【ゲド戦記原作者の声】

ゲド戦記の原作者、ル=グウィンの声をまとめているサイトがあったので、引用し、感想を少々。
個人的には、まあ、劇場映画としては物足りなかったが、丁寧に物語を紡いで行こうとする姿勢が伝わって来たし(TVの名作劇場と思って観れば十分面白かった、、ってそれではアカンのか~)、父・駿へのリスペクトを感じ取れるシーンも多々観られたので、若干、好意的に捉えていた。世間のあまりの酷評に、ついつい判官びいきで吾朗監督へエールを送りたくなったのかも知れない・・。

それゆえに、先日のイベント「サイキック・ミーティング」で、ABC朝日放送編成部の板井昭浩氏が、「ゲド戦記」を一刀両断に斬り捨てていた(「美術館の管理だけしとったら良かったんや!」などと言ってた・・)のがショックだった。そんなに言うてやらんでもええやん!!世間的には、もはや“吾朗は終わってる”という風潮に思える。みんな、もっと温かい目で見てあげようよ。○MAPのゴロウちゃんの時は、みんな広い心で許してあげてたじゃあないの!(え?このゴロウつながりは、無理あるか・・・w)

いったん悪評にまみれると、世間はどこまでも冷ややかだ。感動的なあのテーマ曲「テルーの唄」までも、歌詞が「心オナニーに喩えよう」に聴こえるということで、さんざんネタにされている始末。作曲者の谷山浩子さんも心が痛かろう。ますます老化が進んだらどうすんねん!!もう!まったく。。。

えー、感想はその辺でいったん置いといて、問題の原作者の声とやらを読んで頂こう。↓
本文 英語が読める方はコチラをどぞ。
移譲記章 原作者がお怒りの模様

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一部、引用させてもらう。。
●事の顛末
20年かそこら前、宮崎駿氏が私に手紙を書いてきて、『ゲド戦記』(当時はその中から3つの巻を抜き出して、という話でした)をアニメ映画化したいという意向を表明されました。
私はそのとき彼の仕事を知りませんでした。私はディズニー映画タイプのアニメしか知らず、しかも私はそれが嫌いでした。

6年か7年前、友人のVonda N. McIntyreから『となりのトトロ』の話を聞かされ、一緒にそれを観る機会がありました。私はそのときすぐさま、そして永遠に宮崎ファンとなったのです。宮崎氏のことを、黒沢やフェリーニとまったく同等の天才であると思いました。
(中略)
2005年の8月にスタジオ・ジブリ鈴木敏夫氏が宮崎駿氏とつれだって、私と私の息子(『ゲド戦記』の著作権管理を担当している)のもとを訪れました。私たちはわが家にて楽しいひとときを過ごしました。

そのときの説明では、宮崎駿氏は映画製作から身を引こうと考えている、そこで宮崎家とスタジオ・ジブリは、映画を1本もつくったことのない駿氏の息子・吾郎氏に『ゲド戦記』を製作させたい、とのことでした。私たちはとても失望し、不安にも駆られました。
けれども私たちとしては、このプロジェクトがつねに駿氏の管理下で行われるという印象を受け、またそのような確信を抱きました。そしてそのような理解をもって、映画化に関して合意したのです。そのときまでに、映画化の作業はすでにスタートしていました。

子どもと竜を描いたポスターが、また駿氏の手になるHort Townのスケッチおよびスタジオとしての完成版が、私たちへ贈り物として届けられました。映画化の作業はその後、急ピッチで進められました。
私たちはまもなく駿氏がこのフィルムに関し、何の役割も果たしていないことに気づきます。駿氏は私のもとにとても感動的な手紙を書いてきましたし、その息子、吾郎氏からも手紙をいただきました。
私はそれらにできるかぎり返信するようにしました。残念なことに、このフィルムの出来映えをめぐって、太平洋の両岸で怒りと失望の声が上がっています。駿氏は結局のところ引退などせず、現在他の映画を制作中とのことです。それを聞いて私はさらに失望しました。
この件についてはもうお終いにしたい気分です。
※根本的に、宮崎駿を信用してアニメ化を了承したのに、シロウトである息子に監督をやらせたりして、しかも駿は次回作は撮るらしい、というのだから、「話が違う!」という心境になっても無理はないのかなー?という気はしないでもない。

●映画を観た第一印象
大部分きれいにしあがっているのですが、この急仕立てのアニメーションにおいては、かなり省略されている箇所があります。『となりのトトロ』のような繊細な筆致も、『千と千尋の神隠し』のような豪華絢爛もそこにはありません。イメージは効果的とはいえ、多くの箇所で因習的なものにとどまっています。

