25日~29日は「漱石祭り」①イヤタダノオウチャクキカク・・・

25日~29日は「漱石祭り」①イヤタダノオウチャクキカク・・・


☆書籍「元気が出る言葉」&サライ「日めくり漱石」をお届け♪

(詳細は、1月2日の日記を参照のこと!)


☆さ~~て、本日12月25日(火)の、「元気が出る言葉」は~?


『お呼びでない?・・・お呼びでないね。こりゃまた、失礼いたしました!』
出展:日本テレビシャボン玉ホリデー」より。
発言者:植木等 (コメディアン 1926年12月25日~2007年3月27日)

『解説:植木等は僧侶の父の跡を継ぐべく上京するが、いつの間にか「ハナ肇とクレージーキャッツ」を結成、コメディアンになっていく。植木といえば「スーダラ節」「ハイそえまでヨ」など高度成長期の日本のサラリーマンの、応援歌を次々にヒットさせた。「わかっちゃいるけどやめられない」と笑い飛ばした。紹介した言葉も彼の最初のギャグだ。お呼びでない、とは孤立ではない。みんなを和ませる立派なコミュニケーションなのだ。植木たちの作った笑いの流れは、いまも若手芸人にひきつがれている。』


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◎関連書籍、楽曲、映画(ドラマ)などなど・・・


アサ芸プラス さあ一丁、ブワァーっと植木等だ!

昭和32年3月、待ち合わせ場所の内幸町駅前。植木等は「無責任シリーズ」の主人公さながらに、右手を大きく上げて、陽気な声とともに現れた。「すごい人だなあ‥‥」あっけにとられる犬塚弘を前に、その男はいきなり話を始める。「昨日、落語の『小言幸兵衛』を聴いたんだけど、これがおもしろくてねえ」/犬塚は戦後芸能史に足跡を残した「ハナ肇とクレージーキャッツ」のベーシストとして活動し、現在、唯一の健在メンバーとして植木等を語る。「こちらのことはお構いなしに、ずっと落語の話をしているんだよ。最初は1メートルくらい距離があったのが、しまいには10センチまで顔が近づいて、ツバがバンバン飛んでくる。そして落語のオチまで言ってしまった。俺が『ところでお名前は?』と聞いたら、初めて『あ! 植木等って言うんだよ』だったから」

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  犬塚がハナ肇に誘われ、新しいバンドメンバーを探しに2人で見に行ったフランキー堺のバンドにいたのが、ギターの植木とトロンボーン谷啓だった。谷に続いて植木もクレージーに加わったのが昭和32年のこと。マネージメントを「渡辺プロダクション」の総帥として一大帝国を築く渡辺晋が引き受け、本格的なコミックバンドとして好評を博す。そして昭和36年、6月に日本テレビで「シャボン玉ホリデー」が始まり、初シングル「スーダラ節」が8月に発売されると、クレージー植木等の人気は国民的なものになった。〈鳥の鳴かない日はあっても『スーダラ節』を聴かぬ日はない〉クレージー構成作家であり、多くの作詞も手掛けた青島幸男がそう表現した。日本中の子供からお年寄りまで、誰もが手をブラブラさせながら「♪スイスイスーダララッタ、スラスラスイスイスイ~」と歌っていたのだ。当時の国民だけでなく、今をときめく星野源がステージでカバーするなど、「スーダラ節」は世代を超えて愛されている。皮肉にも唯一、異を唱えたのが植木自身であったと犬塚は言う。「植木屋(愛称)はディック・ミネさんに憧れていたくらいだから、低音を生かした正統派の歌手になりたかった。それが『スーダラ節』の歌詞を見た瞬間、『何だ! 冗談じゃないよ、こんな歌!』と尋常じゃない怒り方だった」

