オマケの三連投!~~禁断の横着スタイル発動~~

ズルズル間を空けてしまったここ3日ほど・・・。通常なら後追いでなんとか

埋める努力をするのだが。とりあえずこの酷暑日和で、集中力は途絶え気味。

禁断の作戦に手を染めざるを得なくkなったのだった。いや、そない大したこと

ぢゃあないんだけどもーーー。


☆書籍「元気が出る言葉」&サライ「日めくり漱石」をお届け♪

(詳細は、1月2日の日記を参照のこと!)


☆さ~~て、まずは本日7月19日(木)の、「元気が出る言葉」は~?


『飛び込む前に、あれこれ考えたってや、どうせ、その通りにはなんねぇ。だったら何も考えず飛び込め。なんとかなるもんだびゃ。死にたくねぇがらな。』
出展:2013年NHK朝の連続テレビ小説「あまちゃん」の台詞
発言者:宮藤官九郎 (脚本家 俳優 1970年7月19日~)

『解説:「あまちゃん」は宮城県出身宮藤官九郎ならではの岩手三陸地方の活き活きとした会話も魅力的だったが、ドラマの中に急きょ、東日本大震災も取り入れられ、一段と多くの勇気と感動が与えられた。この言葉は、夏ばっば(宮本信子)がアキ(能年玲奈)を海に突き落としていう名シーン、名台詞だ。そうだ、人はそうは死にたくないのだ。、そうと腹をくくれば人生勝ったようなものだ。何も考えずに飛び込め、だ。大江健三郎の小説のタイトル「見る前に跳べ」を思い出す。』


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◎関連書籍、楽曲、映画(ドラマ)などなど・・・


Amazon.co.jp いまなんつった? (文春文庫) 宮藤官九郎 (著)

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『■内容(「BOOK」データベースより):セリフを書きセリフを覚えセリフを喋って20年。人生の半分をセリフと格闘してきた宮藤官九郎が思わず「いまなんつった?」と振り向いてしまうようなセリフをエッセイに。TV・舞台・映画・音楽・家庭で耳にした名&迷セリフばかり111個。巻末には、劇作家・俳優の岩松了が書きおろした岩松了の「いまなんつった?」を収録。/■登録情報:/文庫 389ページ /出版社 文藝春秋 /言語 日本語 /ISBN-10: 4167811022 ISBN-13: 978-4167811020 /発売日 2013/5/10 /梱包サイズ 15.2 x 10.6 x 2 cm /おすすめ度 5つ星のうち 5.0 /■カスタマーレビュー:ゴリポン 5つ星のうち5.0 「公共の場では読めない」2013年12月14日・・・今は亡き、井上ひさしさんを思い出させる書きっぷりで、とても読みやすかった。ただ、バスや電車、知らない人がたくさんいるような場所では読まない方が良い。それは、思わず、大きな声を出して笑ってしまうからだ。家で読んで、久し振りに大きな声を出して笑うことしばしばだった。健康に良いかも………。』


クドカン松坂桃李と添い寝「来ちゃった…」 

 “年の差兄弟”シリーズ新CM 明治安田生命新テレビCM『兄、来ちゃった』篇



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※役者としても、存在感のあるいい脇役の座をキープしてるんだよなぁー。


NewsWalker 「あまちゃん」橋本愛が『宮藤官九郎さんに遊ばれています』とドッキリ発言!! 2013/05/04

NHK連続テレビ小説あまちゃん」が相変わらず高い視聴率をキープ。今週放送分(4月29日~5月4日)では、海女(あま)漁シーズンも終わり、意気消沈するヒロイン・アキ(能年玲奈)を見兼ねた親友・ユイ(橋本愛)が高校のプールに連れて行く。そこで出会った、潜水土木科の種市(福士蒼汰)にアキは一目ぼれをしてしまう展開に。そんなアキの恋を応援する“ミス北鉄”ユイ役の橋本愛にインタビューを行った。

