ブログ移行期間
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年度・団体【1991年・UWF】 |
カテゴリー【旗揚げ】 |
見出し:『UWFインターが旗揚げ。翌日にはリングスも』 |
→ 『解説:UWFから分裂した三派のうち、新UWF藤原組(旗揚げ戦後、プロフェッショナルレスリング藤原組に改称)が3・4後楽園で先陣を切り、Uインターは5・10後楽園、翌日にリングスも横浜アリーナで旗揚げ戦を開催する。/中でもUインターは、UWF時代にはなかったタッグマッチを「ダブルバウト」として行い、話題を呼ぶ。従来のタッグ戦にあるカットプレーは禁じられ、シングル同様ダウン、エスケープを喫した回数によるロストポイント制(スープレックスポイントも加わる)が採用された。』
◎関連書籍、ニュース記事、試合動画、など。
☆本日の、『漱石と明治人のことば』は・・・
【今日のことば】「才不才に惑うなどは二次的である。才なくとも才なきままに救われる道が確約されているのである。この世の多くの優れた作品が、一文不知の名もなき工人たちによって作られている事実を、どうすることも出来ぬ」――柳宗悦 |
【解説】
民芸運動の創始者である柳宗悦が、著書『民藝四十年』の中で語ったことばである。「民芸」とは民衆的工芸を縮めてできたことば。名もない職人がつくり出す日常の実用的な生活道具の中にこそ真の美が宿るのだ、という考え方であった。
才能あふれる芸術家は、ほんのひと握りしかいない。しかし、そうでなくとも、誠実に職人的な仕事に取り組むことで、美しい作品を生み出すことはできる。柳はそう説いているのである。逆にいえば、己の才能不足を言い訳にせず、もっと地道に努力して仕事に向き合え、という叱咤激励ともとれる。
柳宗悦は明治22年(1889)東京生まれ。学習院高等科時代に、志賀直哉、武者小路実篤らが主導する『白樺』の創刊に最年少で加わり、アートディレクターのような役割を果たした。その後、東洋的価値を高く評価するバーナード・リーチや、朝鮮の日用雑器の美との出会いを経て、日本にもすぐれた民芸の伝統があることを見いだした。当時の日本人の多くが、ともすると、欧米に対して憧憬とともに強いコンプレックスを抱き、その反動としてアジア蔑視の感情にとらわれる中、柳にはそれがなかった。沖縄やアイヌの文化の独自性も、逸早く評価した。
当時の新聞にまで見られた欧米コンプレックスとアジア蔑視の傾向については、夏目漱石もある日の日記の中で次のように指摘している。「曇。韓国観光団百余名来る。諸新聞の記事皆軽侮の色あり。自分等が外国人に軽侮せらるる事は棚へ上げると見えたり。(略)もし西洋外国人の観光団百余名に対して同一の筆致を舞わし得る新聞記者あらば感心也」(明治42年4月26日)
細かすぎて伝わらない関連動画など
(「柳宗悦」「民藝四十年」で動画検索してみました!!)