西城秀樹さん追悼・・・

モデルプレス 西城秀樹さん死去 所属事務所がコメント<全文>
『公式サイトでは、西城さんの写真とともに「弊社所属 西城秀樹が、平成30年5月16日午後11時53分、急性心不全のため逝去いたしました(享年63)」と発表。「これまで温かい応援をしてくださったファンの皆様、お世話になりました共演者、スタッフ関係者の皆様に生前のご厚誼に深く感謝いたしますとともに、ここに謹んでお知らせ申し上げます」とした。なお、通夜・告別式の日程については追ってお知らせするとしている。/西城さんは、2003年と2011年に脳梗塞を発症し、右半身麻痺の後遺症を負いながらも歌手活動を継続。報道によると、先月25日に自宅で急性心不全で倒れて救急搬送され、横浜市内の病院に入院。そして今月16日のよる、意識を取り戻すことなく息を引き取ったという。(modelpress編集部)
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☆コメント全文・・・弊社所属 西城秀樹が、平成30年5月16日午後11時53分、急性心不全のため逝去いたしました(享年63)/これまで温かい応援をしてくださったファンの皆様、お世話になりました共演者、スタッフ関係者の皆様に生前のご厚誼に深く感謝いたしますとともに、ここに謹んでお知らせ申し上げます。尚、通夜・葬儀告別式の日程に関しましては追ってお知らせさせていただきます。平成30年5月17日 株式会社アースコーポレーション 【Not Sponsored 記事】』

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・現在活動休止中で、1980年に「秀樹の妹コンテスト」で優勝しデビューした歌手、河合奈保子(54)は現在暮らす豪州からコメントを寄せ、「あまりにもショックすぎて、言葉が出ません。秀樹さんに、ただただ、多くの感謝の気持ちをお伝えしたい想いでいっぱいです」と悲痛な思いを吐露した。

exciteニュース ハウス食品、西城秀樹さんに深く感謝=CMで「カレーが国民食に」
ハウス食品グループ本社は17日、同社の前身であるハウス食品工業がテレビCMに起用していた西城秀樹さんの死去についてコメントを発表した。「1973〜85年にご出演いただいた『バーモントカレー』のCMは大変好評で、そのおかげでカレーライスが国民食と言われるまで愛されるようになったと深く感謝しております」とし、哀悼の意を示している。CMは「ヒデキ、感激」の決めぜりふが人気となり、商品の売り上げに大きく貢献した』

