漫画タイトル「交換する?」/本日漫画のみにて候・・・

毎日新聞 りえさん手帖
毎日新聞 2018年11月26日 東京朝刊』

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☆溜っているので、今回は漫画だけで失敬!!



☆書籍「元気が出る言葉」&サライ「日めくり漱石」をお届け♪

(詳細は、1月2日の日記を参照のこと!)

☆さ~~て、本日11月29日(木)の、「元気が出る言葉」は~?

『頂上に登ってしまった人は、二つしかその頂上から降りる方法はない。ひとつは、転げ落ちる。ひとつは、ほかの頂上に跳び移る。』
出展:「流星ひとつ」(新潮社)
発言者:沢木耕太郎 (ノンフィクション作家 1947年11月29日~)
『解説:沢木耕太郎大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した「テロッルの決算」(1979年)以来、40年近くのんふぃkしょん作家を続けている、稀有な存在だ。インドからイギリスまでの紀行「深夜特急」もあれば、テロリストからカシアス内藤、堺一雄、キャパなど、多様な評伝を書く。「流星ひとつ」は藤圭子だ。1979年、28歳で芸能界を去る彼女へのインタビューの封印が解かれた。これも沢木らしい泥臭い作品だ。』

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◎関連書籍、楽曲、映画(ドラマ)などなど・・・

ブックバン 沢木耕太郎 村上春樹が締め切りを守る理由に「ドキン」とさせられる
『(前略)大学を出て、偶然のことからフリーランスのライターとなった私に、多くの作家と「遭遇」する機会が訪れた。まず、新宿や銀座の酒場で、生身の作家と「遭遇」することになったのだ。作家やジャーナリストや編集者が集まるような酒場は、多くが小さな空間にひしめくようにして飲むというようなところであるため、居合わせればどうしても言葉を交わすようになる。そのようにして、自分が読者だった作家と何人も「遭遇」することになった。酒場で出会い、親しくなった作家も少なくないが、実際には言葉を交わさなかった作家の記憶も鮮やかに残っている。銀座では、「きらら」と「まり花」という小さな酒場が私にとっての「学校」だったが、ある日の夕方、早い時間に、そのうちの一軒である「きらら」に行くことがあった。たぶん、誰かとの待ち合わせがあったのだろう。/店に入っていくと、他に誰も客のいないカウンターでひとりの老紳士が飲んでいた。スーツ姿で、背筋の伸びた白髪のその老紳士は、酒場のマダムである清原さんと、ひとこと、ふたこと、短く言葉を交わしながら、静かにハードリカーを飲んでいた。それが一杯目だったのかすでに二、三杯飲んだあとなのかはわからなかったが、そのグラスが空になると、老紳士は立ち上がり、清原さんに挨拶をし、私に軽く目礼をして、店を出ていった。外廊下にあるエレベーターのところまで見送って戻ってきた清原さんに、私は訊ねた。「どなた?」すると、清原さんが驚いたように言った。「ご存じなかった?」「うん」すると、清原さんが言った。「源氏鶏太先生」/かつて私が少年だった頃、近くにあった貸本屋で、その棚の多くを占領していたのは、時代小説の山手樹一郎と現代小説の源氏鶏太だった。二人とも、批評家には、何を読んでも金太郎飴のようだと揶揄されながら、実に多くの読者を摑んでいた。だが、その源氏鶏太も、花形の「流行作家」の時代は過ぎ、私にはまだ存命中だとは思ってもいなかったほど遠い存在になっていた。しかし、その日、酒場で「遭遇」した佇まいの美しさを見て、あらためて源氏鶏太を読み直さなくてはと思ったものだった。
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  フリーランスのライターとなった私が、作家と「遭遇」する場は「酒場」以外にもうひとつあった。「文庫」の解説を書くという機会を与えられるようになったのだ。通常、文庫の解説には、その作家との交遊のちょっとした思い出話や、さらっとした印象記のようなものが求められているということはわかっていた。しかし、私はそれをひとりの作家について学ぶためのチャンスと見なした。具体的には、あらためて全作品を読み直し、自分なりの「論」を立ててみようと思ったのだ。そのため、執筆する原稿の枚数も、通常の解説の域を超えるような長さをこちらから要求し、それを受け入れてくれるものにだけ書かせてもらうことにした。四百字詰めで十数枚というのが依頼されるときの平均的な枚数だったが、私は二十枚から三十枚、中には四十枚近くまで書かせてもらったこともあった。それを書き上げることには、毎回毎回、カミュについての卒論を書いていたときと同じような昂揚感があった。もしかしたら、そうした解説を書くことで、常に私は「遭遇」した作家についての短い「卒論」を書いていたのかもしれない。/かつて「路上の視野」や「象が空に」に収載したものを含め、新たに編み直したこの二十三編は、私がさまざまな分野の作家について正面から書いていこうとした文章の、ほとんどすべてである。なぜ彼らだったのか。それもまた一種の偶然だったが、ただ、彼らの多くは、私と似て、どこか「境界線上」に身を置いている作家であったような気がする。この本のタイトルを、最後まで「作家との遭遇」にしようか「境界線上の作家たち」にしようか迷っていたのも、それが理由だった。
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村上春樹に「植字工悲話」というエッセイがある。自分ムラカミは原稿の締め切りを守る方だが、それは印刷所に勤める活字の植字工の家庭でこんな会話をされたくないからだ、というようなことを面白おかしく書いている。《「父ちゃんまだ帰ってこないね」なんて小学生の子供が言うと、お母さんは「父ちゃんはね、ムラカミ・ハルキっていう人の原稿が遅れたんで、お仕事が遅くなって、それでお家に帰れないんだよ」と説明する。「ふうん、ムラカミ・ハルキって悪いやつなんだね」》これを読んだとき、笑いながら、しかし同時に、私の胸はまさしく「ドキン」と音を立てたような気がした。私はかなり遅筆で、締め切りを過ぎてもまだ呻吟しているというようなタイプの書き手だった。そのときの私には編集者のことは視野に入っていたが、どこかに「よりよい原稿にするためなら許してもらえるはずだ」という甘えのようなものがあったにちがいない。/だが、印刷所で働いている人のことまでは深く考えたことがなかった。そう言われれば、私が締め切りを遅らせることで、編集者ばかりでなく、印刷所で働く人たちに迷惑をかけるのだということを、あらためて思い知らされたのだ。以来、私は原稿の締め切りを守るようになり、遅れるということをほとんどしなくなった。村上春樹のエッセイは、少なくともひとりの物書きに対して、締め切りの期限を守るという点において「真っ当」な人間にする力があったということになる。しかし、にもかかわらず、この「作家との遭遇」に収められた作家論を書いていく過程で、机にその作家の著作を山のように積み上げ、片端から読んでいき、どのように論を組み立てていくか、何日も何日も考えつづけたあげく、結果的に締め切りを延ばしてもらわざるをえなくなるということが続いた日々を懐かしく思わないわけではない。可能なかぎり大きく網を広げ、それを打ち、力いっぱい引き絞り、できるだけ大きな獲物を引き上げようともがいていた日々。確かに、そうしなければ、引き上げ切れない獲物もなくはなかったのだ。
この本の表紙に使わせてもらったのは、『銀河を渡る』のときと同じく、藤田嗣治の「小さな職人たち」シリーズの中の一枚「印刷工」である。もし、こんないたいけな少年が印刷してくれているのだと知ったら、どんな遅筆の作家でも絶対に締め切りに間に合わせようとすることだろう。言うまでもなく、絵の中の少年がやっているようなプレス作業はもちろんのこと、村上春樹のエッセイに出てくるような印刷所の植字作業も、いまはすでに遠くなってしまっているのだが。』

