人生と闘うプロレスラーたち

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※9/2放送の「JUNKスポーツ」の動画を観たよっ♪


ジャンクスポーツ 不屈のアスリート達

『●放送概要・・・不屈のアスリート大集結!ゼロからサッカーチームを作った高原直泰!バスケ界のレジェンドは2億4千万円の借金▽プロレスの帝王・高山善廣の壮絶リハビリに密着 /●放送内容・・・「ジャンクSPORTS」は、MCの浜田雅功と、各界で活躍する一流のアスリートたちとのクロストークが大きな見どころ。今回は、折茂武彦(バスケットボール)、ケンドーコバヤシ(プロレス好き芸人)、桜庭和志総合格闘技)、高原直泰(サッカー)、田原直哉(エアリアル)、山田いずみ(スキージャンプ)をゲストに招き、さまざまな困難を乗り越え競技を続けてきたアスリートによる「不屈のアスリートSP」をお送りする。 サッカーの高原は、土地勘も無く知り合いもいない沖縄で、1人でゼロからチーム作りをしたエピソードを披露。また、バスケットボール・Bリーグ現役最年長で48歳の折茂は、40歳の時に所属チームを経営する会社が負債をかかえて倒産。現役を続けるために、新しい会社を立ち上げチームを運営することを決め、2億4千万円の借金をしてオーナー兼選手となった苦労話を明かす。 さらに、プロレス界の帝王・高山善廣のリハビリ生活にも密着する!

●出演者情報 【MC】浜田雅功ダウンタウン)【進行】永島優美(フジテレビアナウンサー)【ゲスト】折茂武彦(バスケットボール) ケンドーコバヤシ 桜庭和志総合格闘技) 高原直泰(サッカー) 田原直哉(エアリアル) 山田いずみ(スキージャンプ)(五十音順)【VTR出演】高山善廣


高山善廣のリハビリ生活に密着「自分の足でリングに立ちたい」



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※湿っぽくならないこういう取り上げ方はベストでした。

ハマちゃんの絵を持って行って、「俺のほうがウマイな」

的なコメントを高山に言わせたかったスタッフはちょっと

反省してほしいですけども・・・。


ジャスト日本のプロレス考察日誌 高山善廣 リング生還に向けた闘い

※この記事は高山善廣選手について感じてツイートしたものをでまとめさせていただいたものです。


・高山選手はTAKAYAMANIA興業で流れた最後のVTRで「行くぞ!ノーフィアー!」って言わなかった。あれはリングに立つときまで温存しようとしたと思うんです。骨の髄までプロフェッショナルですよ、帝王は。


・「プロレスラーの身体は神経で動くんじゃない!魂で動くんだ!だから高山、このリングに戻ってこい!」/男・前田日明、魂の名言炸裂!前田日明兄さんはこういう一大事には名言を残すという予感がしていたので、やっぱり素晴らしい名言を残してくれました。


・9月2日に放映されたジャンクSPORTSを見て、高山善廣選手が頑張る姿を見た。多くの人達に勇気を与えたと思う。「高山が頑張っている。自分も頑張ろう」


・これこそプロレスラーの使命。高山は見事にその使命を果たしている。

身体は不満足かもしれない。でもお得意のトークが冴えていたのがたまらなく嬉しかった。


・去年、高山選手の頸髄完全損傷で「回復の見込みはない」という会見を聞いて、あの鈴木みのるが涙を流しながら支援を呼び掛けたのはそれは色々とショックだった。でも本人も含めて多くの人達は彼が悔いだと語った「自分の足でリングを降りる」ことを願っている。今も奇跡。でも奇跡はまだ先にある。


・つまり彼も含めて、みんな、このままでは納得いかないんですよ。ならば彼が望む先に人類の奇跡があることを僕は祈りたいと思います。


・試合をするのはどうなんだという論議の前に、どんな形になってもいいから、いつか本人がリング上で「行くぞ!ノーフィアー!」と叫ぶ日が訪れてほしい。


・映像や写真で見ていると日に日に高山選手の顔色が良くなっているのがとにかく嬉しかった。まだまだ回復することを願う。彼にはプロレスラーは医学の常識を越える超人であることを証明してほしい。あと本人はリングを目指して頑張っている。その後押しを我々プロレスファンが今後も継続していこう!


