「メシ通」天龍源一郎の酒豪伝説!

☆この企画の、プロレスラー編がすこぶる好きだっ!♪

メシ通 「ミスタープロレス」天龍源一郎さんの酒豪伝説【レスラーめし】2018-12-14
『今回は「ミスター・プロレス」「風雲昇り龍」そして「馬場・猪木からピンフォールを取った男」。またプロレス界における「酒豪レジェンド」といえばこの人!天龍源一郎さんです。/二所ノ関部屋の力士から全日本プロレスに入団。阿修羅・原との“龍原砲”そしてサムソン冬木川田利明小川良成を加えた「天龍同盟」でそれまでの全日本のイメージを覆す熱く激しい闘いで圧倒的な支持を得ていきました。その後SWSへの移籍、そしてWARの看板として活躍。その後、数多くの団体に上がり、2015年に現役トップレスラーであるオカダ・カズチカとの一戦を最後に引退。また当連載でもわかるとおり、お酒にまつわる豪快なエピソードの持ち主といえば新日本プロレス出身者が多いなか、全日本系を代表する酒豪であり、お酒とのエピソードだけをまとめた実録漫画『「羅の如く」(原作・岡戸隆一 画・叶精作)が連載されたほど。それだけにインタビュー前の挨拶で「今日は天龍さんのめしにまつわる話を聞きに来ました」というと「ご飯だけというのは珍しいな!」と笑顔で返されました。もちろんお酒の話も伺いますが、まずは力士時代のちゃんこの話からうかがいます。
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──まずは相撲時代のめしの話からうかがいたいんですが、やはり入門するのと同時にちゃんこ番をすることになりますか。/天龍:そうですね。俺らの頃は(部屋に力士が)100人くらいいましたからね。──100人! ちょっとした学校並みですね。/天龍:1日に昼と夜の2食で、昼ごはんは3時くらい。4時には掃除の時間なんですよ。稽古が終わって上の人から順番にお風呂に入ってご飯になるんだけど、自分たちが食べるころにはもう掃除の時間になったりしてね。番付が上がってご飯が早く食べられるようになるのがうれしかったですね。──入門した頃だと食べる順番は100人の力士の一番最後ってことですよね。/天龍:もう、残りものですよ。今でも覚えてるのがね、すき焼きなんかが出たときは、もう最後の方は肉もなくなっててね。上の方はいい肉で、下の方は固いスジ肉。途中から牛肉が鶏肉になって、序二段以下になると肉もなくなっていって、自分たちは牛肉の味の染み込んだたまねぎを食べる(笑)。──もうほとんど「野菜鍋」になってしまっていると。/天龍:でも自分たちの部屋は大鵬さんとか大関大麒麟さんとかいらっしゃったから、けっこう食材に掛けるお金は潤沢だったね。よその部屋だとちゃんこ鍋がひとつだけだったりするんだけど、うちは鍋のほかにも10品くらいテーブルいっぱいに並んでいたからね。ちゃんこ番の時代は、自分たちが食べる順番になるとすっかり鍋から具材がなくなってたから、残りの汁をご飯にかけて、メンチカツをおかずにして食ってたよ。──ちなみに天龍さんはそれまで料理のご経験は?/天龍:ぜんぜんやったことなかったね。だから最初は食器洗いからはじめて、だんだん魚のさばき方を覚えていったりしてね。相撲取りなんで大ざっぱにはらわたを出したりうろこをとったり、2〜3枚におろす程度だよ。鍋に入れるやつだからね。──鍋の具はお肉が中心ですか?/天龍:安いっていうのもあるんだろうし、大量にお腹を満たさなきゃいってけないてのもあるからか、魚系が多かったな。だから、いまでも覚えてるんだけど、錦糸町の魚市場に行って「二所ノ関部屋です」って言うと、「はい、これ」って、いわしがいっぱいの箱がバンバンバン! って積まれてあってね。あの頃はいわしも安かったからなあ。まだ都電が通っていたから、錦糸町から両国まで電車で魚くさいのを運んでいったな。まわりに迷惑がられたのを覚えてるよ(笑)。──レスラーの方に話を聞くと、新弟子時代はとにかく食べさせられたって聞くんですけど、力士もそこは同じなんですか?/天龍:自分は中学2年生で182センチ82キロあったんで、そんなに必死になって食べたってことはないんですよ。食えちゃうんだよね、稽古が厳しいから。どんぶりの玉子丼を昼めしと晩めしで10杯ずつ食べてましたからね。──どんぶりめしで1日20杯!? 天龍:食べられるんですよね。まわりが皆食べるから、つられて食べちゃうというのもあるけど、やっぱり稽古でお腹がすくんだよ。晩ごはんの最後には、どんぶりめしに砂糖をかけて3杯くらい食べてましたね。──白めしに砂糖ですか!/天龍:だって晩ごはんっていうと、昼間はちゃんこだけど、夜は普通の食事なんだよ。さんま1匹とみそ汁だけの食卓だったりするからね、それで6〜7杯食うの、大変なんだよ(笑)。どうやって食べようかと思って、砂糖をふって食べてましたね。