沢木耕太郎『波の音が消えるまで(上・下)』 著者メッセージ


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☆本日の、『日めくり漱石』は・・・
サライ 「夏目漱石」の記事一覧

||<#FFFFFF'style='font-size: 25pt;color:#00BFFF'“不思議 ひな子の死(『断片』明治44年より)
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明治44年(1911)11月29日の漱石漱石と鏡子夫人、幼い娘の突然の死に呆然自失

今から105年前の今日、すなわち明治44年(1911)11月29日の東京は、快晴であった。この日は謡の稽古日。師匠の宝生新が漱石山房(東京・早稲田南町漱石の自宅)にやってきて、漱石謡曲「盛久」の続きを習った。夕暮れどきになると、門弟の中村古峡が来訪した。古峡は東京朝日新聞の社会部を少し前に辞職していて、いろいろと漱石に相談にきたのだった。

ふたりが書斎で話し込んでいると、子供たちが入ってきて、「ちょっと来てください」と言う。「大方、雛子がひきつけでも起こしたのだろう」漱石はそう思いながら中座し、茶の間の方へと向かった。末娘の雛(ひな)子やその上の次男の伸六は、以前から時折ひきつけを起こすことがあった。ひきつけて倒れても、顔に水をかけるとすぐに息を吹き返すので、みな馴れっこになっていた。漱石も余りおおごとには考えていなかった。

ところが今日は、なんだか様子が違った。茶の間の膳の上には、食べかけの夕食がのったままだった。雛子は、隣の6畳間で倒れていた。母親である鏡子夫人が抱きかかえ、顔へ濡れ手拭いをのせて冷やしている。漱石が覗き込んでみると、唇の色が蒼い。これは、只事ではないぞ。漱石は、そんな殺気だった思いに駆られた。女中が呼びにいって、夏目家のすぐ前の医者がくる。注射をしてもらったが効き目がない。雛子は口を開け目を半眼にして、まるで眠っているようだが、息をしていない。

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まもなく主治医の豊田鉄三郎も駆けつけた。人工呼吸やら注射、からし湯につかわせるなど、いろいろと手を尽くしたが、とうとう呼吸は戻らなかった。「どうも不思議だな」医者は、呟くように繰り返した。どうにも、死因がはっきりわからないのだった。漱石も鏡子もただ呆然として、現実のこととは受け止められなかった。さっきまでお姉ちゃんの筆子(漱石の長女)におんぶしていたり、猫の墓のそばで元気に遊んでいたわが子。それがお茶碗片手に覚束ない手つきで箸を使っていて、「きゃっ」といって仰向けに倒れたなり、死んでしまうなんて。それでも、漱石は雛子の体を座敷の次の間に移した。北枕に寝かせ、枕もとには雛子が好きだった風船を置いた。わずか1年8か月であっけなく散った命。夫婦の胸の内に、だんだんと悲しみが現実となってこみ上げていた。

細かすぎて伝わらない関連動画など

(「家族」「死」で動画検索してみました!!)

品川祐号泣  姉・実花さんの死と家族の思い


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●大切な人を亡くしたあなたへ ~映画『ずっと、いっしょ』主題歌~ (4分)

・2014年11月22日公開の映画『ずっと、いっしょ。』の主題歌ミュージックビデオ

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※アニメが素敵ですね~~~。

ジョニーAのつぶやき:娘の突然の死はこたえたことでしょう。あまりに悲しすぎるためにドラマ「夏目漱石の妻」ではカットされたんでしょうかー。