ブログ移行期間 /横山たかし師匠死去

日刊スポーツ 横山たかしさん死去、相方横山ひろし「ありがとう」

『金ピカ衣装で「おぼっちゃま」キャラを貫き、赤いハンカチをかみ「すまんのぉ~」。ほら吹き漫才の第一人者、漫才師横山たかし(本名・山高孝=やまたか・たかし)さんが1日午前3時51分、多臓器不全のため、大阪市内の病院で亡くなっていたことが2日、分かった。70歳だった。昭和の上方演芸界を代表した漫才師、故横山やすしさんの弟子。所属事務所によると、今年4月ごろに受けた検査の結果が芳しくなく、そのまま入院。体調が戻ることなく、亡くなったという。親族にみとられて、息を引き取った。通夜は1日に、葬儀はこの日午前、たかしさん本人の強い意向で、すでに密葬として終えられた。事務所は「お別れ会を後日、営み集うべく検討している」とコメントし、場所は大阪市内で予定している。

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たかしさんは昨年1月、腸腰筋膿瘍(ちょうようきんのうよう)の手術を受け、療養した後に、同5月の興行で車いすながら、舞台復帰していた。復帰後も、足や腰のリハビリを継続。親しい関係者によると、その後、再び腰の痛みなどを訴え、治療を続けたが、再起はならなかった。最後の舞台は、昨年12月24日、大阪・阿倍野でのイベント出演だった。たかしさんは48年10月6日、愛媛県生まれ。同じ愛媛県出身の相方横山ひろし(72)と68年にコンビを結成した。故やすしさんに師事し、駆け出し時代を「数えきれんぐらい殴られた」と振り返ったことも。当初は、たかしさんが女性を演じた「おかまどつき漫才」で個性を確立したが、後に路線を変更。たかしさんが「大金持ちのおぼっちゃま」「藤圭子が愛人や」などと、荒唐無稽なホラを吹くネタが受け、独特の漫才スタイルを築き上げた。94年には、上方漫才の頂点「上方漫才大賞」を受賞するなど、しゃべくり芸を極め、松竹芸能所属のベテランコンビとして、舞台を中心に活躍してきた。私生活では、夫人に逃げられたとネタにするなどして笑わせ、熱烈な阪神ファンとしても知られ、毎試合、テレビなどで観戦するのが「生きがい」とも話していた。

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14年3月に、たかしさんは、ヘルニアをともなう腰部脊柱管狭窄(きょうさく)症を発症し、約1年に及び活動を休止。リハビリを経ても、下半身の自由がきかず、後輩芸人からのアドバイスを受け、金ピカ衣装にちなみ、金色で統一した車いすにのり、漫才を再開していた。復帰の舞台では、車いすについて「安倍総理がおぼっちゃまが苦しんどるから」手配してくれたと言い、「純金48億円の車いすや」。腰を痛めた原因は「38億円の純金衣装が重すぎた」などと、そのほら吹きぶりはさらにパワーアップ。ブランクを感じさせず爆笑を奪っていた。』


同上 横山ひろし「最高の相方」

『多臓器不全のため1日に亡くなったほら吹き漫才の第一人者、漫才師の横山たかし(本名・山高孝=やまたか・たかし)さんの訃報から一夜明けた3日、相方、横山ひろし(72)が大阪・DAIHATSU心斎橋角座で取材に応じた。「純金車いす」とともに舞台に立ったひろしは「ここにいると思います」。相方の面影を思い浮かべながら「彼は日本一の漫才師。最高の相方だった。ありがとう。長いこと2人で夢をみさせてもらった」と涙ながらに語った。2日に密葬で行われた葬儀では棺に金ピカの衣装を入れたという。「すまんのぉ~」のトレードマークだった赤いハンカチは当初、胸に置かれていたが、口を少し開けてくわえさせた。「あっち(天国)へ行って、だれか分からんかったらあかんから」。たかしの弟子からは「漫才を続けて」とのメッセージを受け取り、形見として金ピカの衣装をもらった。「ほら吹き漫才はもっと年をとってからのほうがおもしろくなると思っていた。2人がつえをつきながらやり、シルバー世代のアイドルになりたかった」

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最後の会話は5月31日。病室にお見舞いに行き、You Tubeで2人の漫才を見せた。「さあ、舞台やで!」と話すと、たかしさんは「ハイ、ハイ、ハイ」。「いままでで一番、大きな声だった」。別れ際、相方は「眠たいんよ」とつぶやいた。「疲れてるからな。ゆっくりな」と病室を出たという。後日、お別れ会を大阪市内で開く予定。「相方のいい意味での悪口を思い切り話したい」。相方からの「漫才を続けて」には「いまはまだ何も…。白紙の状態です」。ひろしは舞台の「純金の車いす」を見つめていた。』


●ほら吹き漫才よ!永遠に!