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――ユイを演じての感想をお聞かせください。/橋本:(脚本の)宮藤(官九郎)さんに“橋本愛”のパブリックイメージごとすごく遊ばれているのを脚本の中から感じたので、だったら逆に遊び返してやろうと思って演じています。ただ、ユイちゃんのような強引さやアイドルへの憧れが、私にはないので苦労しました。――ユイの好きなところはどこですか?/橋本:調子にのらない子なので、勘違いしないところはやっていてすがすがしく思います。頭のいい子なので、すごく冷静な面は好きですね。でも、逆に見ている方には嫌われる要素のひとつにもなると思うので、ちょっとずつ調整しながら演じています。――思い出に残っているシーンは?/橋本:トンネルで叫ぶシーンは印象に残っています。すごく気持ち良くて、ユイが田舎を嫌う気持ちが分かりました。やっと自分を吐露できた瞬間で、すごく楽しかったです。私にとって開放できる場所が、ユイには閉塞感を感じる場所でしかないことを体で感じることができました。自分とはチグハグなんですけど、楽しめたシーンですね。――能年玲奈と共演した印象はどうでしたか?/橋本:(能年は)自分のやり方がわかっているからか、現場では常にアキとして生きるために必要な振る舞いをしています。そんな姿勢や玲奈ちゃんの笑顔に現場は癒やされています。玲奈ちゃんが吹き出すのをこらえながらもせりふが言えない姿に、私もいとしさを感じます(笑)。(能年は)弱音を絶対に吐かないんです。ヒロインのかがみだと思います。』

※のんちゃんのドラマ復帰作は、是非ともクドカン脚本のモノにして欲しいゾーゥ。


☆本日の、『日めくり漱石』は・・・

サライ 「夏目漱石」の記事一覧


“御馳走をして冗談をいって遊びたいのです(『書簡』明治38年11月9日より)”


【1915年7月19日、48歳の漱石】遠来の客にとっておきの「書籍購入法」を披瀝


今から111年前の今日、すなわち大正4年(1915)7月19日、48歳の漱石は日暮れ時から人待ち顔で、少しそわそわしていた。金沢在住の俳人で英文学者の大谷正信が夫人とともに久方ぶりに上京していて、訪ねてくることになっていた。/大谷正信は、漱石より8つ年下。京都の第三高等学校で、高浜虚子河東碧梧桐と同級であり、正岡子規門下で俳句を学んだ。東大英文科を卒業したという点では、漱石の直系の後輩ともいえた。遠く金沢からのお客さんということで、論語の一節ではないが、漱石は「朋(とも)あり遠方より来る、また楽しからずや」という浮き立つような気分にもなっていたのだろう。正信は、金沢から名菓「長生殿」を送ってくれたりもする良き友人であった。


「御閑の時刻に顔だけ見に参上したい」そんな趣旨の正信からの葉書が届いたのはこの数日前。漱石は「夕方から拙宅で夕食でも」と誘いの手紙を返したのだが、正信は仕事の邪魔になってはと遠慮し、夕飯の饗応は断り、「夜に少しだけお邪魔したい」との連絡をしてきていた。礼を重んじる人なのである。/俥(人力車)が門前に止まった気配を察し、漱石はすぐさま下駄をひっかけて客を迎えに出て、そのまま奥の書斎兼客間へと案内した。まもなく、鏡子夫人とお手伝いさんによって、小鉢に珍しい馳走を並べた膳が運ばれる。食事はすませてくるということだったので、こうした用意を整えていたのだった。