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──それから全日本プロレス入り。その頃はもうちゃんこを作る立場ではないですよね。そうですね。ちゃんこを食べる機会も、巡業がない時期に合宿所へ練習に行った時に、若い人が作っていたのをたまにつまむ程度で。特に最初は日本とアメリカを行ったり来たりだったんで、合宿所に行くことがほとんどなかったんだよ。Q:──二所ノ関部屋に比べて全日本のちゃんこの味はいかがでした?/天龍:おいしかったよ。もともと力道山関が作った相撲部屋のシステムですからね。その伝統で味が出来てたんだと思うよ。ただ、相撲のちゃんこに比べてプロレスのちゃんこは肉が多かったね。相撲の方が魚が多いんじゃないかな。──食の習慣でプロレスと相撲の違いは感じました?/天龍:たとえば巡業に行くじゃないですか。レスラーになって一番不思議だったのは、巡業先で先輩も後輩もそれそれ勝手にご飯を食べに行って、自分で自分の食費を払う。それが最初はすごく不思議でしたね。相撲の世界だと、先輩が全員のご飯をごちそうするのが普通でしたから。──なるほど、力士の世界では後輩の分は先輩が出してくれるのが普通。/天龍:相撲のときは「ここ、若いやつの分まで全部払っておくから」ってのが上の役割だったので。ごちそうしてもらうか、ごちそうしてやるか、どちらかでしたからね。「自分で食い物の心配しなきゃいけない」ってのは、世界が違うなって思ったね。──新弟子ならちゃんこもありますけど、文字どおり毎日のめしの心配をしなくちゃいけないと。/天龍:プロレスに転向してすぐの頃、お湯をいれて鍋にかけたらすぐできる煮込みうどんってのがあったんだよ。あれを20個くらい買ってきたかな。毎晩それを家で食べてたんだよな。──あまりに天龍さんのイメージとかけ離れてますね(笑)。/天龍:相撲取りだったら朝稽古して昼もちゃんこを食っている時間に、自分は部屋で寝ていて。それで夜は煮込みうどんを食って……すごい不安でしたね。プロレスに転向した事実だけ表に出てて、俺はひとりでマンションにいて、鍋焼きうどんをあっためて食べてる。こんなことしてていいのかな? って思ってましたね。といって誰も電話をしてこないし、馬場さんからもほったらかしにされていたし(笑)。──プロレスという新しい世界に入ったばかりで、不安しかない時期でしょうね。/天龍:たまに馬場さんから「ホテルにいるから来いよ」って声がかかるけど、それ以外は寝るくらいしかすることがなくて、1日が長かったのを覚えてるな。あと、自分にプロレスのイロハを教えてくれた先輩がいたんだけど、ある日馬場さんから「ホテルの前に居酒屋さんがあるから、そこにふたりで来いよ」って言われたんだよ。それを先輩に伝えたら「(馬場さんから誘うなんて)珍しいな、こんなの初めてだ」って言われてね。もう全日本に入って4年くらいいる先輩だったんだけどね。そういう、上とのコミュニケーションが珍しいってのをみて「プロレスの社会は変わってるな」って思ったよね。
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【馬場さんと一緒に飲んだアイスティー】──全日本に入って、あらためて内側から見た馬場さんはどんな印象でした?/天龍:呼ばれて行くと、いつも馬場さんは豪勢な立ち振る舞いをしていたからね。「この人はトップレスラーで、ものすごく稼いでるから、俺たちが知っている横綱大関と同じなんだな」って、見てすぐに察しましたね。あまりに他のレスラーと馬場さんのレベルが違ってたから。──まさにプロレス界の横綱。/天龍:だから、早くこうなりたいなと思いましたね。一番最初の馬場さんとのご飯は、馬場さんちに行ってしゃぶしゃぶを食べたんですよね。肉が山盛りで用意されててね。それをこうやって(大きな身ぶりで)……ぞんざいにガッ! と肉を鍋に入れるんだよな。「レスラーは、景気いいんだな」と思いましたね。まだその頃は、しゃぶしゃぶって別格の高級な料理だったんだよな。ハードルが高いっていうか。それをガバッと取って食べるから、やっぱり稼ぐ人は景気いいんだなと思ったよね。──普段の生活からして格が違うと。