・高山選手も、パーキンソン病と闘っていたマサ斎藤さんも末期がんの冬木弘道さんもそう。プロレスラーは生きる希望としてリングに立つことを望む。それは決して死に場所に行くという意味ではなく、リングに立つことが生きる上で最高の活力源になるのだ。だから彼らに軽々しく「引退」なんて言えないのだ。


※最後になりますが高山善廣選手のリング生還に向けた闘いをしっかりと見守り応援していきたいと思います。試合をするかしないかとか論議するつもりはない。とにかくリハビリを乗り越えて、リングに立つ彼の姿が見たいです。その日まで、行くぞ!ノーフィアー!!

※なるほど、リング上から復活の「ノーフィアー!」を叫ぶことを

 狙っているわけですね!!さすが高山。根っからのエンターティナーです♪


前田日明から闘病中の高山善廣へ魂の言葉



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※活舌悪くて聞き取りにくいぞ・・・からの、はい名言キタァーッ!!!


●郄山善廣支援プロレスイベント開催!! TAKAYAMANIA EMPIRE



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★上記動画にも登場しているカッキーだが、、、


日刊ゲンダイ ヘルスケア+ 悪性リンパ腫と闘う垣原賢人さん「怖くて仕方がなかった」2018年08月13日

『「もう仕事ができなくなるのではないか」2015年、43歳の時に「悪性リンパ腫」の告知を受けて、まず最初にそんな不安が頭をよぎりました。以前から、そけい部やわきに複数のしこりができていることは認識していました。/告知を受ける直前には、わきのしこりがゴルフボール大くらいまで肥大していて、アームカールというわきを絞って行う腕のトレーニングをすると、“何か挟んでいる”という感覚がずっとあったんです。「何か嫌だな」と気になってはいたのですが、仕事の予定が詰まっていたので、病院に行くことを先送りにしていました。思い返せば、しこり以外にも、疲れやすくなったなと感じていました。当時、中学生の息子と昆虫の調査で山登りに行くと、思うように体が動かなかったり、それまで登山で息子に置いていかれることはなかったのに、体力で逆転されることがあったのです。/14年の年末になって仕事が一段落したので、ようやく町のクリニックを受診しました。すると「こんなに大きなしこりは見たことがない」と驚かれ、すぐに大学病院を紹介されました。大学病院で採血とリンパ生検を受けました。その翌週に診断が確定するとのことで、妻と一緒に聞きにいったところ、医師から「悪性リンパ腫、いわば血液のがん」だと告げられたのです。しかも、「ステージ4で完治はなかなか見込めない」とも知らされました。ちょうどその半年ぐらい前に、高倉健さんが悪性リンパ腫で亡くなっていたので、「大変な病気にかかっちゃった」と思いました。すぐに入院となり早速、抗がん剤治療を始めました。「濾胞性リンパ腫」という年単位でゆっくり進行するタイプで、しつこくて再発率が高く、なかなか完治は見込めないといった話をあらためて説明されました。