※最後に見た舞台でもたかし師匠は車椅子に乗って「すまんのぉ~」

「笑えよぉ~~~う」を連発してたっけ。あれは苦笑するしかなかった

ですわ~、横山師匠ぉお~~~~~w


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☆「プロレス今日は何の日」と「漱石と明治人のことば」をお届け~♪

(詳細は、1月1日の日記を参照のこと!)


☆さ~~て、本日6月3日(月)の、「プロレス記念日」は~?


年度・団体【1966年・東プロ】
カテゴリー【旗揚げ】
見出し:『豊登、猪木が東京プロレス設立』

『解説:日プロへの凱旋帰国前にハワイへ寄った猪木を豊登が説得し、新団体へ誘う「太平洋上の猪木略奪事件」を経て、この日東京プロレスの団体名が発表される。猪木は23歳で社長に。』


◎関連書籍、ニュース記事、試合動画、など。


●プロレスを10倍楽しく見る方法・今でも豊登を愛していま〜す



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●猪木と豊登の控え室



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豊登が西武の山川みたいだ・・・


1970年生まれ 男のロマンBLOG

→『1963(昭和39)年12月の力道山の死後の日本プロレスは、豊登芳の里吉村道明遠藤幸吉の4幹部合議、俗に言うトロイカ体制でスタート。新社長となったのは豊登でした。1965(昭和40)年、馬場が大阪府立体育会館でディック ザ ブルーザーを破り復活したインターナショナル選手権を獲得、表向きは力道山不在を感じさせない盛況が続きます。しかし、1966(昭和41)年1月5日、渋谷のリキ スポーツパレス内のリキ レストランで、豊登の社長辞任と長期欠場が発表されます。表向きは「持病の尿管結石の悪化のため」とされますが、実際は豊登の不透明な公金流用による事実上の解任、追放でした。

豊登は会社の資金を横領、競馬、競輪などのギャンブルに流用し、その負債額は(当時の額で)3千万とも4千万円とも言われていました。豊登はギャンブル狂で競馬、競輪、競艇などあらゆるものに手を出し、藤波に競輪選手転向を指示したり、大飯食らいで浪費癖など奇行も数知れなかったそうですが、性格は温厚で後輩に対して面倒見もよく、多くの後輩レスラーが彼を慕っていたといいます。(中略)

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猪木らの帰国予定日に、豊登がハワイ入りします。空港で待ち構えていた山田記者をスルーした豊登は、タクシーでパコダ ホテルに向かい、猪木に電話を入れます。そして豊登と猪木はパコダ ホテルで密会。ここでどのような会話がなされたか、は猪木も豊登も明かしていませんが、豊登は「いまの日本プロレスは馬場を中心に廻っていて、猪木が帰国しても居場所はなく、噛ませ犬にされるだけだ」と説き、「自分の新団体に来ればエースはもちろん社長にしてやる、どうしてもお前が必要なんだ」と猪木を説得した、といわれています。これまでのいきさつと、ハワイで感じた馬場らのよそよそしい態度(一方的に新団体行きを怪しまれていたので無理もありませんが)、そしてこれまでもっとも世話になり、力道山の付け人時代、プロレスを辞めようと思った時に親身になって引き留めてくれた先輩、豊登への恩義もあり、猪木は日プロ離脱を決意しました。

猪木はホテルをチェックアウト、空港に向かおうとしていた吉村に電話で「急用ができたので、一緒に帰国できなくなった」とだけ告げ、そのままハワイに留まります。そして電話取材した山田記者に対し、猪木は電撃的なフリー宣言。3月23日付けの東京スポーツ紙に掲載されました。これを当時のマスコミは「太平洋上猪木略奪事件」と呼び、一大事としてセンセーショナルに報じました。』

※そう言われると、「お金にだらしなさそうな顔」ですね、豊登さん・・・。


☆本日の、『漱石と明治人のことば』は・・・

漱石と明治人のことば目次


【今日のことば】「もし霊界なるものがあるならば、おそかれ早かれ、この地のどこかに永遠にねむる。あまり広い所でないからきっと相まみえ、久闊を叙し、握手して生前のこと、在世中の共通の友人、知人のことを語り合うことがあるであろうことを思えば、死もまたたのし」――大宅昌


