【1964年のジャイアント馬場】ババさんがいた時代・・・

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Amazon.co.jp 1964年のジャイアント馬場 単行本(ソフトカバー)
■内容紹介:かつてアメリカに、イチローよりマツイより有名なアスリートがいた。その名はショーヘイ・ババ。巨人軍に入団するほどの高い身体能力を持っていた馬場は、プロレスの本場・アメリカでその才能を大きく開花させる。そして1964年2月、NWA、WWWFWWAの世界三大タイトルに連続挑戦という快挙を成し遂げる。巨体にコンプレックスを抱き続けた男が、自らの力でそれを乗り越える。マットの上で人生を戦い抜いた男の旋風ノンフィクション!
■登録情報:/単行本(ソフトカバー) 592ページ /出版社 双葉社 /言語 日本語 /発売日: 14/11/19 /商品パッケージの寸法 18.8 x 2 x 12.8 cm /おすすめ度 5つ星のうち 4.6
■カスタマーレビュー:《昭和プロレスファンなら必読の書!!》投稿者 世界の王 投稿日 2014/11/29
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・・・著者は、A猪木を追いかけていたら、G馬場の偉大さを知ったのかも。基本的にはA猪木ファンなのだろう。それは、この作品の中盤からの脱線から感じた。にしても映像が残っていない?1964を掘り下げた尽力には頭が下がるし、業界のタブーに触れ、G馬場帰国決断の真相解明をした勇気には恐れ入った。G馬場の金銭感覚の成り立ち、トップをなかなか譲らなかったプロレス独特の覇権争い。NWAの貨幣価値・・いろいろなことが浮き彫りになってますね。惜しむらくは、山田隆氏、マシオ駒氏、菊地氏、竹内氏、マクマホンシニア、バディロジャースらが存命であったならボリューム・質とも全然違っていただろう。/A猪木擁護の論客に桜井氏、流氏という強者が存命なだけにA猪木に寄りそう な箇所が見受けられたが、山本氏、淵氏、市瀬氏、小鹿氏、仲田氏らに支えられた感があります。とは言っても充分、昭和プロレスファンが楽しめる内容、カバーの出来も傑出しているし、是非一読の価値あり。/これを機に、なんとかG馬場、日本プロレス時代の映像が世に出ることが望まれる!!G馬場が輝いていたのは、やはり日本プロレス時代、テレ朝から出ないかなあ。最後に柳澤氏には、よくぞ書いてくれましたと頭を下げたい
※全日本女子プロレス新日本プロレスは観戦経験があるのだが、全日本プロレス
は、つまりジャイアント馬場さんの試合だけは、リアルに体感することのないまま、
お亡くなりになって、もう二度と観ること叶わなくなってしまったのだった。ああ
、未だに悔やまれる。馬場さんの大きさを生で味わっておきたかったーーー無念!

ジャイアント馬場激動の30年

※本書は、まさに裏事情を歯に衣着せぬ物言いで、次々と畳み掛けていく。
アメリカから呼び戻されるときの電話の一件や、マッチメイキングの苦悩
など、知らないことがあまりに多かったことに愕然とする。

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※ジャンピング16文、と呼んだほうがいいんじゃないの?的な中途半端
なドロップキックも晩年は増えていき、そのうち32文砲自体を、打たな
くなってしまう、その下降線に入る時期を、幼少期にTVで目撃していた
ワケだ、我々の世代はーーー。

戦後史の激動 『1964年のジャイアント馬場』17回忌のジャイアント馬場を思い出す
『『1964年のジャイアント馬場』(柳澤健著、双葉社)。以前からご紹介しようと思っていた書籍です。やはりジャイアント馬場17回忌の今日がそれにはピッタリかと思います。2メートルを超す長身で巨人軍に入団した高い身体能力を持った馬場正平日本プロレス入門後は、プロレスの本場・アメリカで世界三大タイトル連続挑戦するなど、日本人でたったひとりの「世界標準の男」だったことを証明するノンフィクションです。/同書は、『週刊大衆』に連載されていた同名の読み物を加筆修正してまとめたものです。1964年というのは、おそらくはジャイアント馬場が身体的にも全盛であった時期です。(中略)悪いところには目をつぶるのではなく、いいところも悪いところも、いい時も悪い時も隠さずに書いているのです。そして亡くなる直前の件は、もう17回忌だというのに、読んでいて思わず目頭が熱くなる箇所もあります。おそらくジャイアント馬場ファンなら読まれているとは思いますが、晩年しか知らず、「ジャイアント馬場の何がすごかったの?」という方々にも読んでいただきたい力作です』
※もう17回忌なんですねーー。感慨深いッスわ。亡くなる直前の記述、ワチシも
思わず涙しそうになりました。プロレスファン必読!!だと思います~~ぅ。

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ジャイアント馬場 32文人間ロケット砲24連発!!