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ですから、入院生活は先が見えない、えたいの知れない“恐怖”との闘いでした。とにかく怖くて仕方がなかった。周りのベッドで寝ている他の患者さんがカーテン越しにのたうち回っていたり、いつの間にかいなくなったりすることもありました。夜、寝付くこともできなくて、看護師さんに睡眠導入剤を勧められたこともあります。明るい未来が見えず、目をつぶって寝てしまえば、もう二度と起きられないのではないかという不安にも襲われました。(中略)それまでプロレスで厳しい練習を重ねてきたので、副作用の症状には耐えられたと思います。しかし、もうそれ以上の抗がん剤治療は、体が受け付けないと感じました。他の臓器が悲鳴を上げているというか、6クールに及ぶ抗がん剤治療で、細胞の一つ一つが限界を超えた気がしたのです。中止したいという意志も強く、気持ちにも拒否反応が出てしまったので、医師に「もうやめたい」と申し出ました。ただ、全幅の信頼を寄せていた医師から説得され、それ以降は分子標的薬を4クール、合計で1年半の治療をしました。その後は、肺炎になりかけてヒヤッとすることはありました。でも、今は定期検診のみで比較的順調に推移しています。まだ闘病中とはいえ、去年はリングに復帰することもできました。お世話になった藤原(喜明)組長とスパーリングマッチを行えるまでに回復したので、これからも元気な姿を見せて、同じ病で苦しむ方々に力を与えることができればいいなと思っています。』


◎その藤原組長も・・・


日刊ゲンダイ ヘルスケア+ ラーメン完食は手術5カ月後 藤原組長が胃がんとの闘い語る 2018年07月23日

『「残念な結果が出ました」藤原喜明さん(69)は電話でそう告げられた。3日前に胃カメラ検査を受けた病院からで「胃がんが見つかった」とのことだった。4センチ大、ステージ3a期で、5年生存率は当時41.8%ぐらいだったかな。そりゃショックだった。だけど割とすぐに立ち直った。考えてみりゃ死ぬっていっても誰でも一度は死ぬわけだから、それが30年後か明日かの違いしかない。「どうせ死ぬならカッコよく死んでやる」と思ったね。検査を受けたきっかけは、ひょんなことで知り合った人の快気祝いで食事したとき、彼のお母さんに「あなた、お箸の使い方が下手ね。お母さんに教わらなかったの?」と言われたことだった。当時、右肘を壊して指先もうまく動かせなかったから、ちょっとカチンときてケガの状態を話したんだ。すると「いい病院があるから紹介してあげる」と言われてね。肘も限界だったから、ちょっと遠かったけど行って手術を受けた。

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本当なら1週間入院のところを「1週間後に抜糸に来る」という約束で、1泊で退院。そのとき「抜糸でまたここまで来るなら」と大腸内視鏡検査を予約して帰った。で、検査を受けたらまた「結果は1週間後」と言われたので、結果だけ聞きに来るのが嫌で、今度は胃カメラ検査を予約して帰ったというわけ。俺は病院嫌いだから健康診断は何十年も受けていなかった。「お箸が下手」と言われなかったら検査なんてしなかったし、医者には「あと1カ月遅かったらもうダメだった」と言われたから、あのお母さんは命の恩人だな(笑い)。手術では胃を半分切って、胆のう、胆管を切除。さらに逆流性食道炎にならないように小腸を何センチか切って食道につなげたらしい。本来なら胃の全摘が理想みたいなんだが、プロレスをやるためには胃は残した方がいいということだった。「絶対カムバックするだろうから」と先生が知恵を絞ってくれたんだ。胸の下からへその下までガッツリ切ってるわけだから痛くないわけないんだけど、集中治療室で看護師さんから「痛くありませんか?」と聞かれるたびに「大丈夫です」と言い続けていた。みんなガマンしていると思ってたからさ。術後4日も経ってからモルヒネっていう痛み止めがあることを知って、4日目にやっと導入。そうしたらまぁよく眠れたよ(笑い)。抜糸は普通、術後2週間ぐらいらしいんだけど、俺は4日で抜糸、2週間で退院という異例の早さで回復できた。もともとの回復力が異常に高い上に早くからリハビリもしたからね。看護師さんに「寝たままだと腸が動かなくて癒着するから」と言われ、手術翌日から点滴棒を引きずって歩いたよ。その翌日には階段の上り下り。すれ違う看護師さんに二度見されたとき「ざまぁみろ、俺はプロレスラーだ」と内心ガッツポーズだった。