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東スポWeb 西城秀樹さん追悼秘話 意識不明のベッドで呼びかけにポロリ最後の涙
『歌謡界「新御三家」の一人で、約140万枚のセールスを叩き出した1979年の「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」など数々のヒット曲で知られる歌手・西城秀樹(本名・木本龍雄=きもと・たつお)さんが16日、急性心不全のため横浜市内の病院で死去(享年63)したことが17日に分かり、日本中が悲しみに暮れた。脳梗塞を2度発症して後遺症が残る満身創痍の体を押してステージに上がった“最後の東京公演”、そして“植物状態”になった病室のベッドでこぼした“最後の涙”――。本紙だけが知る追悼秘話を一挙公開する。
郷ひろみ(62)、野口五郎(62)とともに「新御三家」として一世を風靡した秀樹さん。晩年は、病魔との凄絶な闘いの連続だった。妻・美紀さんと結婚した2年後の2003年。歌手としても脂が乗り切り、公私に充実していた48歳の秀樹さんは、ディナーショーを開催した韓国で1度目の脳梗塞を発症する。当時は衝撃を呼んだが、これまで報道されなかった舞台裏があった。事情通の証言。/「実は現地のゴルフ場で水道の水をがぶがぶ飲んだ後、程なくして“あぁ…具合が悪い…”とこぼすようになった」/発症後、言葉をうまく発声できない軽度の言語障害が残る事態になったが、体調を崩したきっかけは、意外にも現地の“生水”だったという。「もちろん生水だけでなく、心身ともに疲れがたまっていたことが前提にありますが…」(前同)その後、水にこだわりを持つようになったのは有名な話だ。
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  懸命なリハビリを重ね、復帰してステージに上がったものの、再び病に襲われる。2度目の脳梗塞は56歳だった11年。右半身まひの後遺症が残った。それでも生涯歌手を全うすべく、ステージにこだわり続けた。前出の事情通によると秀樹さんは、担当医から「コンサートはNG」とドクターストップをかけられ、周囲のスタッフからも止められていたが、本人は「マイクを取り上げられたら、どうかなりそう」と漏らしたという。「リハビリも兼ねてコンサートをやりたい」と悲壮な執念をもって訴えたため、担当医は「リハビリという意味合いであれば…」とゴーサインを出したという。/コンサートでは、共演者で親交が厚かった歌手の山本リンダ(67)、あべ静江(66)、今陽子(66)らにサポートされながらマイクを握り続けた。東京での最後の公演は昨年10月、中野区の中野サンプラザホールだった。「足元がよたよたの状態。ステージに設置されたテーブルに手をかけ、寄りかかって体を支えるようにして懸命に立っていた」(関係者)「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」などを“熱唱”。実際は口パクだったかもしれないが、そんなことはどうでもいい。満身創痍の身でありながら、命がけでステージに立ったことに秀樹さんの生きざま、そして歌手・西城秀樹としての価値がある。MCになると、トークしようにも「あぁ…」と声にならない。騒然とする会場。すぐさま方々から声援が飛んだ。「ヒデキ、頑張れ!」。ファンの激励に笑顔で応えたという。
同公演の楽屋では、赤いソファにどっかり腰を下ろしたまま動けない。もちろん会話は不可。本紙が入手した楽屋の写真では、ブルーのジャケットに水色のシャツ姿の秀樹さんの表情には、まったく覇気がないように見える。/最後のステージとなった栃木・足利市民会館で4月14日に開催された「同窓会コンサート」を経て、健康状態は良かったが、容体が急変したのは同月25日、家族でだんらん中だった。意識を失って倒れ、横浜市内の病院に緊急搬送された。入院後も、意識は戻らない。病室で見舞った知人は沈痛な面持ちで振り返る。「心臓は動かず“植物状態”だった。ただ、ふと『ヒデキ』と声をかけた時、突然涙をポロッと流して…。あり得ないけど、今思うと、あの瞬間だけは意思疎通ができたのかもしれない」/死去の一報が日本中を駆け巡った17日のうちに、東京・青山葬儀所で25日に通夜、26日に葬儀・告別式がそれぞれ営まれることが明らかになった。訃報が流れた日にすでに葬儀日程が確定していたのは珍しい。死期を悟った関係者が家族をおもんぱかり、水面下で“終活”を始めていたという。63歳の別れはあまりに早い。ヤングマンよ、永遠に――。』

◎中高生の多感な時期に、ラジオやTVの音楽番組がいつも傍にあった。
秀樹の楽曲は、全曲「ザ・ベストテン」の上位に食い込んだ。全てに
思い入れが強い。何曲か思い出の楽曲を貼るとしよう。最初はこれだった
かな~?

●ブーツをぬいで朝食を (5分)


西城秀樹 炎 1981

※これ、大好きだったぁ~~~~!「不二家歌謡ベストテン」(ABCラジオ)
とか蘇ってくるようだヨーーー。

西城秀樹 ブルースカイ ブルー


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※壮大な曲が多かったですねーーー。心が解放されていくような・・・。

●ドラマもちょびっと。「寺内貫太郎一家」のデュエットシーン♪
 しあわせの一番星~虹の架け橋


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※オンチの浅田美代子さんとデュエットして、音程を外さないように
気を付けることで、歌唱力がますますアップしたという(ウッソピョーン)。