【解説】

先日この連載で、評論家・大宅壮一大宅文庫のことを紹介した。大宅昌(おおや・まさ)はその大宅壮一の妻。上に掲げたのは、大宅壮一が没して1年が経とうとする頃に出版された昌夫人の著書『大きな駄々っ子 大宅壮一と共に歩んだ四十年』の中に綴られたことばである。


昌夫人(旧姓・奥田)は明治39年(1906)富山県の生まれ。地元の女子師範学校を卒業して7年間教師をつとめたあと、24歳で大宅壮一と結婚した。


雑誌『婦人公論』の主催する講演で北陸地方をまわり、富山市の公会堂にやってきた大宅壮一が、聴衆の中にいた彼女を見そめ、押しに押しまくって結婚に至ったという。大宅壮一は夫人より6つ年上の30歳だった。いわゆる一目惚れという感が強いが、すぐには首を縦にふらない夫人あての手紙に、大宅壮一はこんなふうに綴っている。


「僕があなたの容貌のみに惹かれたように考えるかも知れませんが、この点はあなた自身も誤解なさらないようにして下さい。容貌の点でなら、あなたより或は美しい方があったかも知れません。しかし、僕はあなたの容貌を通じて、あなたの性格、人間としてのあなたを直観したのです」


容姿から内面を見抜いたとする辺りが、大宅壮一ならではの観察眼なのだろう。


夫妻の間には4人の子(1男3女)があったが、長男の歩が33歳で早世した。普段から無宗教を標榜し、墓所不要論者でもある夫に代わり、昌夫人が鎌倉の瑞泉寺墓所を求めてあった。まず自分たち夫婦が入り、やがては子どもたちもと思ってひそかに準備していたものが、先に長男の永眠する菩提所となったのである。


夫人の案内で瑞泉寺墓所を訪れた大宅壮一は、すっかり気に入ってしまい、墓所不要論はどこへやら。「ここは居ながらに富士山が見え、松籟がきける、君も買えよ」と、半ば自慢でもするように友人や仲間にすすめ、幾人かはその誘いを受け入れたという。


最近は、先祖の墓をどうするか。自分の墓をどうするか、時代環境や意識が変遷する中で、墓をめぐる切実な問題が浮上している。なかなか、昌夫人の如く「死もまたたのし」という訳には行かぬようだ。人間とは、死後のことまで、なんと厄介なものか。


鎌倉の寺々には、他にも、多くの文人たちが眠っている。夏目漱石にゆかり深い円覚寺もある。憂き世の悩みはいっとき忘れ、鎌倉の散策がてら、彼らに思いを馳せてみるのも悪くない。


細かすぎて伝わらない関連動画など

(「大宅昌 」で動画検索してみました!!)


Amazon 大きな駄々っ子―夫・大宅壮一との40年 (文春文庫) 大宅昌(著)

→『■登録情報:/文庫 300ページ /出版社 文藝春秋 /言語 日本語 /ISBN-10: 4167339013 ISBN-13: 978-4167339012 /発売日 1984/04 /梱包サイズ 15.2 x 11 x 1.4 cm /おすすめ度 5つ星のうち 2.6 /■カスタマーレビュー:sakutarou 5つ星のうち2.0 「興味深い部分と、退屈な部分とが入り混じっています。」2019年5月23日・・・昭和を代表するジャーナリスト大宅壮一の夫人の思い出録とも言えるものです。若い頃に教師をしていただけあり、その時代としてはそれなりに教育を受けた方らしく、夫との出会いから様々な体験をしっかりと書けています。ただ、最初に入院から死に到るまでの記述を入れたのは、構成上やむを得ないとしても、少し退屈です。これは、こういった手記によくあることで、やむを得ない事ですが、配偶者の死を描くことは、どうしても情緒に流される傾向があるようです。次の若き日の出会いと「スカウト結婚」とも思えるプロポーズと手紙の公開は、その時代性を背景に実に愉快です。それに続く若き新婚生活も読ませます。

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  特にこの書物で読ませるのは「逸話集・好きだったこと嫌いだったこと」でしょう。これは妻であった筆者にしか書けない内からの大宅壮一氏を描いたものと言えます。反面、母としては仕方がないことでしょうが、若くした逝去された御長男に関しての記述は、やはり少々情が込み過ぎている感があります。又、娘さん達の結婚の経過にしても、あまりに平凡な感情の交錯しか感じられません。父親としての大宅氏を描きたかったのでしょうが、やはり退屈です。/故山口瞳氏の夫人の書かれた物と少々似ている感を持ちました。やはり、家族が故人のことを書くと、一部の例外を除いては、あまり読ませるものは出てこないようです。』


ジョニーAのつぶやき:東京プロレスは旗揚げ後3か月の命だったのか・・・。道理で情報が少ないわけだ。