25日~29日は「漱石祭り」④イヤタダノオウチャクキカク・・・

25日~29日は「漱石祭り」④イヤタダノオウチャクキカク・・・


☆書籍「元気が出る言葉」&サライ「日めくり漱石」をお届け♪

(詳細は、1月2日の日記を参照のこと!)


☆さ~~て、本日12月28日(金)の、「元気が出る言葉」は~?


『人の悪口は絶対口にするな。人にしてあげたことはすぐ忘れろ。人にしてもらったことは生涯忘れるな。』
出展:テレビ東京 「日本人として知っておくべき戦後の51人」(林修氏紹介 2015年12月30日)
発言者:石原裕次郎 (俳優 1934年12月28日~1987年7月17日)

『解説:戦後を代表するスターが生涯大切にした言葉で、いまも石原軍団の中に引き継がれているという。石原裕次郎ほどの人気者だ、天狗になることもあっただろう。そんな彼のポリシーが、意外にも「恩」ということだ。たった、この三つの誓いを忘れさえしなければ、人は日々の暮らしを謙虚に正しく生きていける。映画「黒部の太陽」や「富士山頂」に見られる好青年こそ裕次郎なのかもしれない。』


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◎関連書籍、楽曲、映画(ドラマ)などなど・・・


ご近所ネット 全国縦断「石原裕次郎の軌跡」展

『爽やかな笑顔と憎めない愛嬌、どこか漂う品の良さを持ち合わせた大スター・石原裕次郎氏は2017年には没後30年を迎えました。本展は裕次郎記念館に所蔵されていた作品を中心に、全国を縦断する初の展覧会。映画で使用されたドラムや小道具、テレビドラマで着用された衣装、100着を超えるこだわりのスーツや靴などを一堂に展観します。■名古屋栄三越 7階 催物会場 ■お問合せ: 東海テレビ放送 事業局:052-954-1107(平日10:00~18:00)■時間:10:00~19:30 (最終日は18:00まで)■料金:中学生以上1,200円 小学生600円 前売りあり』


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石原裕次郎展ダイジェスト



中日スポーツ 舘ひろし「大らかな人だった」 名古屋で「石原裕次郎」展開幕

『昭和の大スター、石原裕次郎さんをしのぶ「石原裕次郎の軌跡」展(中日新聞社共催)が22日、名古屋三越栄店で始まった。オープニングイベントには名古屋市出身の俳優舘ひろし(68)が来場。本紙のインタビューに応じ、裕次郎さんへの思いを語った。/8月の東京に続く巡回展の第2弾だが、裕次郎さんが交際中だったまき子夫人にあてたラブレターが新たに展示された。速達の文面にはこうある。「夕べは楽しみにしていたのに少々がっかりしました。お仕事とあっては仕方ありません」デートをすっぽかされたのだろう、若きスターの素顔が目に浮かぶ。展示するよう指示したのが舘だった。「手紙は達筆で驚かされますね。東京展の後、もっとにおいのするものをとリクエストしたんです。食器などもこれで飯を食ったんだとか感じていただければ」/裕次郎さんへの思いが行動に駆り立てた。スペースの関係でベンツは展示できなかったが、その代わりに私物で温かみを伝えたかった。

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「本当におおらかな人だったんです。足元にも及ばない人です」1983年に石原プロ入りした舘。「西部警察」の撮影初日、石原裕次郎、渡哲也と書かれたイスに自分のものを並べたのだそうだ。怖いもの知らずの33歳だった。「そうしたら『舘くん、10年早いな』と言われましてね。ぼくは若かったから、そういう時代じゃないです、と答えたんです。そうしたら『そういう時代じゃないのか』と笑いながら行っちゃいましてね」/若気の至りを許せる器量の持ち主だった。そんな裕次郎さんの背中を渡が追い、その背中を舘が追った。「ぼくにとってはあくまで渡がいて、その先に裕次郎さんというスタンスです。大きすぎてあえて見ないようにしていたというのもありますね」/だが裕次郎さんが亡くなる前年の1986年に2人の距離がぐんと近くなったという。渡の指令でハワイに滞在する裕次郎さんの運転手を2週間務めたのがきっかけだった。舘はここでも裕次郎さんではなく、渡への思いを口にしたそうだ。「バーでそんな話をしました。その時は何の反応もなかったんですが、スタッフに呼ばれて席を外したんですよ。あとからまき子さんに『あの時、いなくなってさびしがってたわよ』と言われましてね。うれしかったですよ」不器用で武骨な男たちの世界がここにある。展示は1月21日まで。元日は休み。入場料は中学生以上1200円、小学生600円。(増田護)』