小鉢をつつきながら、世間話に花が咲く。そのうち、正信がちょっと愚痴めいて、「田舎にいてはろくな本もありません。注文しても3か月も経たないと来ませんしね」/そう口をすべらすと、漱石は、自分自身が田舎暮らししていた頃に編み出した書籍購入法を披瀝した。「次々注文すれば、次々に来て待たずにすみますよ。私は面白そうな本はすぐ注文します。着いた小包を開けてみて、こんな本を注文したのかなと思うことがありますよ」/これには、皆が大笑いだった。漱石は準備していた蓄音機で、大谷夫妻に西洋の音楽をいろいろと聞かせたりもした。さらに、アイスクリームや水菓子を食しながらの談笑が続き、漱石が自筆の画を手土産に持たせて夫妻を送り出したのは、夜の10時頃だった。漱石先生と鏡子夫人、お客さんを歓待することが、大好きなのであった。


細かすぎて伝わらない関連動画など

(「本を買う」「次々に」で動画検索してみました!!)


●本を買うなら?ネットVS書店!メリット・デメリット(6分10秒)


※久々に観たなー、ベルりんの壁サン。忘れていたわ。今後もチェック欠かさんとこ。


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※偶然の本との出会いは確かに魅力的だ~~!


●読書愛好家カズレーザーに「かっこいい」と称賛の声



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※「導入はどの本も面白い」目から鱗ですな。さすが数読んでる人の

セレクトの仕方は違うわ!


ジョニーAのつぶやき:ベルリンの壁さんのユーチューブを思い出せたことは収穫~♪書評動画とか、もっとどんどん観させてもらいまひょ♬



☆書籍「元気が出る言葉」&サライ「日めくり漱石」をお届け♪

(詳細は、1月2日の日記を参照のこと!)


☆さ~~て、続いて昨日7月20日(金)の、「元気が出る言葉」は~?


『不惜身命(フシャクシンミョウ)』
出展:座右の銘法華経」(仏教聖典
発言者:緒形拳 (俳優 1937年7月20日~2008年10月5日)

『解説:「不惜身命」とは、我が身や命をかえりみないこと。命を捨てて惜しまないこと。元々は仏教に身を捧げる意味だったが、国や主君、天や人々なども対象となった。では緒形は何に命を捧げようとしたか・・・。もちろん、俳優道だろう。正義も悪もこなせる陰陽併せ持った大人の俳優だった。この言葉、貴乃花横綱に昇進する際の口上で「相撲道に不惜身命を貫く所存です。」と述べて有名になった。貴乃花緒形拳から贈られた言葉と述べているーー。』


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◎関連書籍、楽曲、映画(ドラマ)などなど・・・


ライブドアニュース 笑福亭鶴瓶が緒形拳さんの“ハートをキャッチ”するために取った行動

『14日放送の「行列のできる法律相談所 3時間スペシャル」(日本テレビ系)で、司会の明石家さんまが、落語家の笑福亭鶴瓶と、2008年に亡くなった俳優・緒形拳さんとの逸話を語った。/番組では俳優の高橋一生が、お笑いコンビ・野性爆弾のくっきーと初対面したときに「車を貸してほしい」と冗談なのか本気なのかわからない相談をされ、困ったというエピソードを披露した。VTR出演したくっきーは、「冗談だった」として高橋に謝罪していた。そうした中、スタジオトークではさんまが「お笑い芸人は、役者さんに気に入られようと」「なにか仕掛けたりするのも事実」と語り、鶴瓶と緒形さんのあるエピソードを話し始めた。

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さんまによると、かつて鶴瓶は緒形さんに気に入られるためにある行動を取ったという。それは、緒形さんから「甘いの好きか?」と聞かれ、鶴瓶が「大好きです」と答えたときのこと。鶴瓶は、8個あったおはぎを「なんとか緒形さんのハートをキャッチしよう」という思いから、全て食べきったのだとか。そんな鶴瓶に、緒形さんは「誰が全部食べろって言った!」とツッコミを入れたそう。さんまは「(鶴瓶は)緒形さんのハートをキャッチ…したけど『(おはぎを)吐いた』って言うてはった、すぐに」と明かし、笑いを誘っていた。』


●1993年 キリン一番搾り 緒形拳 (2分29秒)



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※うれしぃ~~~~~!シンプルなキャッチコピーが際立ちます。


