【夢のつづき】寿郎社 カモちゃん私小説
顔を洗っただけなのだろう。髪をアップにして真紅のルージュを引いてポトポトと近付いてきた。ビールを一緒に飲むと言うのでウェイトレスにグラスを持ってこさせ、彼女のグラスに注いだ。クイッとグラスの半分くらいを喉を一つ鳴らしながら飲み、タイのビールは軽くて飲みやすいわと微笑んだ。飲みっぷりもはっきりとしていて、何故か隙のない強い女だなという印象を持った。酒が強そうだと伝えると、高知の産だとはっきり大きな声で答え、“いごっそう”ですねと話すと、ええ“八金”です。そう返した。
水かけ祭りとパタヤの印象を尋ねると、両方とも最低だと切って捨てた。その毒気に満ちた声色につい大きくふき出すと、こちらが笑ったのがそんなに嬉しかったのか、パタヤでの出来事を、まるで台所でゴキブリを見つけたかのように悪意に満ち、嫌気たっぷりに、しかし細い記憶は微細についほうと関心する表現方法で早口にまくし立てた。
彼女の放つ悪口雑言は何故か常に柔らかさにつつまれていて、いつの間にか彼女に愛しさを募らせていた。
何の偶然か、妻もこちらを話しやすい人間と感じたのか、屋台村に向かう道中もしきりに話しかけてきて、二人の会話が休むことはなかった。席につくと彼女の「まずはビール。冷えた所じゃんじゃん持ってきて」の一声で宴は開かれた。ここで一番好まれ食べられている品を選んでください。彼女はこちらに向かって叫んだ。他の同行者は一瞬困った顔をしたが、それに気づいていても自分と妻は一切無視して九品料理を選んだ。特別な食材は敢えて選ばず、地元の人たちが一番注文するものだけにした。強いて特別な食材と言えば、よく太った蛙の太股とバナナの花、ガチョウの水掻きに塩辛い大カマスの輪切りを強烈な刺激臭に仕上げ発酵させたものだろうか。何度もタイに足を運んでいる旧知の記者と女性二人は、見たことのない色の料理や、脂が表面を被う品のえも言われぬ発酵臭におじけづき、ほとんど箸が動くことのない中、妻は両手の指を脂と調味料まみれに汚しながら料理にむさぼりついている。
「旨いよ全部。ほら食べなよ」
時々どうでもよさそうに皆に声をかけるが、すぐに料理にむしゃぶりつき、汚れた指をなめてビールのグラスをつかみガブガブと飲む、そして思いついたままにこちらに向かって速射砲のように、ありとあらゆる切り口から質問を投げかけてくる。答えるたびに腹をかかえて大笑いしたり、答えに満足できるまで深くさぐり、理解すると大きく頷き、必要と思えばメモを取り出し、文字を走り書きする。
有能な記者でもあった。満足できたのか、皆の困惑ぶりを見て取って「帰ろう」、そう一声発して席を立つと大きく背伸びをした。明日はどうするか。聞くと、
「観光入っちゃってるのよ。そんなの行きたくない。貴方の話聞きながら思いつくままに歩き回りたいのだけど」笑いながらも旅をコーディネイトした記者を気くばって小さな声でささやいた。明晩また食事をしながら質問するので総括してくれと言われ、別れた。
初めて会って食事をしただけなのに彼女に会う次の日を待ち遠しく思ってならない気持ちになり、自分の心に戸惑った。翌日の晩餐は皆のことも考え地元の者が通うシーフードレストランを選んだ。最終日ということもあり、さすがの妻もテンションは下がっていたが、質問は辛辣そのものであった。食事も終わり皆席を立った頃、彼女はそっと近づき小さなメモ用紙を渡してよこした。
「滅多にないことなの」そう言い残し女性の輪に加わりに走っていった。メモには彼女の私用の電話番号が書かれてあった。でも、それから一度も彼女に電話を掛けることはしなかった。恋心が戦場での足をにぶらせると思ったのだった。
ただ、神様をこの目で確かに見た。丁度一年後。僕たちはアマゾンで一緒に仕事をしたのだ。取材も終わり、一人ビジネスクラスにいた彼女が
「一人じゃ寂しいの」そう言って自分の横に座った。
「いろいろ考え過ぎるんだよ」僕はささやきながら彼女の手を強く握りしめた。
それから二人はずっと手を離すことはなかった。
■お知らせ■
『オヨヨ通りと呼ばれた南一条西五丁目あたりが当時の札幌の遊び場だった。彼はよくジャズ喫茶にいた。進学もせず就職もせず中途半端な遊び人である自分にいらだっていた。
(北海道新聞夕刊2007年4月11日に掲載したもの)
しまった、と実感できるような気がする。ホント、長いこと見送ってた感じだよ~~~。
ような奇跡を起こすけれど、カモちゃんの場合は、毎年桜の季節に帰って来るんじゃないかねぇ?
何となくそんな妄想に抱かれながら、桜吹雪の中を出勤した日であったことよ。