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/天龍:それが一番最初で、あと覚えてるのがアイスティー。──馬場さんと天龍さんで一緒にアイスティーを飲む風景もインパクトありますね(笑)。/天龍:プロレスを始めるまで、アイスティーなんて飲んだことがなかったんだよ。俺たちの時代は、喫茶店に入ると「油売ってる」って怒られたりして。喫茶店に入るのもダメだって時代だったからね。入ったことも行ったこともなかった。──喫茶店ってそんな場所だったんですね。/天龍:それがプロレスに転向して、馬場さんに呼ばれてホテルのラウンジに行ったら、馬場さんがアイスティーを飲んでいて、「なに飲んでるんですか」って聞いたらアイスティーだって。じゃあ俺も同じの、って頼んで飲んだとき……あれはうまかったね……(実感を込めて)。「こんなおいしいものあるのか」って思ったよね。──天龍さんがお酒よりもアイスティーにハマっていたなんて、衝撃の事実ですよ!/天龍:それからずっとアイスティーばっかり飲んでたね。その後にアメリカに行ったら、アイスティーがおかわり自由で、何杯でも飲めるのには感動したよ!──さてアイスティーもいいんですが、お酒の話もそろそろお願いします! 全日本プロレス入りが26歳ですよね。すでにこの頃はけっこうお酒を飲まれていたのですか?/天龍:ぜんぜん飲んでなかったよ。──え、そうなんですか!?/天龍:力士時代もあまり飲まなかったんだよ。よく飲むようになったのは、35〜36歳くらいになってからかな。──それもまた遅いですね。20歳過ぎても飲まなかったんですか?/天龍:いやあ、お酒があんまり好きじゃなかったんですね。本当に昔はビールを数杯か、せいぜいビール瓶1本か。そんな程度でしたよ。だから相撲の時の俺を知ってる人たちは、35歳過ぎてからお酒を飲む姿を見て「変わったね」「飲むようになったね」って驚いていたからね。──お酒を飲むようになったきっかけってありますか?天龍:金を稼げるようになってから遊びに行ったら、まわりはみんな天龍だって知ってるし、ちやほやされて調子こいて飲んだんですよ(笑)。──まさかそんな理由で!/天龍:フフフ、「お酒を飲むとなにか楽しいことがあるんじゃないか」って思って飲むんだけど、結局なにもないっていうことなんだけどね、二日酔いになるのが関の山で。
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──プロレスの世界だと先輩が「飲め飲め」って後輩を育てるところがありますけど、相撲だとそういうことはないんですか?/天龍:ありましたよ。でも入った頃は13〜14歳のガキだったからスルーできたんじゃないかな。それにドンチャン騒ぎの宴会が始まって、飲まされるなと思ったたらスッぽかしたりしてね。要領よかったんだよ。──お酒の席には近寄らない。そんな天龍さんにどうして酒豪のイメージがついていったのでしょう。全日本での活躍するにつれて……という感じですか?/天龍:最初の頃は、相撲界から来たってことで馬場さんが自分に特別なポジションを用意してくれた、ってのが正直なところだったんだよ。でも、まわりのやつらからすると「なにも出来ない相撲取りあがりのくせに」って感じだったんじゃないかな。それに抵抗する自分もいたし、そのせめぎあいでしたよね。だから、阿修羅・原とか仲よくなれそうなやつとは一緒にお酒を飲みに行って、そこで「おれは違うよ」ってのを見せて。相撲の頃のやり方でお酒の席を作ったりして、新しい自分のポジションを作っていったんだよ。──後輩の分は先輩の自分が全部出す、と。天龍同盟のルーツは相撲流のやり方で生まれたんですね。/天龍:若手選手とめしを食いに行ったら、その金を払うのは普通だと思っていたからね。/ジャンボ鶴田との鶴龍コンビを経て、阿修羅・原との龍原砲、そして若手たちが加わった天龍同盟と天龍選手の存在は全日本の中で大きくなっていきます。天龍さんの「地方巡業でも決して手を抜かない」姿勢は、全国のファンから絶大な支持を受けることに。/天龍:輪島さんが入ってきたり、長州選手が来たりして全日本が脚光を浴びるようになったんだよね。それまで新日本しか見なかった人も全日本に目を向けてくれるようになった。ただ、その後に長州選手が抜けて、輪島さんと外国人レスラーがうまく合わせるような試合をやるようになって。それで「またファンになめられるよ、激しいプロレスをやっていくのが普通じゃないのか」って、相撲出身の俺と、ラグビー出身の原とでやるようになって。──そこに川田利明冬木弘道小川良成ら後輩たちも加わって天龍同盟に。