NEWSポストセブン 石坂浩二 場に慣れることで風格が出ると緒形拳から教わった

『俳優としてだけでなく、バラエティ番組の司会者やナレーターとしても知られる石坂浩二は、役者ではなく劇作家志望だった。駄目なら作家に戻るつもりで役者になり、時代劇の経験がないままNHK大河ドラマに出演した。そのとき主演だった緒形拳に影響され後の芝居に生きた役の「風格」についての石坂の言葉を、映画史・時代劇研究家の春日太一氏がつづる連載『役者は言葉でてきている』からお届けする。

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石坂の名を一気に世間に知らしめることになったのは、1965年のNHK大河ドラマ太閤記』だ。緒形拳が秀吉役で主演した本作で石坂は石田三成に扮し、シリーズ後半から出演した。「番組の放送が始まってから話が来たんです。でも『時代劇はできないですよ』と断りました。するとプロデューサーの方が『これは時代劇ではありません。扮装は時代劇ですが、現代劇のままでいいんです』と説得されて引き受けました。ただ、実際は大変でしたね。刀を差したまま角が曲がれなかったくらいです。それでも緒形拳さんはニコニコ笑いながら『そんなこと気にしないでいいよ』って言ってくれました。あの人は新国劇にいたから立ち回りも所作も上手い。それで『こう立った方がいい』とか助言もくれましたし、こちらもお芝居を見ながら『そうか、なるほど』と目で盗んでいきました。

緒形さんが凄いのは、普段と芝居とで顔が全く違うことです。しかも表情を変えようとしてそうなるんじゃなくて、お腹の中の気持ちで変わっている。特に驚いたのは、秀吉が歳とって偉くなるのにしたがって、緒形さんもそう見えていったことです。そのことを緒形さんに言ったところ、『役に慣れてくると、偉くなったように見える。長い間やるんだから、そう思えばいいんだよ』と。たしかに最初は慣れないから芝居もチョコチョコしちゃうんですが、慣れてくるとゆったりしてきて、位も上がったように見えてくるんですよね。/後になって大河ドラマの『天と地と』で主演した時にその言葉が頭に残っていたから、意気込んでやりませんでした。段々とこの場に慣れていけば、上杉謙信としての風格も出るようになるんだと思って演じました」』


☆本日の、『日めくり漱石』は・・・

サライ 「夏目漱石」の記事一覧


“その時分は本の名前を覚えて人に吹聴するのが学者だと思っていた(『書簡』明治39年1月9日より)”


【1901年7月20日漱石】ロンドンの夏目漱石、引っ越しで本を運んで汗まみれになる


今から115年前の今日、すなわち明治34年(1901)7月20日漱石はロンドンで5番目となる下宿へ引っ越しをした。新しい下宿の住所はクラパムコモンのザ・チェイス81番地。家主はリールという名の老嬢。妹も一緒に住んでいて、両人ともに上品なフランス語を操る教養人だった。同宿者には、他に、80代の退役陸軍大佐などがいた。/夕方4時頃になって、大型の革鞄やたくさんの本を入れた箱が、その引っ越し先へ運ばれてきた。これが漱石の荷物だった。漱石は、昨日、汗だくになって自身でこれらの荷物を荷造りしたのだ。ところが、いざ建物の中へ運び入れようとして、困った事態に突き当たった。本を入れた箱が大き過ぎて、どうしても門から運び入れられないのだった。仕方ない。漱石は門の前で箱の中から書籍を取り出し、それを剥き出しで抱えて3階の自室まで運び上げていく。


夏のことで気温も高く、本は重い。何度も往復するうち、漱石は昨日以上に汗まみれになってしまう。「汗牛」のたとえどころか、当の本人が、実際に大汗を流している。あまりの汗の量に、「発汗一斗」という言葉が漱石の頭を過る。一斗は一升の10倍。一升瓶10本分の汗というわけだ。そんなありさまだから、どうやら荷物を運び込んだものの、とても室内の整理にまでは手が回らない。足の踏み場もない状態で、その日の作業を終えることになってしまった。


