夏目漱石「こころ」読了
所存である。今回やっと、名作と名高い「こころ」を読了(予想以上にかかってしま
ったジェ!)。お次は「三四郎」「それから」「門」の三部作に挑戦してみるつもり。
→ 『■登録情報:/文庫 340ページ /出版社 集英社 /ISBN-10: 4087520099 ISBN-13: 978-4087520095 /発売日 1991/2/25 /梱包サイズ 15.4 x 10.6 x 1.3 cm /おすすめ度 5つ星のうち 4.3 /■カスタマーレビュー:安田次郎 5つ星のうち5.0 「尽きない疑問」2016年4月20日・・・電子書籍で読んだが、ルビもていねいに配置され、まったくストレスがなかった。「こころ」を最初に読んだのは、高校の国語の授業だったが、25年ぶりぐらいに再読してみたくなった。そのような読者は多いと思う。あらためて思うのは、日本語表現の巧みさと構成の確かさだ。唐突なラスも余韻が残る。一方で、いくつかの疑問も残る。たとえば…・下宿の奥さんは、Kの恋心に気付いていたのかどうか。・同様に、お嬢さんはどうだったのか。Kは私(先生)の気持ちには気付いていなかったのか。Kの自殺の理由については、多義的な解釈ができるようになっており、人間の心理の複雑さを表現していると思う。また、先生のKに対する嫉妬心も、よく理解できるが、ただ、上記の点は、多少疑問が残るのである。』
※なぜか勝手に、「こころ」には、先生と呼ばれる人物と、Kと呼ばれる人物
との、ボーイズ・ラブ的要素が入っていて、それが婦女子たちを惹き付けるも
のだとばかり思っていた。とんだ勘違いだったよ。認識を改めたー。
※自分の中では、「漱石」=「高等遊民」=「ドラマ“デート”の主人公・谷口巧」=「長谷川博己」と脳内変化されてしまっており、「こころ」に登場する「先生」も、ずっと長谷川さんの顔を思い浮かべて読んでいた。通ってくる弟子のイメージは、したがって、同じく「デート」に出演していた、鷲尾クン役の中島裕翔だったなぁ~。
HUFFPOST 「夏目漱石『こころ』の賞味期限は切れている。なぜなら…」 歌舞伎町ホストが語る“男の自己愛”
→ 『"本好き"のカリスマホストとして知られる手塚マキさん。新宿・歌舞伎町で、ホストが書店員の「歌舞伎町ブックセンター」を営む。現代社会を映し出すヒントは、本にある。国語の教科書でもおなじみの『こころ』(夏目漱石)を手に取り、手塚さんは「終始、胸糞悪い小説ですね」と話す。不朽の名作が一体なぜ? 手塚さんにワケを聞いた。
【現代の若者は「こころ」を読んではいけない】
男社会には、「マウンティング」が溢れています。相手より自分がいかに優れているかを示すためだけの、くだらない行為。僕がいるホスト業界でも見られる現象ですが、「こんなことが許されるのか」といつも疑問に思っています。夏目漱石の「こころ」は"愛"と"友情"の葛藤を描いた名作として知られ、教科書に載っています。しかしながら、僕には、登場人物のひとりである「先生」が、歪んだ自己愛にまみれ、友人の「K」をはじめ、周囲の男性をマウンティングし続けただけの小説にしか読めない。それも、女性を道具に使ったりしているところが許せません。だから、僕は後輩のホストや若い人にこの小説はすすめたくないのです。
「こころ」は、大学生の「私」が、「先生」という謎の男性との交流を描いた物語です。そこには、先生が友人の「K」を裏切って、今の奥さんと結ばれた経緯が書かれていました。Kは当時、親から勘当されて経済的に困っていました。そこで先生は、Kを助けてやろうと自分の下宿先に迎え入れます。やがてKから、下宿先の「お嬢」を好きになったと告白されると、先生は自分と、お嬢との婚約を成立させるのです。Kはその後自殺。「先生」は親の遺産を武器に、Kを養うという優越感を得ただけに飽き足らず、同じ女を狙って自分が手に入れることでまたまた優越感にひたる。「お嬢」をマウンティングの道具としてとらえ、Kを悔しがらせるためだけに結婚したように見えます。くだらない男社会の見栄の競争においてKとの勝負にこだわりました。先生のひとり相撲的なマウンティングは、自殺という人生の最後の瞬間まで徹底されています。先生は、明治天皇の崩御、乃木大将の後追いという形で自殺をしました。「二、三日して、とうとう自殺することにした」と本の中では、死があまりにフランクに描かれています。"自死ブーム"の先頭を走ることで「かっこいい男だろう?」と「私」をマウンティングしたようにしか見えません。人生をかけて周囲の男性を威嚇し続けた先生。自分を慕う女性もその道具にして。終始、胸糞悪い小説です。