試合した後は皆で集まって飲んでいたのですか。/天龍:毎日、一所懸命に試合をやってるから、俺があいつらに出来ることっていえば食事とお酒をおごって飲んで、その日のことは忘れてまた明日頑張ろう、っていうこと。勝手に俺がやっていただけですよ。──まさに兄貴分、ですね。若手もついていこうと思うはずです。/天龍:でも、俺の女房は文句タラタラだったよね。そんなにファイトマネーだって高くもないのに、選手にお酒を飲ませるために勝手に会社から給料を前借りしていたから。「本当ならこれだけ貯金があるはずなのに、なんでこれしかないの! これじゃ生活できないじゃない!」って、あとでさんざん怒られましたよ。──あははは、天龍家が大ダメージ!/天龍:「娘も生まれて大変なのに、巡業行ったら使っちゃって『これしかないよ』って、どうすんのよ!」ってよく小言を言われましたよ(苦笑)。ただ、一緒に戦ってくれている選手もこれだけ頑張ってくれてんだから、なにかお返しするんだったらこれしかないなって飲んだり食ったりしていただけの話です。勝手に自己満足でやってただけ。──大都市・地方問わず熱い試合を見せる天龍選手たちに、お客さんは感動していたわけですけど、その裏は火の車だったんですね(笑)。/天龍:俺は良かれと思ってやってたんだけど、あとになって冬木も川田も「行きたくないのに飲みに行かされた」とか「洗濯しなきゃいけないのに朝まで引っ張り回されて、くさいユニフォームのまま試合しなきゃいけなかった」とかブーたれてたみたいですけどね。──あはは、まあ若手は雑用も多いですから。/天龍:さんざん割りの合わないことに金を使ったなと思うけどね。でもいい人生経験、勉強になったと思うよ。
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─では天龍同盟の結束とともに酒量も増えていった感じですね。/天龍:試合で汗かいた後だから、いくらでもお酒入ったしね。あと当時、スーパードライが出始めたんですよ。──アサヒのスーパードライが。かなり話題になりましたもんね。/天龍:それまでのビールと違って、すごく飲み口がよかった。それでお酒を飲めるようになったのも大きいですね。阿修羅もそれまでぜんぜん飲まなかったのに、やっぱり試合終わった後に飲むスーパードライで「うまいね」って言い出して、そこから飲めるようになって。本当に俺たちにとっては刺激的でしたよ。──当時それが知られていたらテレビCMに出てほしかったくらいですね(笑)。/天龍:その頃はまだアサヒビールのシェアがまだまだで、田舎に行くとそんなに出回ってなくて、酒屋さんに行ってでも買ってこい! って言ってましたね(笑)。──天龍さんとお酒といえば、ウイスキーやビール、焼酎や日本酒などその場にあったいろんなお酒を全部アイスペールに混ぜて皆で飲み回すという「天龍カクテル」の伝説がありますが。/天龍:地方って、試合が終わったあとに集まれるようなお店があまりないんですよ。チェーンの居酒屋さんだってそんなにない時代ですからね。試合の後にお酒が飲めるお店に俺たちが遊びに行くと「いやあ今日は楽しかったです」ってファンから声をかけてもらえるから、じゃあ飲もう! って。──それで皆で飲む用に天龍カクテルが作られるんですね(笑)。/天龍:要は、お酒の場なのにシラフでいる奴を見るのがいやなんですよ。皆に酔って欲しいから、全員で回し飲みするためにできたのが天龍カクテル。ファンもいい感じに酔っ払ってね。「また(試合を)見に来いよ!」って別れてましたからね。──地方のファンでそんな体験をしたら、一生天龍さんを応援しますよね。冬木さんとか川田さんもそういう経験を経ていったわけですね。/天龍:いやあ、強くなりましたよ。最初は飲めなかったけど、だんだん強くなっていったんじゃないかな。シラけてるといやだから飲めよ! って俺も言うしね。──天龍さんはお酒そのものも好きなんでしょうけど、お酒の場が好きなんですね。/天龍:そうだね、皆で同じ場にいて、同じ時間を過ごしてってのが好きなんだと思うよ。そこは相撲取りあがりだからってのもあるかな。お相撲さんはまず毎夜飲むからね。飲んだときはなごやかにって感じだったから、そういう感覚は残っていたんだと思うね。