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  植木は譜面を持って帰り、浄土真宗の住職である父親の前で歌って聴かせた。そして父親は、意外な反応を見せたと犬塚は言う。「植木屋が『なあ、ひどいだろ?』と聞いたら『うーん、これはすごい!』と一言。歌詞の『わかっちゃいるけどやめられない』が親鸞聖人の教えにも通じると言われて『これを書いた青島幸男は人生哲学をわかっている。お前、これは売れるぞ!』と丸め込まれちゃったそうだ」/ふだんの植木は、無責任男とは真逆の「物静かで常識的な人物」と誰もが声を揃える。それでも父親の一言に「商売」として植木等に徹することを知った。そしてバラエティ番組や主演映画における植木の笑いは、青島の言葉を借りれば「日本の喜劇の天地が逆転した」ほどの衝撃をもたらす。〈それ以前の人情話や世話物の流れをくむ自虐的性格の持ち主であったのに対し、あたかも我が国の高度経済成長と同じくするように、行動するのであります〉/植木は“時代”にも愛される喜劇人となった。』


植木等 "ハイそれまでョ" (1962, Toshiba EMI, Japan)


最後に観たのは、映画『舞妓Haaaan!!!』でのチョイ役だったが、

さすがの存在感を醸し出していたっけなー。


☆本日の、『日めくり漱石』は・・・

サライ 「夏目漱石」の記事一覧


“人の国を征服し自国の利益を拡張す。これを道徳の許す行為なりというはその利益を享くる国民よりいう語にして、利益をそがれたる国民よりいえば不道徳なり(『ノート』より)”


【大正4年(1915)12月25日、48歳の漱石】腕の痛みをリューマチのせいではと思い込む


今から101年前の今日、すなわち大正4年(1915)12月25日、48歳の漱石は原稿を書こうと机に凭(よ)って思案しながら、腕に痛みを感じていた。リューマチのせいではないかと思った。このとき漱石は、年明けから朝日新聞紙上に載せる連載の原稿を依頼されていた。何かお目出度い雰囲気のものでも、と思ったりするのだが、腕の痛みもあってか、いい趣向が浮かばない。「めでたさはともかくとして、漫筆のようなものでも綴っていくか」漱石はそう思い直した。


タイトルは浮かんだ。点頭録。「点頭」とは、うなずくこと。肩肘はらずに、小さく頷くような調子で世の動きを眺めながら、筆をとっていこうというのだ。読者が首肯しつつ読み進めてくれる姿も、漱石の目の奥には映じていたかもしれない。漱石は原稿用紙の上に書きつけていく。《また正月が来た。振り返ると過去が丸で夢のように見える。何時の間に斯(こ)う年齢(とし)を取ったものか不思議な位である》

そんな感想めいた言葉で始めながら、やがて、漱石の胸の奥底に宿っている静かな覚悟があふれ出る。

《多病な身体が又一年生き延びるにつれて、自分の為すべき事はそれ丈(だけ)量に於て増すのみならず、質に於ても幾分か改良されないとも限らない。従って天が自分に又一年の寿命を借して呉れた事は、平常から時間の欠乏を感じている自分に取っては、何(ど)の位の幸福になるか分らない。自分は出来る丈の余命のあらん限りを最善に利用したいと心掛けている》


東西の朝日新聞の1月1日に第一稿を掲載した『点頭録』は、断続的に9回まで続いた。その筆は折からの欧州大戦にも及び、《自分は独逸(ドイツ)によって今日迄鼓吹された軍国的精神が、其(その)敵国たる英仏に多大の影響を与えた事を優に認めると同時に、此(この)時代錯誤的精神が、自由と平和を愛する彼等に斯(か)く多大の影響を与えた事を悲しむものである》と書いた。漱石は、軍国主義へ傾く欧州の趨勢を批判し悲しんでいるのだった。この漱石の心配と悲しみは、漱石没後、昭和に入ると、日本にも当てはまるものとなっていく。


なお、漱石リューマチと思い込んでいた腕の痛みは、糖尿病に起因するものらしいという診断が、しばらくのちに下された。漱石先生、甘いものの食べ過ぎも影響していたのかもしれない。


細かすぎて伝わらない関連動画など

省略


ジョニーAのつぶやき:漱石先生も糖尿病であったか・・・