☆書籍「元気が出る言葉」&サライ「日めくり漱石」をお届け♪
(詳細は、1月2日の日記を参照のこと!)
☆さ~~て、本日5月29日(火)の、「元気が出る言葉」は~?
『「若さ」の前に 不可能もなければ、陰鬱も無い。それは一切を突破する力であり 一切を明るくする太陽である。/春みじかし 何の不滅の命ぞと ちからある乳を 手にさぐらせぬ』 |
出展:前者:「愛の創作」/後者:「みだれ髪」 |
発言者:与謝野晶子 (詩人 1878年12月7日~1942年5月29日) |
→ 『解説:20歳で与謝野鉄幹と不倫関係となり、以後、晶子の奔放で壮絶な人生がスタート。女性の官能をあからさまに謳った処女歌集「を刊行する。晶子は「若さ」こそが一切を突破する力だという。いま、こういう若き情熱を持つ作家がいるだろうか。なお、のちに晶子が反戦や、婦人・教育問題にも多くの提言をしていることも付記しておく。』
Amazon.co.jp みだれ髪 (新潮文庫) 与謝野晶子(著)
→ 『■内容(「BOOK」データベースより):「その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」。
凛然と、誇らかな情熱をもって、命がけの恋心を、今この時の自身の美しさを歌いあげた『みだれ髪』。1901(明治34)年、その運命の人与謝野鉄幹により発刊。大人は眉を顰め、青年は快哉を叫んだ―まさに20世紀を拓いた全399首を、清新な「訳と鑑賞」、評伝と共に贈る。/■登録情報:/文庫 254ページ /出版社 新潮社 /言語 日本語 /ISBN-10: 4101170215 ISBN-13: 978-4101170213 /発売日 1999/12/27 /梱包サイズ 15 x 11 x 1 cm /おすすめ度 5つ星のうち 4.3 /■カスタマーレビュー:Amazon カスタマー 5つ星のうち4.0 「情念の歌人だと思う」 2017年4月11日・・・与謝野晶子は、情景よりも情感を、情感よりも情念の歌人というイメージが強い。そのためか歌から景色が浮かんでこない傾向もあるように思う。個人的には「やは肌の あつき血汐にふれも見で さびしからずや道を説く君」にこだわり続けている。エロチックだと思う。』
“諫(いさ)めに従うこと流るるが如しとは、僕のことをいったものだよ(『虞美人草』より)” |
【1907年5月29日】うっかりミスで詫び状を書く羽目になる。
漱石が大切にしていた価値観のひとつに、「拙を守る」ということがある。世渡り上手でなくていい。目先の利に走って小賢しく動き回るより、愚直といわれても、節を曲げずに生きるのをよしとする。そういう意味合いであろう。/
陶淵明の詩『園田の居に帰る』の一節「拙を守りて園田に帰る」や、『
老子』の「大巧は拙なるが如し」あたりが出所と言われるが、小説『
草枕』の中では、
漱石はこの「拙」に「
木瓜(ぼけ)の花」を重ねながら、こんな一文も綴っている。《評してみると
木瓜(ぼけ)は花のうちで、愚かにして悟ったものであろう。世間には拙を守るという人がある。この人が生れ変るときっと
木瓜になる。余(よ)も
木瓜になりたい》
だが、そんな
漱石でも、聖人君子ならぬ人間であるから、ふとした拍子に迷い道に踏み入りそうになることもある--。/今から109 年前の今日、すなわち
明治40年(1907)5月29日、40歳の
漱石は珍しく年少の友から叱責を受け、謝りの手紙を書いていた。その友とは
漱石より5つ年下の
渋川玄耳(しぶかわ・げんじ)。陸軍法務官の出身で、東京
朝日新聞社に引き抜かれ、社会面の刷新に取り組んでいる人物だった(のちに校正係として
朝日新聞に入社した
石川啄木を抜擢し、「朝日歌壇」を創設することになる)。10年ほど前、両者が熊本にいた頃から、俳句を通しての交流があったのである。
校正係として
朝日新聞に入社した
石川啄木を「朝日歌壇」の選者に抜擢したのも