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1990年に全日本プロレスを離れた後は、SWS・WARの団体の顔となり活躍。新日本プロレスをはじめとしたメジャー団体だけでなくインディー団体にも多く参戦しました。ジャイアント馬場アントニオ猪木が現役を退いた後もリングに立ち続け、2015年の引退まで「プロレス界の横綱」であったことはプロレスファンであれば誰も異論がないでしょう。──全日本離脱後は各団体の顔になっていきますが、やはりスポンサーをはじめとして呼ばれる酒席も多くなっていったのでは?/天龍:そうですね。ただWARの時に「天龍は自分の団体の長だから好き勝手できる」ってよその団体のやつに言われて、「あっ、こういうことしちゃいけない」って思うようになったんですよ。それからは外に飲みに行くようなことは減りましたね。なめられるな、って。──「外に飲みに行くとなめられる」とは?/天龍:自分が全日本にいる時、馬場さんが外に飲みに行かずにいつも部屋にいるから、なんでだろうと思ってたんですよね。その理由を聞いた時に「なにかあったときに団体の長がいなくなって連絡とれなくなったら、みっともないだろ」って言われたのを思い出したんだよ。もしなにか問題が起きた時、誰か然るべき人がいないと問題がこじれるなって思ったんだ。それから夜はあまり外に出なくなったんですよ。──なるほど! トップだから自由にできると思われがちですが、そういうわけじゃない。/天龍:それにトップのやつがもめごとを起こしたら最低じゃないですか。全日本の頃が一番飲むのが楽しかったけど、それは馬場さんがいたからなんだなと。自分が上に立ってからは、お金はあっても人の目があるから飲み歩いたりはあまり出来なかったですね。──なるほど、トップに立った人ならではの考えがあるんですね。さてこの「レスラーめし」の連載で、やはり天龍さんは呼ばないわけにはいかないひとりだったわけですが、あらためて「新日本と全日本」のお酒の飲み方の違いを聞いてみました。/天龍:新日本は、飲む時は「無礼講」ですね。新日本の方が上下関係がしっかりしていそうなイメージなんだけど、飲むと猪木さんも気にしなくなる。だから武勇伝は新日本出身者の方が圧倒的に多いよな。例の旅館を壊した(※)とか暴れたとかね(笑)。全日本は飲んでもタテの社会がしっかりある。そこはけっこう違うね。(※編注)プロレスファンの間では伝説となっている「熊本旅館崩壊事件」──全日本育ちの天龍さんから見て、昔の新日本の空気ってどう見えましたか。/天龍:「レスラーだから、世の中に知られてるからいいだろう」っていうゆるさが新日本にはあるね。実際、昔は暴れてもなにしても「レスラーだから」で弁償金払えばおしまい、みたいなところあったから。でもそれも高田(高田延彦)とか武藤(武藤敬司)の時代くらいまでじゃないかな? 今は警察沙汰になるからなあ。「レスラーらしさ」とか通用しないよ。──そういうのが好きな人にこの連載は読んでもらってますね(笑)。では全日本だと「飲む時に荒れない」というのはなにか理由が?/天龍:馬場さんがプロレスの前は巨人の選手だったから、「迷惑かけちゃいけない」というのが頑としてある。あの人のなかにルールがあるんですよ。──なるほど、「巨人軍は紳士たれ」の精神が全日本に!/天龍:普段から「迷惑かけるな」とか「ワガモノ顔で歩くな」とか、よく馬場さんは言ってましたからね。子どもの頃から身長がでかくて、自分がいつも人から見られているという意識があったから、選手に対してもそういうしつけをしてきたんじゃないかな。──さすがBIからピンフォール取った男の解説! むちゃくちゃ納得しました。お話をうかがってみて、相撲時代からの天龍さんのめしとお酒の話はやはり濃密でした。酒豪として知られる天龍さんですが、多くの人と関わるために毎日のように酒席を設け、そしてトップに立ってからは外での酒を減らしていたという話を聞くと、本当は「お酒」以上に「人」が大好物だったのでないでしょうか。メジャー・インディー問わずあらゆる選手とぶつかり、多くのファンを「酔わせてきた」天龍さん。レスラー時代の勇姿を思い返すと、あらためてそんな気がします。
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大好評連載「レスラーめし」が待望の書籍化決定! 超人が食べためしから、レスラー像、プロレスの歴史、物語が見えてくる……。豪華出演者たちの秘められた「食」のエピソードは、プロレスマニアからを熱烈な支持を得ています。13人」のレジェンドプロレスラーたちが語る『メシ通』の大好評連載、待望の書籍化です。「/登場レスラー:小橋建太中西学鈴木みのるブル中野前田日明越中詩郎長与千種オカダ・カズチカ藤原喜明長州力ダンプ松本武藤敬司天龍源一郎/特別収録 小林邦昭×獣神サンダー・ライガー