先生の不愉快な言動を、漱石がわざと「人間の業」として描き、男性の共感を呼んでいる可能性もあります。でも、それって健全でしょうか。2018年の現代の男性読者が「俺にもそんなところがあるなあ」なんて、安心感を覚えているのだとしたら、女性を道具として扱うマウンティングが、憂いある人間の葛藤として受け入れられてるのだとしたら、危ない。
正直に言います。僕の経営するホストクラブという場所は、お客さんである女性をマウンティングの道具にしている面も否定できません。多くのホストクラブ従事者はそれに気づいていませんが(むしろ女性が普段感じる、ジェンダーの抑圧から解放するための「社会的意義のある場所だ」と誇りを持っています)。ホストクラブは、もちろん女性を楽しませる場所だし、ホストの男性は誠心誠意、女性に接しています。でも、ホスト同士の争いに女性が巻き込まれていることもある。どんな売れっ子のホストでも、お客さんの9割には選ばれない屈辱を味わいます。別の同僚ホストが代わりに選ばれてお客さんのテーブルに付き、一緒にお酒を飲む。自分は選ばれない。ホスト同士に負けず嫌いの気持ちが芽生え、同僚ホストを出し抜こうと、もっと女性客に尽くします。そしてお店にお金が落ちる。
でも僕、いつかやめたいんです、このシステム。女性を楽しませると言いながら、背後にはマウンティングを利用したビジネスモデルがある。理想は、もっと男女が対等な立場でお酒を飲める場所にすることです。女性の社会進出が叫ばれている中、「ホスト」というビジネスとはいえ、あるいは「小説」とはいえ、変わらないといけないところは変わらないといけない時期にきている。「こころ」は明治に書かれたものだから「時代状況が違う」という意見があるのは分かります。でもそろそろ「賞味期限が切れている」ということを私たちは自覚しないといけない。「こころ」が教科書から消えて、ホストクラブが今の競争システムをやめる。男性がマウンティング中心の男社会の夢から覚めて、女性を対等な存在として認識する。そんなことが実現した時、日本人はもっと健全で新しいジェンダー観を手に入れているのではないでしょうか。(聞き手/構成:南 麻理江/ハフポスト日本版)』
→ 『――(平成史編集室・志摩和生)最近、「週刊エコノミスト」(9.19号)の「読書日記」で、元号が時代の気分を象徴する、と書かれていましたね。/小林:夏目漱石の「こころ」について書いた文章ですね。もうすぐ平成の時代が終わり、元号が変わる。今回「こころ」を読み返したのも、時代の節目に立つ我々を自覚したかったからです。若い頃に「こころ」を読んだ時は、「恋愛関係のもつれで死んでしまったか。ずいぶんナイーブなやつだなあ」という感覚だったけど、大人になって読むと、これは明治の精神の終わりを強く意識した小説だとわかりました。つまり、漱石は今の我々と同じように、改元という節目を意識していたわけです。/明治45年(1912)7月に明治天皇が崩御して、大正元年(1912)9月の大葬の日に、乃木希典大将が静子夫人と自決する。殉死ですね。「こころ」の語り手の「私」が尊敬する「先生」は、乃木大将の殉死に興奮して、「明治の精神が天皇に始まって天皇に終わった」「自分が殉死するなら明治の精神に殉死する積(つも)りだ」と語ります。明治が終わって何かが失われる。いや、江戸時代が終わった時から失われ続けてきたものが、明治が終わって次の代になれば、さらに失われるだろう。それは、日本が近代化と共に失ったものです。この「今の感覚」が全部終わっていくんだろうなというようなことを、この小説は予感しています。これは、夏目漱石自身が欧米を見てきて、近代化というものを先取り的に体験して、憂鬱な気分で日本に戻ってきたから、予感できたわけです。
