【西崎義展、ヤマトに死す・・・】

ロッテが中日を破って日本一になったので、落合監督がさぞかし落ち込んでいるだろうから、息子の

フクシくんの書籍でも紹介して盛り上げてやろうか、と思っていたのだが。。。こんなニュースが飛

び込んで来ちゃっちゃあしょうがない。「フクシ伝説」はまたの機会に!


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▲イラスト提供:マッタリたけしさん♪毎度サンクス!


asahi.com 宇宙戦艦ヤマトプロデューサー西崎さん死亡 船から転落

小笠原海上保安署によると、7日午後0時半ごろ、東京都小笠原村父島の二見港内で、停泊中の調査船「YAMATO」(485トン)から、アニメ「宇宙戦艦ヤマト」のプロデューサー西崎義展(本名・弘文)さん(75)が転落。同船から通報を受けた同署の監視取締艇「さざんくろす」が約30分後に西崎さんを収容し病院に運んだが、死亡が確認された。同署の発表によると、西崎さんはウエットスーツを着用しており、遊泳しようとして過って船から転落し、おぼれたとみられる。同船は9人が乗っており、港内の陸から約250メートル離れた地点で、数人が遊泳しようとしたところだったという。

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西崎さんは1972年に音楽・映像プロデュース会社を設立し、74年にテレビアニメシリーズ「宇宙戦艦ヤマト」を製作。その劇場映画版が大ヒットし社会現象になった。昨年は続編となるアニメ映画「宇宙戦艦ヤマト 復活篇」を製作。また12月から公開される実写版映画「SPACE BATTLESHIP ヤマト」にも原作者として名を連ねている。


Wikipedia 西崎義展

『1998年の記述が最強!/前年の12月2日、静岡県東名高速にて警察が不審車両を発見、停止を命じ、その際西崎のアタッシュケースの中から覚醒剤約50g、細粒のモルヒネ7g、大麻9g、を所持していたとして、覚せい剤取締法大麻取締法麻薬及び向精神薬取締法違反で逮捕[8]・起訴され、一審で懲役2年8月の実刑判決。西崎側は判決を不服として控訴。/保釈中にフィリピンに渡航。所有するイギリス船籍の外洋クルーザー「オーシャンナイン」号にて、フィリピンより日本に帰国。その際に、グレネードランチャーM203付M16 2丁及び拳銃グロック171丁を大量の弾丸とともに国内に密輸入。この事件の公判で「尖閣諸島付近に出没する海賊対策のため石原慎太郎都知事から調達を要請されて購入した」と主張するも「正当化する余地は全くない」(東京高裁判決)と否定される。』

※この頃からよく「サイキック青年団」ではネタにされていたなぁ~~~。

その後、松本零児さんとの泥沼の訴訟合戦にも入っていったっけー。


・関係者のブログ

海のトリトン 真佐美ジュン氏ブログ

手塚プロには相当ひどいことしたみたいだなぁ~~~。


music on me 宇宙戦艦ヤマトの原作者・西崎義展(弘文)さんの訃報

※もうずっと車椅子移動を余儀なくされていたのですねー。。してみると、ウェットスーツを着用して

海へもぐろうとなんかするでしょうか??ああ、そうか、書いていて気付いた。そういう体だからこそ

海の中の方が陸地よりも自由を感じられる、という部分はあったんでしょうかネェ~~~Σ( ̄□ ̄ゞ)


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岡田斗司夫が語る西崎義展1

○ 西崎義展はプロデューサーとして超一流だったのだろう。例えば、「ガンダム」は「ザンボット3」→「ダイターン3」→「ガンダム」というように、サンライズのロボットアニメが順当に進化していった結果生まれたものだ。しかし「ヤマト」はそれまで不毛の荒野だったところに突然変異的に現れた。あんな地味な色の宇宙戦艦を主題としたアニメをTV放送にのせてしまった西崎義展のプロデュース力は凄い。その頃の西崎さんとは話をしてみたかったが、自分が会った時はそうではなかった。

○ 結局、西崎さんとは人間対人間の話が成立しなかった。西崎さんのことが怖かったし、好きになれなかった。


首藤剛志の語る西崎義展

○僕としては、当時、色々話題になっていたN氏に興味があったので、とりあえず会ってみようと、六本木にあるN氏の会社に行った。 会社は、高いビルの2階分を占めていて、社員にN氏に連絡を取るからと事務所部分のエレベーターで、5分ぐらい待たされた。 やがて、了解が取れたと言う事で、1人でエレベーターに乗り、上に上がった。 エレベーターが開くと、そこは、いきなり会議室か社長室で、大きなテーブルが置いてあった。N氏以外、誰もいなかった。N氏は黒い服を着て1人で立ちすくんで、僕に対して振り向きもせず、窓の外に見える東京タワーを見つめていた。 そして、つぶやいた。 「人生ってはかないものだねえ」 挨拶も自己紹介もなかった。 そして、振り返るとテーブルに坐った。これでマントでもつけていたら、まるでデスラー総統のようだった。 「知人の葬式があってね。ほんとうに人生ははかない。……で、首藤君、今度のヤマトだが……どんな話かね」 N氏はいきなり本論である。 こっちは何も用意はしてない。 僕だって、相手の意向を聞く前から、ストーリーなど考えていない。 で、その場で思いつきを話した。 (略) N氏はじーっと僕を見つめ「首藤君は面白い事を考えるね」とつぶやいた。 その後、20年近く、N氏から全く連絡はない。 『ヤマト復活編』が作られているという噂も聞かない。