『コメント:tenryu_genichiro先日の熊本で撮りました‼️クリスマスも間もなくですね、人生はあっという間デス‼️ #天龍源一郎 #を付けろと娘ウルサイ💢 #revolution30th jiangkoucheng人生楽しもうと思う今日この頃です rumic19わー✨綺麗なクリスマスツリー🎄ですね。ほんと、人生あっという間ですよね。年々、時間が過ぎるのが早く感じます。 keikoichimaru早い早い!あれから約40年ですよ!時間は待ってはくれませんが素敵な想い出も作ってくれますね!元気でいてくださってありがとうございます💕 mushikoroクリスマスは街が華やかになるのでワクワクしますね✨ 本当に、あっ!と言う間に四季が一周します〜💦 awa.dannsi見事なまでのクリスマスツリーです! toshi1003f天龍さんが小さく見える。(笑) tr.happy.tt時間はあっという間に過ぎますが、思いでも沢山できますね。』

●【プロレス】チョップ3 天龍源一郎 小橋建太

※ナンちゃんが司会だと安心して見ていられるなぁー。

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キラー・カーン選手の「レスラー飯」を読んでみたい!




☆書籍「元気が出る言葉」&サライ「日めくり漱石」をお届け♪

(詳細は、1月2日の日記を参照のこと!)

☆さ~~て、本日12月20日(木)の、「元気が出る言葉」は~?

