を出し、意識をしてから腰を落として持ち上げれば大丈夫だといわれます。誤嚥と転倒も同じで、『これから水を飲むぞ』『階段を下りるぞ』と指令を出し、しっかり意識してから行うことが、いちばんの予防になると思います。そしていま、筋肉より大切だと注目されているのが、骨。骨粗鬆症(こつそしょうしょう)予防には、骨に衝撃を与えることが大切で、力士が踏む四股がとてもいいそうです。そう言われると、すぐに実践する人や、逆にこの年齢ではできないと頭ごなしに否定する人がいますが、健康法も時期相応。60代と80代では、違ってきて当然です。考え方を固定せず、自分の変化に合わせて続けていくのがいいんです」
あらゆるものは、世の中の動きに合わせて、生まれてくるもの。「親鸞(しんらん)にしても、比叡山にいたときと、29歳で山を下りたとき、越後に行ったとき、関東に行ったときでは、全く考え方が違う。変わっていく、揺れていくから、人生は面白い」と五木さんは言います。では、これまで経験したことのない人生100年時代を、私たちはいま、どう生きていけばいいのでしょうか。「考えておかなければいけないのは、この先は国や社会に頼れない世の中になるかもしれない、ということです。いま、中東からの移民・難民がヨーロッパ諸国に押し寄せて大きな国際問題になっています。イギリスはEUから離脱し、スウェーデンとフランスは徴兵制度を復活させるという。多くの国が保守化し、ナショナリズムが勃興している。僕は日本が太平洋戦争に負けたとき、現在の北朝鮮の首都、平壌ピョンヤン)に住んでいました。敗戦が明らかになった夜、父親が教師をしていた師範学校の生徒たちが、突然、人民保安隊と称して拳銃を持って現れ、ソ連が侵攻してからは無法地帯です。政府高官や日本軍の幹部はさっさと内地へ帰還し、置き去りにされた日本人は難民になった。蟻の大群のように山を越えて野を歩き、河を渡って祖国を目指した。いま、世界で起こっていることも、同じです。国家に頼ることなどできない。そうした思いから、僕は60年代の後半から「デラシネ(漂流者)」をテーマに小説に書き、話もしてきました。ところが最近は、いまこそが『デラシネの時代』だと感じるようになりました」/フランス語で「根こぎにされた」の意味をもつデラシネ。そこから発想を膨らませた五木さんは、「故郷や祖国から切り離された人、漂流者」としてこの言葉を使ってきました。「祖国にいながら、国の保護を受けられない人もデラシネです。僕は、ソ連が崩壊したときにモスクワに行きましたが、機能しているのは闇市だけ。年金などは全て止まり、高齢者は為す術もない状態でした。日本はまだ、国や社会保障が機能していますが、やがて年金が崩壊したり、戦争に巻き込まれるかもしれない。“まさか”ということが起こるいまのような時代には、国家や社会に依存するのではなく、一人ひとりが自由なデラシネ(漂流者)だと自覚して、自分の生き方を自分で探し、自分の健康は自分で守る。生き抜くための最大の財産は、健康なんですから。その覚悟が、本当の意味での個の確立につながるんです」
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そのためには、当然、孤独であることが必要だと五木さん。「孤独というと独りを連想しますが、僕が考える孤独は、『和して同ぜず』。集団の中にいて和を保ちながら、自分をしっかり持っていること。例えるなら、自分のパートを歌いながら、みんなとハーモニーを奏でる合唱のイメージです。一方、集団にいるのを嫌い、隠遁生活を送るのが、孤立。高齢になると孤立する人が多いので、できるだけ集団の中に出かけていく。そして、『和』と『個』の複眼的視点を持って、社会と関わっていく方が心と体の健康にもいいですね。人類がこれまで経験したことのない人生100年時代を迎えても、寝たきりではしかたがない。健康に留意し、寿命が延びた分は、自分の理想に近づくべく楽しめばいいんです」。可能な限り現役で仕事をしながら、「死ぬときは一人で」が理想だという五木さん。「人間は一人で生まれてくるのですから、死ぬときも一人旅です。野生動物のように、最後は群れを離れて死ぬ姿を見せないのが生き物の理想のような気がします。周りの人に迷惑をかけないように書類などの準備をし、『そろそろですから』と声を掛け、"逝く鳥後を濁さず"で旅立てないものか。死の心構えや死の作法についてはまだ何も確立されていないので、自分らしいスタイルを研究していくのも、これからの楽しみの一つかなと思っています」。取材・文/丸山佳子 撮影/奥西淳二 イラスト/坂木浩子』
※奇しくも、上記の樹木さんの生きざま、死にざまと被る部分があります・・・

☆本日の、『日めくり漱石』は・・・
サライ 「夏目漱石」の記事一覧

“誰の目にも間違いと見ゆるは構わず御訂正の事(『書簡』明治45年7月28日より)”