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大半の箇所はエキサイティングなのですが、そのエキサイティングさは(私が『ゲド戦記』の精神に完全にそぐわないと感じるほどに)暴力の描写に頼ったものです。

私は、大半の箇所が整合性を欠いているように思いました。これは私が、この『ゲド』とはまったく異なった物語の中に『ゲド』の物語をなんとか見いだし、たどろうと努めていたからかもしれません。
登場人物は原作と、名前のみ同じで、気質も経歴も背負う運命も全然別のものになってしまっています。
(中略)
それから私はこの映画の「メッセージ」がちょっと荒っぽいと感じました。原作のフレーズがほとんどそのままの状態でよく引用されているのですが、生と死に関するフレーズにしても、balanceに関するフレーズにしても、あるいはその他もろもろ、原作とはちがって、登場人物の性格や行為から発せられたものではないのです。どんなにいいメッセージであろうと、それらは物語や登場人物の性格の中に織り込まれたものではなく、いわば「血肉になっていない」のです。ですからそれらはお説教じみたものになってしまっています。
いや、確かに『ゲド』の最初の3巻はいくつかの警句を含んでいるのですが、私はこれほどあからさまに目立たせようとして、それらを配したわけではありません。

映画においては、原作にあった倫理的な寓意もあやふやなものになってしまっています。たとえば、アレンが父親を殺害したところ。動機がわからず、気まぐれな行為になってしまっています。「影」ないしもう一つの自分がそれをなさしめたのだ、という説明が後になって入るのですが、説得力をもったものではありません。なぜ少年は2つに分裂するのでしょう? これでは全然わかりません。
このテーマは実は『影との戦い』に由来したものです。その作品では、ゲドがいかに、またなぜ「影」をもつにいたったか、わかるようになっていますし、最後のところでは「影」の正体もわかるようになっています。私たちの中に存在する「影」は魔法の剣を振り回して取り除けるようなものではないのです。にもかかわらず映画では、「悪」の存在は魔法使いのKumo/Cobというならず者として具象化され、彼を殺せばそれですべて片がつくということになってしまっています。

現代のファンタジー(文学/政治を問わず)は、いわゆる善と悪との戦いを人々の殺害によって解決するのが通例です。『ゲド戦記』はそのような戦争をコンセプトとしたものではありませんし、単純化された問題への単純な解決を提示するものではないのです。
※大体において、ゲド戦記ファンの読者の方々が、あちこちで述べている不満と同じ主張だなぁ、という感じ。そもそも、そんな奥の深い長編小説を、アニメ化すること自体無理があったのでは??という気もしないではないが・・そこは宮崎ジブリの手腕を持ってすれば可能だ!!と信じたからこその英断だったんだろうしなぁ。まさか美術館の館長あたりにホイホーイと撮られちゃうとは夢にも思ってなかっただろうてwそういう意味では、ご愁傷様、と言うしかないッスわ。ハァ~。

でも、ちょっとは褒めてまっせ。ちょっとだけ・・・
吾郎氏の映画では、(原作ではもっと美しいはずなのですが)翼をたたむ竜の優雅な姿をたいへん素晴らしいと思いました。彼がイメージした動物は非常にきめ細かく描かれています。なかでもhorse-llamaの表情豊かな耳は好きです。それからとてもよかったのは、大地を耕し、水を引き、動物たちを小屋に入れたりするシーン。あのシーンが提示する大地に根ざした静けさ――それこそ、この映画において絶え間ない対立と「アクション」に満ちた展開を賢明にも救っていたように感じました。少なくともそうした箇所の中に、私は『ゲド戦記』の姿を認めました。

●注記:私たちが観たのは吹き替え版ではなく、字幕スーパー版でした。スタジオ・ジブリは素晴らしい吹き替え技術をもっていますが、一度限りの日本語音声を聴けたのはうれしい体験でしたし、ゲド役の温かくも重々しい声は、とりわけ素晴らしいものでした。
テルーの美しい歌が、吹き替え版が上映される際にもそのまま聴けることを願っています。
※おお、菅原文太の声は好評で良かった良かったw テルーの唄も“美しい”と評価してくれているので、ジブリファンという訳ではない単なる谷山浩子ファンの僕としては、嬉しい原作者のコメントだったという印象かな、ウン。 吾朗ちゃん、負けるな!ジブリの“メンバー”から外されない様にネ!!


先週8/9(水)に出した、写真クイズのお答え、発表~~~~~~!!!!!!

なんか不気味な顔に見える縦長の写真!!しかし、右側を下にしてよくよく見てみるとぉ~~~~~、

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ハイ、可愛らしいワンコが体を丸めて眠っているところでしたっ!!お粗末さまでした~~~♪