石原裕次郎思い出さがし



☆本日の、『日めくり漱石』は・・・

サライ 「夏目漱石」の記事一覧


“愛は愛せらるる資格ありとの自信に基づいて起こる(『虞美人草』より)”


明治28年(1895)12月28日、28歳の漱石】松山から帰った夏目漱石、鏡子さんとお見合い


今から121年前の今日、すなわち明治28年(1895)12月28日、28歳の漱石は東京・虎の門にある貴族院書記官長の官舎を訪れていた。西洋館と日本館の両方があって、当時としては先進的に電燈と電話もついたその官舎には、主の中根重一とその夫人、長女の鏡子を筆頭とする6人の兄弟姉妹、そして書生3人と家政婦3人、さらにお抱えの俥夫までが住んでいた。


この頃、松山で中学校教師をつとめている漱石は、冬休みを利用して帰省していた。この館に足を運んだのは、中根鏡子と見合いをするためであった。付き添いもなしに、ひとりでひょっこりと足を運んだ漱石は、洋館2階の20畳敷きの、ストーブのある部屋に通された。普段は中根重一が書斎として使っているその部屋で、漱石は初めて鏡子と対面したのだった。


鏡子は漱石より10歳年下の18歳。初めての見合いで、本人としては恥じらいから俯(うつむ)き加減に漱石の顔をちらりちらりと見ている心地。鏡子は漱石のお見合い写真を見たときから、いままで見た他の人のお見合い写真と比較しても、上品でゆったりしていて、いかにも穏やかなしっかりした顔立ちで、好もしく感じていた。お見合いには鏡子の両親が同席し、鏡子の妹の時子が給仕役を買って出た。この時、女たちの視線は、自然と漱石の鼻の頭にいく。そこにアバタがあるとかないとかいう話が、仲人を通して伝わってきていたためだった。


このお見合いで、漱石も鏡子もお互いに好印象を深めた。漱石は、歯並びが悪いくせにそれを強いて隠そうともせず平気で笑っている鏡子の気取りのない姿が、気に入った。鏡子の目には、鼻のアバタとともに、漱石が引物の大きな鯛の塩焼きの横腹に、ひと箸だけぽっくりと穴を空けた光景が、不思議とあざやかに焼きついていた。


漱石を玄関から送り出すと、おきゃんな時子が鏡子に言った。「ねえ、ちょいと、お姉さん、夏目さんの鼻のあたま、横から見ても縦から見てもでこぼこしてるのね。あれ、確かにアバタじゃない」「そう、私もそう思ったわ」/鏡子が相槌を打ち、母親もほっと解放された気分で同調する。そこへ、中根重一が一家の主らしく叱責を与える。「そんなこというもんじゃない」


一方の漱石は、残った鯛を折り詰めにして実家に持ち帰った。その蓋を空けた兄の直矩が、漱石に問う。

「これはどうしたんだ?」「ひと口食べたんだけど、あんまり大きいから止めにしたんだ」「バカ。引物に箸をつけるやつがあるもんか。嫁さんに嫌われるぞ」/漱石、鏡子ともに、身内から叱られるお見合いとなった。


年明けの3日には、漱石は中根家の新年会に招かれ、皆で歌留多とりや福引をした。漱石は歌留多とりが下手で周囲を喜ばせたが、とりわけ重一はご機嫌で、漱石が帰った後、「今どきの若い者は遊ぶことばかり上手でなんにも役に立たないが、ああいうふうに不器用なほうが学者としては望ましい」と褒めちぎった。ふたりの結婚は、この半年後である。


細かすぎて伝わらない関連動画など

省略


ジョニーAのつぶやき:もはや、漱石先生=長谷川博巳、鏡子さん=尾野真千子、にしか脳内変換せん。