『ぼくが、一生の間に会える、ひとにぎりの人の中に、あなたがいました。』
出展:「岩崎俊一よりひとこと」という手紙より
発言者:岩崎俊一 (コピーライター 1947年7月7日~2014年12月20日
『解説:岩崎俊一のコピーにはドキッとさせられる。例えば、「負けても楽しそうな人には、ずっと勝てない」(セゾン生命保険)、「人は貧しいという理由で死んではいけない」(日本フォスター・プラン協会)。岩崎のモットーは、「コピーは作るものではなく見つけるもの」だという。広告という制約の中で、彼は背後の消費者のなかに答えを見つけようとしていたのだろう。紹介した言葉、そう思って一人一人と接したいものだ。』

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◎関連書籍、楽曲、映画(ドラマ)などなど・・・


●岩崎俊一×残間里江子スペシャル対談「幸福コピー論~前篇」



※後編もどうぞ↓


☆本日の、『日めくり漱石』は・・・
サライ 「夏目漱石」の記事一覧

“眼前の塔影が幻の如き過去の歴史を吾が脳裏に描き出して来る(『倫敦塔』より)”

明治37年(1904)12月20日漱石】ロンドンでの体験をもとに短篇小説を書き上げる

今から112年前の今日、すなわち明治37年(1904)12月20日漱石東京帝国大学で受け持ちの講義があった。『ハムレット』の第6回目の講義であった。『ハムレット』はシェークスピアの四大悲劇の中でももっとも哲学的なものだと漱石は感じており、従来とはちょっと異なる角度から評釈したいと学生たちにも伝えていた。千駄木の自宅へ帰ると、漱石は机に向かい筆を手にとる。10日ほど前からとりかかっている幻想的な短篇小説を仕上げるためであった。

文机の周りには、何冊かの洋書が散らばるように置かれていた。その中には、赤い表紙に「Baedeker」の文字が見える小型の本がある。カタカナ読みにすれば『ベデカー』。ドイツの版元から刊行された旅行ガイドブックのシリーズで、明治・大正期の日本人留学生にも広く馴れ親しまれていた。漱石も留学時には英国全土、ロンドン、フランス北部の計3冊を持参。英国留学準備中の後輩から手紙でアドバイスを求められた時も、《ベデカーの倫敦案内は是非一部御持参の事》と書き送っている。実際にロンドンに住むようになって、その必要性を改めて認識し直した上でのアドバイスだった。

その「ベデカーの倫敦案内」が、いま帰国後の東京の書斎でも再活用されていた。カタログなのか複製画なのか、フランス人画家ドラローシュが描いた悲劇の英国女王ジェーン・グレイや二人の王子の姿も、資料の中に垣間見える。こうやって、雑誌『帝国文学』に掲載すべく書いているこの作品のタイトルは『倫敦塔』だった。言うまでもなく、英国留学中にロンドン塔を見学した体験をもとにしたあの佳作である。

書き進めながら漱石自身、「結構いいものになるのではないか」という手応えを感じていた。門弟の野間真綱に対しても、途中段階で、《倫敦塔は未だ脱稿せず 然しものになります 御一覧の上是非ほめて下さい》と手紙を書き送ったほどだった。書き上げて、末尾に(三十七年十二月二十日)と日付を記すと、漱石は机の上に筆を置いた。心地よい達成感と疲労感が押し寄せていた。だが、創作家の恍惚に不安がつきまとうのは、19世紀のフランス詩人ヴェルレーヌも指摘するところ。翌21日には、先に作品自慢をした野間真綱にこう告白する。《倫敦塔は出来上ったあとから読んで見ると面白くも何ともない先便は取り消す》

漱石先生、齢37。まだ文壇にも世間にも、その名は知られていない。鮮烈なるデビュー作『吾輩は猫である』の第一稿が掲載された雑誌『ホトトギス』が刷り上がるのは、この何日か後のことである。

細かすぎて伝わらない関連動画など

(「倫敦塔」「漱石」で動画検索してみました!!)

●倫敦塔


●朗読ラジオ 夏目漱石土井晩翠漱石さんのロンドンにおけるエピソード」


ジョニーAのつぶやき:ヤマハの音楽ひめくりサイトがずーっと工事中なので見限った!来年のオマケも、「漱石日めくり」に続くシリーズ、「漱石と明治人のことば」に決定するっ!!