漱石はこの日から帰国までの一年半を、ほとんどこの下宿の中に閉じこもるようにして、『文学論』の執筆準備のため、読書と思索に没頭した。この下宿の建物は世紀をまたいで現存し、斜向かいの建物の一室には恒松郁生氏が私費で運営してきたロンドン漱石記念館が設けられている。開館から30年以上になり多くのファンや研究者が訪れてきたが、残念ながら来年(2017年)9月末に閉館することが先頃発表された。それまでに渡英の機会があれば、足を運んでみるのも一興だろう。


細かすぎて伝わらない関連動画など

(「本」「運ぶ」で動画検索してみました!!)


●本・雑誌の梱包 アート引越センター



●引っ越しの時、本は重いですが運ぶ必要はありません【中野区限定 本の買取】



ジョニーAのつぶやき:そのうち紙媒体の書籍は姿を消し、データだけを持ち運べばいい楽ちんなお引越しの時代がやってくるのだろうかーーー。


☆書籍「元気が出る言葉」&サライ「日めくり漱石」をお届け♪

(詳細は、1月2日の日記を参照のこと!)


☆さ~~て、本日7月21日(土)の、「元気が出る言葉」は~?


『老人がふたたび眠りに落ちていた。依然としてうつ伏せのままだ。少年がかたわらに坐って、その寝姿をじっと見守っている。老人は、ライオンの夢を見ていた。』
出展:「老人と海」(新潮社)
発言者:アーネスト・ヘミングウェイアメリカの小説家 1899年7月21日~1961年7月2日)

『解説:熱がいい。夏の海辺で5時間くらい寝たきり起きたり、ゆっくりと1冊の本を読む。100ページちょっとの長さがいい。「老人と海」だ。男の人生とはどういうものか、男が戦うこと、人生に負けないことを教えてくれる。老人になって、どんなに心身が壊れていてもライオンの夢を見られる。そんな人生に勇気づけられる。この本で老人は何も誇らない。そんな老人を少年は大好きだ。「失われた世代の代表。ヘミングウェイの作品群は魅力的な言葉で溢れている。』


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◎関連書籍、楽曲、映画(ドラマ)などなど・・・


ウィキペディア アーネスト・ヘミングウェイ

『生涯:イリノイ州オークパーク(現在のシカゴ)に生まれる。父は医師、母は元声楽家で、六人兄弟の長男だった。父は活動的な人物で、釣りや狩猟、ボクシングなどの手ほどきを受けた。高校卒業後の1917年にカンザスシティ (ミズーリ州)の地方紙「カンザスシティ・スター(英語版)」(英: The Kansas City Star)紙の見習い記者となるも退職。翌年赤十字の一員として第一次世界大戦における北イタリアのフォッサルタ戦線に赴くも重傷を負う。

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戦後はカナダ・トロントにて「トロント・スター」(英: Toronto Star)紙のフリー記者をつとめ、特派員としてパリに渡りガートルード・スタインらとの知遇を得て小説を書き始めた。行動派の作家で、1930年代には人民戦線政府側としてスペイン内戦にも積極的に関わり、その経験を元に行動的な主人公をおいた小説をものにした。『誰がために鐘は鳴る』『武器よさらば』などはそうした経験の賜物。当時のハリウッドに映画化の素材を提供した。短編には簡潔文体の作品が多く、これらはダシール・ハメットレイモンド・チャンドラーと後に続くハードボイルド文学の原点とされている。1954年、『老人と海』が大きく評価され、ノーベル文学賞を受賞。同年、二度の航空機事故に遭う。二度とも奇跡的に生還したが、重傷を負い授賞式には出られなかった。以降、これまでの売りであった肉体的な頑強さや、行動的な面を取り戻すことはなかった。/晩年は、事故の後遺症による躁鬱など精神的な病気に悩まされるようになり、執筆活動も次第に滞りがちになっていく。1961年7月2日早朝、ショットガンで自殺(当初は手入れの際に起きた暴発による事故死と報じられたが、遺書が発見されたため自殺と断定した)。』