朝日新聞digital 西城さん「寺内貫太郎」小林亜星と本気けんかで骨折
『秀樹さんの俳優としての代表作「寺内貫太郎一家」は1974年にTBS系列で放送された。東京・下町で3代続く「寺内石材店」の主人・寺内貫太郎(小林亜星)を中心に、秀樹さんが演じた長男周平をはじめとした家族や、近隣の人々との人情味あふれる日常をコメディータッチで描いたホームドラマ。脚本は直木賞作家向田邦子さん、プロデューサーは久世光彦さんで、平均視聴率は31・3%を記録した。
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  秀樹さんは大学浪人中で、短気な父貫太郎と何かにつけて衝突する長男を体当たりで演じた。2人のけんかシーンでは本当に取っ組み合いを行い、当時110キロあった小林に秀樹さんが突き飛ばされ、左腕を骨折して入院したこともあった。直後には秀樹ファンから小林に抗議の手紙が殺到した。共演者も個性派ぞろいで、妻に加藤治子さん、長女に梶芽衣子、貫太郎の実母きんは樹木希林(当時は悠木千帆)が演じ、大ファンの沢田研二のポスターに向かい「ジュリー!」と叫ぶのがお約束だった。お手伝いに浅田美代子、職人に伴淳三郎さん、2月に亡くなった左とん平さん、隣の花屋に由利徹さん、貫太郎の異母弟に谷啓さんが出演。その後もパート2、スペシャルドラマが放送された。』

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※おばあちゃんよりも、孫のほうが先に逝ってしまいましたねー゜(´⊃ω⊂`)゜

●ED2 - 走れ正直者

ちびまる子ちゃんエンディング。これ、カラオケで歌うと気持ちいいノダ♬

ターンAターンガンダム

※心なしか、冒頭部分がお経のように聴こえるよ~~ぅ(涙)

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※「寺内貫太郎一家」からの「ターンAガンダム」・・・。鳥肌が立つ。

togetter 富野監督が西城秀樹さんに「もう少し人の事を信じなさいよ」って言われたエピソードがもう完全にガンダム
西城秀樹富野由悠季監督の邂逅。∀ガンダム 「ターンエーターン」/西城「正直すぎんですよ。善きことをいおうとしすぎて、相手かまわずぶつかっちゃうんでしょ?もう少し、人を信じなさいよ」/富野「初対面で、これほど正確に僕の欠点と目指してるところを言葉にしてくれた人に出会ったことはない」』

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※冨野さんに対して「言葉遣いが下手」って面と向かって言えるのがスゲエ!

西城秀樹 還暦密着・同窓会コンサート舞台裏など (2015年4月)

※パフォーマンスは現役バリバリじゃーーーーん!さすが。




☆書籍「元気が出る言葉」&サライ「日めくり漱石」をお届け♪

(詳細は、1月2日の日記を参照のこと!)

☆さ~~て、本日5月18日(金)の、「元気が出る言葉」は~?

『私はあなたのことが本当に好きだから。もし、ある日突然、あなたが私を好きじゃなくなって離れて行っても、なにかをすごく責めたりしない。正しく悲しむことができる。私を頑丈にしてくれて、本当にありがとう。』
出展:「波打ち際の蛍」(角川書店
発言者:島本理生 (小説家 1983年5月18日~)
『解説:人は恋をする。恋をすれば、別れる時もあるだろう。問題はここだ。「正しく悲しむことができる」、そう言える大人になりたい。平易なようで見事な言葉だ。そして別れた相手に「ありがとう」と言えること。「波打ち際の蛍」はDVの被害に逢って、心に傷を負った女性の再生物語だ。島本理生はこれからもっとも期待される女流作家のひとりだ。』