渋川玄耳だった。啄木の第一歌集『一握の砂』の刊行に当たっては、藪野椋十(やぶの・むくじゅう)の
ペンネームで序文を寄せている。さて、その
渋川玄耳に、どうして詫び状を書くことになったのか。少し前の5月3日、
朝日新聞に
漱石の『入社の辞』が発表され、
漱石は正式に東京
朝日新聞の社員(小説記者/専属作家)となった。これを受けて、新聞社の方で
漱石の歓迎会を開きたいので出席してほしいとの連絡が、玄耳から伝えられた。ありがたいことなので
漱石は出席する旨、即答した。ところが、あとで日程を確認してみると、
漱石が門弟その他に自宅で面会する木曜日(木曜会)と重なってしまっていた。
漱石はその事情を告げて、このままだと出席が難しいので日程を変更してもらえないかと、玄耳に申し出ていたのである。/玄耳は、皆のスケジュールを調整しているし直前になっての変更は無理だ、また主役がいなくては歓迎会はなりたたないのだから無理を押してでも出席してもらわないと困る、と叱るような調子で言ってきた。これに
漱石は、恐れ入ったわけだ。
漱石にしてみれば、毎週木曜と決めている面会日を取りやめてしまうと、その他の曜日に訪問してきた人を謝絶するのが難しくなることを恐れた(「面会日は木曜日と決めているから、木曜日に出直してください」と明言しにくくなる)。そうなると、新聞連載の開始に向けて書きはじめている『
虞美人草』の原稿が滞ってしまうのではないかとの危惧もあった。/とはいえ、会社の歓迎会への出席を約束したのは他ならぬ自分であり、「木曜会」のことは私的なこと。
漱石は玄耳あての手紙で、まず《拝啓 歓迎会につき御叱りは恐れ入りました》と謝し、続けて「面会日と知らず受けやったのが悪いのだから、出席つかまつることに致します」と綴っていくのだった。もうひとつ、
漱石は数日前、玄耳に問い合わせていたことがあった。それは、税金の申告に関することだった。/
漱石は長年にわたって、熊本五高や東京帝大などの官立学校の教職にあった。それを辞して新聞社入りするとまもなく、税務署から「今後は所得の申告をするように」との連絡があった。現在の日本なら、社員の税務申告は会社が代行するのが通例なのだが、この当時はまだそうした形が整っていなかった。
漱石も初めてのことで不案内なので、旧知の間柄で同じ官から民への転職組である
渋川玄耳に「他の社員はどんなふうに申告しているのか」と問い合わせをしたわけだ。
今までは官職にあったため考える余地もなかったが、この際、できる範囲の節税策があるなら、それも講じたいものだという思いも
漱石にはあった。親戚への生活費の援助や、甘え上手の門弟たちの面倒を見たりするのに加え、知人からの借金の申し入れなどもあり、何かと出費がかさむ夏目家の台所事情なのである(付言しておくと、
漱石が「借金」という名目で貸した金は、ほとんど返ってきた試しがなかった)。/ところが、玄耳は出身が出身(陸軍法務官)だけに、堅物で頑固過ぎるほどの性癖。前段に歓迎会の一件もあるものだから、
漱石の問い合わせに応じつつ、余計に厳しい口調になって、「
漱石ともあろう人が些々(ささ)たる
所得税のことなど気にかけていてどうするのか」と、言ってきていた。なんだか老師にでも一喝されたような気分になって、
漱石はこの税金の件についても、節税や必要経費のことなど一切顧慮せぬことを決め、恐縮の意を綴って手紙を書き終えていく。
安定した身分を捨て、一大決心をしての転職。初めての新聞連載小説に挑んでいこうとする高揚心。そんな中で
漱石は、知らず知らずのうちに、いつになく浮足立っていた自分に思い至っていた。
漱石の頭に、自分を戒める如く浮かぶのは、熊本時代に自作した句。《
木瓜咲くや
漱石拙を守るべく》/愚直でいい。愚直がいい。改めてそう思い直す
漱石先生である。
細かすぎて伝わらない関連動画など
(「ミス」「詫び状」で動画検索してみました!!)
ジョニーAのつぶやき:「詫び状」と聞けば、やはり向田邦子の「父の詫び状」に尽きるッショ!