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ヘミングウェイの残した言葉・名言集



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☆本日の、『日めくり漱石』は・・・

サライ 「夏目漱石」の記事一覧


“どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画ができる(『草枕』より)”


【1913年7月21日、46歳の漱石】油絵にハマった夏目漱石、絵道具一式を買いに神田へ出かける


今から103年前の今日、すなわち大正2年(1913)7月21日、46歳の漱石は門弟の寺田寅彦へ手紙を書いた。昨日、漱石が長男の純一と次男の伸六を連れて、高田馬場諏訪神社の森へ遊びにいっている間に、寅彦が留守宅を訪ねてきて菓子折を置いていってくれた。その礼状だった。


《きのうは留守に来て菓子を沢山置いていって下さいましてまことにありがとう存じます。あの時は男の子を二人引連れて高田の馬場の諏訪の森へ遊びに行っていましたので失礼しました。晩に女客があって今日は土用の入だという事を聞き、あの菓子は暑中見舞なんだろうと想像しましたがそうなんですか。それともふとした出来心から拙宅へ来て寝転んで食うつもりで買ってきたんですか。そうすると大いにあてが外れた訳で、恐縮の度を一層強くする事になります。とにかく菓子は食いましたよ。学校がひまになったら、またちょいちょい遊びにいらっしゃい。とりあえず御礼かたがた御詫まで。奥様へよろしく》


1通の礼状にも、師弟の温かな関係と漱石の人間味があふれている。寅彦は漱石と二人で会いたいがために、他の門弟知己も集う木曜会などの席ではなく、しばしばこうした不意の訪問をした。それでいて、とりたてて何を話すでもなく、ただそばにいたりする。一緒に寝転びながら菓子を食う文豪と物理学者。想像するだけで、楽しくなるヒトコマである。


その後、漱石は友人の画家・津田青楓に付き合ってもらって、東京・神田の文房堂へと赴いた。文房堂明治20年(1887)創業の画材やデザイン、版画材料の専門店。漱石はそこで、油絵の道具一式を買いととのえようとしていたのだった。ふたりは、往路は、途中、古道具屋をひやかしながら行った。文房堂での買い物のあとには、神田風月堂で食事をともにした。/帰り際、漱石は青楓の家に立ち寄った。青楓自作の画を見せてもらった後、早速、絵の具の使い方の説明を聞き実地に練習もしてみた。青楓が京都から持ち帰った青磁の花瓶に、庭から剪ってきた紫陽花を投げ入れ、それを写生したのである。


漱石は凝りだすと、熱が入る。翌22日と23日にも、青楓に漱石山房まで足を運んでもらい、実地にアドバイスを受けながら一緒に油絵を描いた。このときの題材は、青楓が持参したしゃくなげだった。こうした青楓の好意に報いるべく、後日、漱石は何か適当な品物を進呈したいと思った。そのとき漱石の頭に浮かんだのは、先に文房堂に赴いた折、一緒に覗いた古道具屋で青楓が気に入っていた様子の、「乾山向付」の皿5枚組みだった。あれを求めて青楓に進呈すれば、喜んでくれるに違いない。漱石は、そう思い定めた。親しい中にも、礼と義を忘れない漱石先生なのであった。


細かすぎて伝わらない関連動画など

(「油絵」「購入」で動画検索してみました!!)


●眺めのよい部屋 - 動くシュルレアリスム絵画より



オタキング っ取り早く絵がうまくなるには、あれだ!



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※絵は描けなくとも、プロデュースは出来る!?


ジョニーAのつぶやき:油絵は高校の時、ちょいと手を染めたが、ロクな思い出がないよぉ~~~~~ぅ。