失われつつあったもの、それは、ひとことで言えば「武士道精神」だとわしは思います。実際、武士道精神は、今は失われてしまいました。乃木大将の殉死なんて、現代人にとってはまったく理解できないでしょうし、まして妻と一緒に殉死するなんて、野蛮としか映らないはずです。静子夫人は3度も自分の胸を突き、乃木大将は十文字に腹かっさばいて死んだ。こんなことは、江戸時代の武士道が残っていたからやれたことです。「こころ」の登場人物で、自決した「K」という男の「求道精神」も、今の人は理解できないでしょう。求道的に勉学に励むとか、そのためには恋愛は堕落だとか言われても、今は恋愛こそ最も美しいもののように描かれる時代ですからね。「K」は、恋愛によって自分の求道精神が堕落したと、それを恥じて自決する。その「K」の死を引きずって「先生」も死ぬ。今、そんな人はいないでしょうが、死と隣り合わせに生きるという感覚が、明治までは残っていたのです。/もっとも、その感覚は潜在的には生き残っていました。近代化が末端まで広がったのが大正デモクラシーの時代ですが、昭和に入って、戦争になると武士道精神が日本人の中に残っていたことがわかるわけです。特攻隊とか、玉砕とかは武士道精神がないとできることではありません。でも、戦争が終わると共に、それも終わる。復興経済の中で、常に死を引きずる感覚はすっかり消えて、物質に埋没し、モノにこだわり、カネにこだわり……それが昭和の後半ですね。
いずれにせよ、「こころ」の読書日記で言いたかったのは、元号というもの、さらに言うなら、天皇制というものの文化的な豊かさです。「明治」という元号の終わりを意識する感覚がなければ、「こころ」という名作は生まれなかったでしょう。一人の天皇の一生――(一生でもないか、即位されてから退位されるまで)で一つの時代を区切る。朝日新聞なんかは、全部西暦にすればいいとか書いたりするけど、そうなるとだらだらと節目なく時代が続いていくことになるから、ちょっと嫌だなあ、なんか疲れるなあ、という感じがするんですよ。節目があったほうが自分を切り替えられます。/それに、元号があるから世代の差異を意識する感覚も生まれるんですよ。最近は、平成生まれの人たちがついに社会の中で目立つようになってきたなあと思います。特にスポーツ選手、本田真凛とか、もう質が違ってきたでしょう。足腰だけが強い、百姓を引きずったような昔のスポーツ選手じゃなくて、いかにも椅子で育った世代がどんどん活躍している。そういうのを見ていると、ああ自分は老いたなあ(笑)と感じるわけですよね。』
→ 『正月早々文学です。夏目漱石の「こころ」読んでます…。仕事のためです。とりあえず読んでおこうと古本屋さんに出かけました。(新書の本屋さんが近所にありませんでした)値段は50円。レジで「これ下さい!」と出したら…レジのおばちゃんオレに気が付き気を使ってくれたらしく「あら、これ古いわね(古本屋だよー)新しいのあったかしら?ちょっと待ってネ…」と店の奥に引っ込む様子…「いや、あの…読めればいいんで…そんな気づかいは…」新年らしいおめでたい「こころ」でした。』
※ダンカン視線なら「先生」はビートたけしってことになるのかね~?
例のバイク事故は、ある意味自殺だったというような話も聞くし・・・。
いろいろと、思慮深く読めたかもしれないねぇー。
→ 『OA情報です。「ほんとうはアブナイ?漱石こころ百年の秘密」(2014年)9月10日(水)22:00~22:59 @NHKBSプレミアム /そうそうたる方々に交じって夏目漱石の「こころ」の読書会をしました。おもしろかったぁ!!予告をみた知人に、「杏ちゃん、すごく楽しそうな顔してた~!」と言われました。本当に興味深い小説。こんな風にいろんな角度から一つの小説を読めたらたのしいな。お時間ある方、ぜひご覧になってくださいませ。/友人と待ち合わせしてた蔦屋書店でふと横をみたら読書会をご一緒させて頂いた高橋源一郎先生が横のレジに並んでいました(笑)すごいタイミング!こういうことって結構生きてたら多い気がする。そしてとても大事なことな気がする。さて、ちょっと身体も解したし、これからまた大好きな人に会いに行こう。』
※様々な解釈ができるストーリーのほったらかし加減が、逆に議論のネタに事欠か
ないプラスに作用しているといえよう。。明治時代のエヴァンゲリオンと言うべきかもっ!