※何だろう、あの頃の空気感というか、風、のようなものが蘇ってくるぅー

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MERUMO NEWS 藤波辰爾が初めて語った!「わが憧れのジャイアント馬場」
『「今でも忘れられないシーンがあります。日本プロレス時代の地方巡業中、葉巻をくわえた馬場さんが、列車から駅のホームに降りたったんです。黒山の人だかりとなったファンを前に馬場さんは立ちどまり、プワ~と煙を吐き出す。その姿がカッコよくてねえ……。やっぱり馬場さんは、スターとして自分をどうファンに見せたらいいのかという"自分作り"が、すごくうまかった。あの時代、プロレス=ジャイアント馬場力道山先生が亡くなられた後、あの大きな体を含めて、馬場さんはプロレスというスポーツをすべて象徴していましたし、ご自身にもその自覚があったと思います。本場アメリカ仕込みのファイトスタイルがまたカッコよくてね。32文砲(ドロップキック)を初めて見たときなんて、目が釘づけでした。たとえて言うと、初めて羽田空港を離陸したジャンボジェット機を見た時のような……そんな、規格外の衝撃がありましたよ」
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/「一度だけ、旅館の風呂場で馬場さんの背中を流させてもらったことがあるんです。当時、馬場さんと猪木さんはBI砲として組むことが多く、同じ頃に旅館に到着する。それで一緒に風呂に入って、僕が猪木さん、佐藤さんが馬場さんの背中を流すんです。あるとき、馬場さんの背中を流していた佐藤さんが茶目っ気を出してね。代わろうと言うから代わったら、もう背中が麻雀卓(笑)。とにかくデカくて、背伸びして背中を流したことはよく覚えています。途中で入れ替わったことを馬場さんはわかっていたのかなあ……。トップスターだった馬場さんと若手が一緒に練習をすることはなかったんですけど、ある夕方、代官山の日本プロレスの合宿所に、たまたま馬場さんが顔を出した。そのまま練習場のリングに上がると、僕に向かって"おい、ちょっと上がれ"。緊張と喜びで固まりましたね。それでヘッドロックをかけられたんですが、文字どおり一歩も動けない。あの"痛いうれしさ"は今でも忘れられませんよ(笑)」』

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新日本プロレスの分冊シリーズは好評を得ていたらしいー。馬場さんの、
アメリカ転戦中の試合なども映像を発掘して、分冊化したら、結構な部数
売り上げるんじゃないかと思う。世に、隠れ馬場さんファンはかなり埋没
しているはずだからwww

●馬場vsサンマルティノ - August 7, 1968
     NWA International Title Japan wrestling (27分)

※実況の「ジャイアンツ馬場」というのがいちいち気になるー
読売ジャイアンツの馬場、と聞こえてしまう~~w

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ジャイアンツ時代の冷遇のされ方は、今回しっかりはっきり知る事が
でき、はらわたの煮えくり返る思いがしたものである。ジャイアンツ、
今更だけど、嫌いになったわ、ウム。

まんだらけ グランドカオス 馬場vsバルタン星人!?『少年ブック』
『突如カリフォルニアに出現した怪獣たち、FBIは切り札のジャイアント馬場を投入。サイボーグとなった馬場はネロンガの首をねじ折り、一撃でバルタン星人をノックアウト。残るは怪鳥リトラ!さあいけ、われらの馬場!!』

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※すさまじいな、怪獣相手に戦える唯一の人間、というような扱いw

<おまけニュース>
TRORIO ジャイアント馬場さんの愛車が曙に譲られた!ファンから驚きの声
『第64代横綱でプロレスラーの曙に、ジャイアント馬場さんの愛車が譲り渡されたことが判明し、話題となっている。/ジャイアント馬場さんは1964年にライバルであり良き友人だった「人間発電所ブルーノ・サンマルチノが乗っていたキャデラックを同氏にプレゼントしてもらっている。これは日本で大きな身体を折り曲げて乗り込む馬場さんを見て不憫に思ったサンマルチノが船便でアメリカから贈ったもので、馬場さんはこれに感激し、終生キャデラックに乗り続けた。今回プレゼントされたのは死の直前に購入した1998年型で、ナンバーは16だ/元子相談役は曙に車を譲った理由について、生前馬場さんが望んでいた「大きい王者」であるからと話している。その巨大な身体で躍動する姿は、大型レスラー同士のぶつかり合いで沸かせた古き良きプロレス界を彷彿とさせる。今後の活躍に期待したい』

ほぼ日手帳」より、“日々の言葉”

■6月27日の言葉:高校時代のこと。電車の中で懐かしい友達に会って、大きな声で「お前、何ス部?」と聞きました。僕はテニス部でした(『今日の言いまつがい』より )


◎関連リンク
今日の言いまつがい

※「コーラス部」とか「ブラス(バンド)部」くらいしか思いつかんナw
因みにワチクシは、「テーブルテニス部」でやんした!


「今日の歴史出来事カレンダー」より、“今日も明日も歴史的一日”

安土桃山時代天正10年(1582年)6月27日:清洲会議が行われる

・・・織田信長の死後、尾張国清洲城において重臣たちが、その後を決めるための会議を開きました。会議は明智光秀を討った羽柴秀吉のペースで進み、このために柴田勝家と秀吉の対立が深まったとされますー

細かすぎて伝わらない関連動画や雑学、感想など

◎関連動画
・「清須会議」邦画ナンバーワン あの映画のせいで無理!?【 2013.11.10】【忙しい人のための 大泉洋のサンサンサンデー

大泉洋の顔が、羽柴秀吉にしか見えなくなってて困るんですけどーーーー。
もう『青天の霹靂』とか観れんじゃまいかぁ~~~~~っ!!ドウシテクレルゥーーー