【1915年9月30日の漱石寺田寅彦を誘ってショパンを聴きに音楽会へ出かける

今から101年前の今日、すなわち大正4年(1915)9月30日、漱石は門下生の岡田耕三(のちの林原耕三)への返事の手紙をしたためていた。漱石の手もとには、ここのところ、岡田からの問い合わせの手紙がよく届いていた。《妾はすべてあたしにてよろしからん》葉書に、ただ1行である。この「あたし」の部分に、漱石は傍線を引いた。

実はこれは、単行本の校正に関わる指示だった。漱石はこの9月14日まで、朝日新聞に全102 回にわたって『道草』を連載していた。漱石作品の中でもっとも自伝的要素が強いと指摘される長編小説である。連載終了後、岩波書店から単行本が発行される運びになり、いま準備が進められていた。岡田耕三は、その校正作業を任されていたのである。

これより3日前、漱石が同じ岡田耕三宛て書簡に、《これ位(時によりてぐらいにもなる事あり)。この位(必ず清む)。それ位(これも時により濁る)。その位(必ず清むと考える)》などと綴っているのは、当時の単行本には振りがなが多く、総ルビのものさえ少なくなかったことと関係する。

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近年の出版物では、振りがながさほど目立つことはないし、まして特別なものを除いて総ルビのスタイルは見られない。それは、第2次大戦後、国語をもっと簡潔にして学びやすくすべきだという考え方から、一般に使用できる漢字を大幅に制限する一方で振りがな(ルビ)をも使わない方向性がつくられたことによる。

具体的には、昭和21年(1946)に当用漢字1850字が定められたことが大きかった(「当用」というのは当面使用できるという意味で、将来的には漢字を全廃する意図を含んでいた)。以前から同様の議論はあってもなかなか踏み出せなかったこうした改革が、このとき急激になされたのは、やはり米軍占領下でGHQ主導の国語国字改革という推進力が働いたことが大きいだろう。

日本側からこれに賛同し大きな役割を果たしたのは、作家で国語審議会委員もつとめた山本有三だったと言われる。山本は戦前から「振りがな廃止」を提唱して、こんなふうに語っていた。「立派な文明国でありながら、その国の文字を使って書いた文章がそのままではその国民の大多数のものには読むことが出来ないで、いったん書いた文章の横に、もう一つ別の文字を列べて書かなければならないということは、国語として名誉のことでしょうか。一つの文章をつづるに当って、文章を二列に列べて書かなければ、いっぱんに通用しないというような国語が他にあるでしょうか。

近頃私はルビを見ると、黒い虫の行列のような気がしてたまりません。なぜ、あのような不愉快な小虫を、文章の横に這いまわらせておくのでしょう」閑話休題漱石は、岡田耕三に校正に関する指示をした同じ日、寺田寅彦にも手紙を書いている。これは仕事ではなく、音楽会への誘いだった。《来月三日夜七時開場七時半開演の華族会館の音楽会へ行って見ませんか。音楽学校のショルツという人がショパンの曲を十二ばかり弾くのだそうです》

絵画鑑賞については自身の感覚にゆらぎのない自信を有していた漱石だが、音楽の趣味に関しては、寅彦の方が一枚上手と認めていた。寅彦は音楽を聴くだけでなく、自らバイオリンを演奏した。理学博士号の取得も、「尺八の音響学的研究」によっている。だからこそ余計に、寅彦と音楽会へ行くことを、漱石は楽しみにしていたように思える。ふたりの間には、それだけ深い信頼に基づく師弟愛が流れていた。漱石没後(大正6年12月)に、師の面影を慕って寅彦が詠んだこんな句も残る。

《マント着て黙りて歩く先生と肩をならべて江戸川端を》/黙って一緒に歩いているだけで、嬉しく満ち足りた気分にさせてくれる。漱石はそんな魅力をもった稀有な先生だったのである。

細かすぎて伝わらない関連動画など

(「音楽会」「ショパン」で動画検索してみました!!)

ショパン・子犬のワルツ(ピアノ)高音質/クラシック (1分42秒)

※これは有名な楽曲ですねえー♪♬(^^♪

●雨音はショパンの調べ - 柏原芳恵

小林麻美さんヴァージョンに比べると、色気がちょっと足りませんが・・・

ジョニーAのつぶやき:ショパンには恋人がいて、彼女は常々「あなたが亡くなるときは私の腕の中で死ぬのよ」と言っていたそうな。ショパン危篤の報せを聞き、彼女は急いで駆けつけますが、結局間に合わなかったといいます。家族に疎まれ、死の淵に駆けつけることさえ許されなかった裕也さんのパターンよりは幸せだったといえるでしょうか・・・。