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■ラーメン一杯を完食して涙が出た・・・ただ、食事は薄味で物足りなかった。だから本当はダメなんだけど、コンビニで梅干しやおでんやプリンを買い食いしてた。1週間もすると脂っこいものがどうしても食べたくなり、病院を抜け出して豚骨ラーメンを食べに行ったんだ。だけど、半分ぐらいで気持ち悪くなってトイレで吐いた。ショックだったよ。その4日後ぐらいにギョーザを食べにいったら、ギョーザは1皿半食えた。まさか食えると思わなかったからうれしかったな。でも、ラーメンはなかなか食べられなくて、完食できたのは手術から5カ月後だった。「ラーメン一杯食えた!」ってうれしくて本当に涙が出たよ。退院後は抗がん剤治療があった。強烈な薬を8クール。つまり、3週間飲んで1週間休むのを8回だね。その後、軽めの薬を毎日、2年間飲み続けた。それはマジメに実行したよ。でも、筋トレしてもぜんぜん筋肉がつかなかった。抗がん剤は、新しい細胞を作らないようにする薬だから筋肉もつかないんだ。粘膜も弱くなって目はかゆいし、歯茎から血が出るし、大変だったよ。一番おっかなかったのは“ダンピング症状”ってやつ。胃が小さい分、小腸で多くの糖分が吸収されるから血糖値の上下が急激らしいんだ。食事して2~3時間後、急激に血糖値が低下して気持ち悪くなる症状なんだけど、そんなことがあるなんて知らなかったから、初めてのときは死ぬかと思った。車の運転中だったからね。今は黒砂糖とコーラを常備して対処している。病気から学んだことなんて何もないよ(笑い)。強いていえば、何でもないことが幸せのひとつだと感じるようになったことかな。たとえば、“朝、アレが立ってる”とかな。アレといっても茶柱だぞ(笑い)』

※お後がよろしいようで・・・。


リング上で激しい闘いを見せ、勇気をくれたファイターたち。人生における闘いにおいても、我々に不屈の魂を伝授してくれているようだ。「頑張れ」という言葉は似合わない。病気(怪我)とのシングルマッチ、勝利を信じて、、、ファイティン!





☆書籍「元気が出る言葉」&サライ「日めくり漱石」をお届け♪

(詳細は、1月2日の日記を参照のこと!)


☆さ~~て、本日9月5日(水)の、「元気が出る言葉」は~?


『わたくしは、何としてもゴッホになりたいと思いました。ブルシャンブルーで描かれたゴッホのひまわり、グルグルして目の廻るような、輝き続け、あんなひまわりの絵が描きたかったのです。わたしは描きに描きました。/力とか、底とか、そういうものがはいらない世界、本当に他愛のない世界から生まれてくる仕事、願うことではなく、願われる仕事、そんな慾でない慾を持ちたいものです。』
出展:いずれも、「板極道」(中央公論社
発言者:棟方志功 (版画家 1903年9月5日~1975年9月13日)

『解説:少年棟方志功は画家になるではなく、ゴッホになるという夢を抱く。ゴッホ=絵描きという職業だった。棟方は上京、やがて油絵から版画に変わる。彼は極度の近眼ということもあっていたに顔を近づけ、魂を刷り込むようにして版画を刻む。それは仏像であり、故郷青森のねぶたの絵だった。自伝からとった2つの言葉、いずれも棟方志功の人柄や姿勢がよくわかるものだ。「慾でない慾」か、胸に彫刻刀が刻み込まれる。』


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◎関連書籍、楽曲、映画(ドラマ)などなど・・・


草野心平さんの詩

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「わだばゴッホになる」

鍛冶屋の息子は 相槌の火花を散らしながら

わだばゴッホになる 裁判所の給仕をやり

貉の仲間と徒党を組んで わだばゴッホになる

とわめいた

ゴッホになろうとして上京した貧乏青年はしかし

ゴッホにはならずに世界の Munakataになった


●3分でわかる棟方志功(人から分かる3分美術史39)