→ 『日テレで2~3日前の深夜に放送された「青い文学」って番組観た方いますか?夏目漱石の「こころ」をアニメ化していて「先生」側の視点からと、「K」側の視点から30分ずつ描いた作品でとてもよかったのですが、一番の印象は・・・・・「女性(後の先生の奥さん)は恐い・・・・(°Д°;≡°Д°;)」でした。ああいうのに引っかからないように・・・。くわばら、くわばら。』
●青い文学 「こころ」 先生パート
※け、Kってこんな風貌だったのかっ!冒頭でいきなり衝撃を受けた!
原作と違うのは、下宿の奥さんが、「私」と「K」の恋心を了解し
ていたという点。これは随分と印象が変わってしまうじゃまいかっ!
※これはまた大胆なアレンジ!えなりかずきが怖がるのも道理だ。。。
思いっきり恋愛ドラマに舵を取ったらこうなりますよー、っていう世界ヤネ。
いや、実に興味深かったーーー。
『超然としなさい。/私は、イヤなことは心の中で握りつぶす。』 |
出展:どちらも、「高峰秀子の言葉」(斎藤明美著 新潮社) |
発言者:高峰秀子 (女優、エッセイスト 1924年3月27日~2010年12月28日) |
→ 『解説:高峰は5歳で映画デビュー。「カルメン故郷に帰る」「浮雲」など多くの名監督の代表作で主役を演じているが、なかでも木下恵介監督の「二十四の瞳」は日本の映画史上の最高傑作の一つだ。高峰はエッセイストとしても優れ、多くの本も著している。2つの言葉は、夫松山善三亡き後、こじんまりとした家で暮らすなど大スターなのに飾らない。高峰らしい、きっぱりした生き方を示している。』
・日本映画界をけん引する3人の監督がそれぞれ、木下恵介作品のデジタル
リマスター版オリジナル予告編を製作。木下恵介生誕100周年記念事業の一
環として、木下作品を知らない若い映画ファンにも今なお色あせることの
ない名作群を広めたいという思いから今回の企画が実現した。
→ 『■内容紹介:素晴らしき仲間との交友エッセイ。内田百【門+月】からの手紙、イヴ・モンタンとの再会、司馬遼太郎との食膳、有吉佐和子との長電話など、情味豊かな人達との素敵な思い出。
/■登録情報:/文庫 313ページ /出版社 文藝春秋 /言語 日本語 /ISBN-10: 4167587092 ISBN-13: 978-4167587093 /発売日 2004/7/1 /梱包サイズ 15 x 10.6 x 1.4 cm /おすすめ度 5つ星のうち 4.5 /■アラヤタロウ 5つ星のうち5.0 「ユーモアと情感溢れる交遊録」2016年4月30日・・・著者高峰秀子さんと素敵な友人知人たちとのユーモアと情感溢れる交遊録です。命を救った恩人を生涯大事にした大河内伝次郎氏と正やんの関係に泣かされ、内田百輭先生が書いた高峰さんからのファンレターの返事に心が和まされ、新幹線での司馬遼太郎先生のエピソードに笑わされます。人付き合いが大の苦手だという高峰さんですが、その飾らない性格が多くの人々を惹き付けたのでしょう。その他、生涯の支えとなった夫の母の一言、戦地から送られるファンレターの話などが心に残りました。』
※うわ、気になる~~~~!新幹線での司馬遼太郎先生のエピソードというのが・・・
☆本日の、『日めくり漱石』は・・・
※とうとう、能天気なユーチューバー動画も貼ることになってしまったかーーー。
いやー、それにしても、空が青い!雲が白い!
で、ラストは、ホンマがっかりだよぉ~~~~~~~~~~ぅ!
※まるちゃんはまだ男湯に入ってもよい年齢なのだろうか・・・?