富野由悠季の語る西崎義展

○あえて記すならば、西崎義展プロデューサーは、嫌いな人物だ。愛すべき人物 ではあるし、それは分かるのだが、決して好きになりたくない人物なのだ。 僕にとってこの西崎プロデューサーという方は、アニメの世界で初めて知った タイプの人物である。こういうタイプに全く慣れていなかった僕らアニメ関係者は とにかくド肝を抜かれたといって良いだろう。 その強面の押し出しとか、自分の思ったことをスタッフにやらせてゆくパワーとか を見て、正直その恐ろしさにアニメの世界に来て欲しくない人だと思った。 が、同時にこういう営業センスをもかね備えるプロデューサーがいなければ、アニメの世界は変わらないだろうな、とも思えた。その僕の感じ方は、多少といえどもCMの世界の人たちを見ていたからだろう。 それまでのアニメの世界は、なんだかんだといっても子供の集団といえた。

○確かにアニメの世界の周辺には、大人はいた。しかし、それらの人はあくまでも 業務としてアニメの世界につき合うだけで、アニメをやってゆこう、という人ではなかった。 が、西崎プロデューサーは、アニメをやってゆこうとした人なのである。


安彦良和の語る西崎義展

○西崎さんで人は金に糸目はつけねえって人でしたから、コンテでも「おいロングを使え。やれ」って言うんですね。それだと金がかかるけどいいのかなあと思いながらコンテを切ってました。だからあんなハリネズミみたいな「ヤマトの絵がたくさん出るわけです。「ガンダム」ではそんな手間のかかることはできない。 それが当然なんですけど。

○「ヤマト」は映画もやってオリジナルビデオもやっていろいろあったけど、 その中でいつしか滅茶苦茶になっていったんですよ。西崎氏が途中ですっかり デスラーにのめり込んじゃいまして、どんどんデスラーになっていった。続編を つくるたびに「これはデスラーの話だ」と言って、実際にデスラーが主役の話もつくった。ひどいことに自分で自分がつくった話の世界にのみ込まれてしまったんでしょうね。「ヤマト」もガミラスデスラーという魅力的な仇役を創出したのが大きな成功の要素だったんですけど、西崎氏にとっても魅力があり過ぎた。難しいものですよ。彼は人をとっつかまえたら離さないところがあって、僕は途中で、もう「ガンダム」と同時に「ヤマト」までやってられないってのもあって、抜けたくて抜けたくて仕方がなかったんですけど、抜けられなかった。最後にはもう相当シリアスなケンカでもしない限り抜けられないと恩って、シリアスなケンカをして抜けました。


大塚康生の語る西崎義展

○ある日、真っ白なリンカーン・コンチネンタル・リムジンに白手袋のショファーを伴って、「宇宙戦艦ヤマト」のプロデューサーである西崎義展さんが、藤岡さんとの会談のために、床が傾いていて落とした鉛筆が転がるほど古い東京ムービーのビルを訪れました。私も前もって呼ばれていて同席させられました。それは想像を超えたシーンとしか言いようがありませんで した。まずお二人の身につけているブランドもののことから話がはじまりました。背広に触りながら、「あ、これね、いや170万だったかな、安物ですよ。イギリスで仕立てたんですがね……」「僕のはイタリア製だったかなあ、200万ちょっと…・・」。「どうぞ火を」と言って、西崎さんが私に差し出したライターは純金だそうで、「これ案外高かったかなあ……40……いや50だったか、なんならあなたに差し上げますよ」と私の手に握らせようとしながら本題に入りました。

○要するに抱え歩いている「宇宙戦艦ヤマト」の企画書をめくりながら、この企画のメカ作監(その言葉自体、私には初耳でしたが)をお願いしたい、というのが来訪の趣旨だったのです。むろん即座にお断りしました。「私がメカに強い、というのは単なる風聞です。機械の形や作動原理は好みの違いで専門化していて、私が多少でも知っているのはトラックや自動車のごく一部にすぎません。眼鏡違いです」と言って立とうとした私に、西崎さんは「お手を拝借」と言いながらテーブルの下に手を差し入れ、こコニコと笑っています。催促されて仕方なくおずおずと右手を伸ばすと、いきなり4本の指を撮りしめ「どうでしょう」。吃驚して「なんですか、放して下さい」と言うと、今度は4本の上に親指を引き寄せて重ね、「これでどうですか」と得意気でした。私はその握りしめられた手の生暖かさと見つめられる目の気味悪さに思わず手を振りほどいて「金じゃないですよ」と言って飛び出しました。私が西崎さんにお会いしたのはこの一度だけでしたが、なんだか大山椒魚に触ったような気分でした。


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西崎義展メッセージ

”夢・ロマン・冒険心”!


●追悼 YOU TUBE 真っ赤なスカーフ