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※大首女シリーズ、なんかそそるゾーーーゥ。


●【1963年】5月 板画家・棟方志功「新版・東海道五十三次

 スケッチ旅行(懐かしの毎日ニュース)



☆本日の、『日めくり漱石』は・・・

サライ 「夏目漱石」の記事一覧


“欲も得も要らない(『行人』より)”


1906年9月5日、39歳の漱石】愛用していた英国製フロックコートを教え子に贈る


今から110年前の今日、すなわち明治39年(1906)9月5日、39歳の漱石のもとに、門下生の中川芳太郎がやってきていた。中川芳太郎は愛知県の出身。この年、東京帝国大学の英文科を卒業したばかりだった。漱石は、この翌年春まで東京帝国大学英文科講師として教壇に立っていたから、大学での直接の教え子のひとりである。


この頃、漱石は、大学での英文学概説の講義ノートをもとにして『文学論』の草稿をまとめるという仕事を、この人、中川芳太郎に任せていた。芳太郎は在学中、英文科内でもとびきりの秀才で、その卒論の出来栄えは抜群。漱石自身、芳太郎宛ての手紙(明治39年5月19日付)の中で、《二三日前君の論文を読みたり。通篇自家の英語にてかきこなしてある御手際(おてぎわ)はえらいもの也。英文としてあれ丈(だけ)にかき上げられれば結構なり。感服の至りである》と称賛したほどだった。


吾輩は猫である』の発行元である大倉書店から、『文学論』を刊行したいという話があったとき、漱石が中川芳太郎に手伝ってもらおうと思ったのは、「彼ならば」という感触を得ていたからに他ならない。漱石は当初、門下生・野間真綱にも、「中川の文は荘重で文学論には持ってこいの文体だよ」と語っていた。


漱石はこの日、芳太郎に、自身の愛用していたフロックコートをプレゼントした。古くなってきてはいたが、ロンドンで誂えた優良品。草稿の整理で骨折っている芳太郎に対する、感謝と励ましの意を込めたものだった。漱石はロンドンでフロックコートを仕立てた際、東京で待つ妻の鏡子にこんな手紙を書き送っている。《当地の品物は高き代わりに皆丈夫向に候。中にも男子の洋服は「パリス」よりも倫敦がよろしき由、なるほど結構に候。小生も当地にて「フロック」と燕尾服を作り候》(明治34年1月22日付)


滞英日記の記述とも考え合わせると、これは大英博物館前のオーダーメイドのテーラー「プリチェット」で誂えたものだったと思われる。それを門下生にぽんとプレゼントしてしまうあたりが、漱石の気前のよさであり、モノに対する恬淡さであったろう。「ちょっと着てみたまえ」漱石がそう言って、そのフロックコートを中川芳太郎に着せてみると、思った以上によく似合う。芳太郎も感謝感激し、フロックコートをていねいに畳んで風呂敷に大事に包んで持ち帰った。


『文学論』の刊行がなったのは明治40年(1907)5月。芳太郎の整理した草稿への、漱石による修正・加筆が後半に進むに従って次第に多くなり、最後はまったく新規に原稿を書き起こすようなことにもなったため、発行時期は予定よりだいぶ遅れてしまった。また、芳太郎は校正実務が苦手だったらしく、初版本には誤植が多く、漱石先生のお叱りを受ける羽目となった。人間には誰しも、得手不得手があるものだ。ちなみに、芳太郎はその後、明治41年(1908)3月に名古屋に設立された第八高等学校の教授となっている。


細かすぎて伝わらない関連動画など

(「中川芳太郎」「」で動画検索してみました!!)


夏目漱石書簡集 19/37 (明治38年9月11日~) [10:08]

 中川芳太郎あての書簡



ジョニーAのつぶやき:今回はこの辺で・・・