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◎関連書籍、楽曲、映画(ドラマ)などなど・・・

Amazon.co.jp 波打ち際の蛍 (角川文庫) 島本理生(著)
『■内容(「BOOK」データベースより):川本麻由はかつての恋人によるDVで心に傷を負い、生きることに臆病になっていた。ある日、カウンセリングの相談室で植村蛍という年上の男性に出会い、次第に惹かれていく。徐々に生活を取り戻し始めた麻由だったが、もっと彼に近付きたいのに、身体はそれを拒絶してしまう。フラッシュバックする恐怖と彼を強く求める心。そんな麻由を蛍は受け止めようとするが…。リアルな痛みと、光へ向かう切実な祈りに満ちた眩い恋愛小説。
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/■登録情報:/文庫 240ページ /出版社 KADOKAWA /言語 日本語 /ISBN-10: 404100389X ISBN-13: 978-4041003893 /発売日 2012/7/25 /梱包サイズ 15 x 10.6 x 1 cm /おすすめ度 5つ星のうち 4.0 /■カスタマーレビュー:小口栞 5つ星のうち5.0 「それでもあきらめない」2008年8月4日・・・こんなに痛い恋愛小説を読んだのは、はじめてかもしれない。読みながら何度も涙がこぼれた。それは自分が主人公と同じように恋愛でキズを負っているからかもしれない。暴力をふるわれても、そこはわたしのいる場所で、そこにしか自分の居場所がないと、そこで愛されていると思い込む。しかし暴力をふるわれているうちに、自分というものが希薄になってしまう。暴力で愛を測るというシーソーゲームを放棄してしまった時、敗北感という無情な虚無感を味わうのだと、飛び降りた勢いで、こころもからだも投げ出されてキズを負うのだと思う。キズを舐めながら、それでも愛することをあきらめない主人公に救われる。そして、蛍のような人に愛される幸せをわかっていることに、今、そしてこれからの希望を感じる。同じ恋愛なんてそして傷つかない恋愛なんてひとつもないということを、肌で感じさせてくれるくれる物語だ。』

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●映画「ナラタージュ」ウェブ限定予告編


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ブックバン 不倫小説を書いた妻に「ゲスな相手はいるの?」作家夫婦の告白にオードリー若林も苦笑
『お笑いコンビオードリーの若林正恭さん(37)が司会を務めるBSジャパンの番組「ご本、出しときますね?」(5月13日放送回)に小説家の島本理生さん(32)と佐藤友哉さん(35)が出演した。二人は夫婦で共に作家。作家夫婦ならではの貴重なエピソードが語られた。
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/番組では毎回視聴者から寄せられる質問に作家陣と若林さんが答える。「登場人物のモデルはいますか?」との質問で再度『Red』が俎上に載せられ、佐藤さんは島本さんに「ゲスなお相手はいるの?」と直撃。島本さんは「いるわけないじゃない。それ以外なんて言えば」と笑いながら答えた。しかし他の恋愛小説に関しては2、3人の人が足してあるもののモデルがいると告白した。逆に佐藤さんの小説のモデルは全て自分の中の一部分を出力したもの、と夫婦でありながら全く違うアプローチで執筆をしていることが明らかとなった。
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佐藤さんの作品は姥捨て山に捨てられた老婆たちがヒグマと戦う『デンデラ』(新潮社)など激しいバイオレンスを描いた作品も多い。そんな一面が佐藤さんの中にあるのは「旦那として怖くないですか?」と若林さんに尋ねられた島本さんは、つきあいはじめのころ「ぬいぐるみを食べてくれないか」と謎のお願いをされたと告白。佐藤さんの中にある過激な一面をわかった上での結婚だと感じさせるエピソードだった。/さらに二人の出会いは作家合コンだったことや、佐藤さんのルール「肩書きに『作家』とついている作家以外の人間を信用しない」、島本さんのルール「嫌いなものは批評しない」など二人が自分に課しているルールも披露された。番組最後には「夫婦をテーマにしたオススメ本」として島本さんが『死の棘』島尾敏雄[著](新潮文庫)を「浮気小説の最高峰」と紹介した。/ネット上では同番組について「作家さんの頭の中は異次元だなあ」「夫婦ならではの『阿吽の呼吸』だった」「島本さんのルールを自分も見習わなきゃな」との声が上がっている。』

☆本日の、『日めくり漱石』は・・・
サライ 「夏目漱石」の記事一覧

“われわれが世の中に生活している第一の目的は、金も力もない一般の人々に幾分でも安慰を与えるのにあるだろう(『二百十日』より)”

【1916年5月18日の漱石】翻訳依頼で『坊っちゃん』推しと発覚

今から100年前の今日、すなわち大正5年(1916)5月18日、漱石は小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)の英語教師ジョーンズに宛てて手紙をしたためていた。何日か前に、漱石の小説『二百十日』を英訳出版したいので許可してほしいという内容のジョーンズの手紙が、漱石のもとに届いていた。その返書なのである。漱石の返答は、おおむね、以下のようなものだった。

「その翻訳出版が教育のため、もしくは他の公共の目的のため、または単なる個人的な楽しみのためならば、無条件に出版を承諾するのみならず、そうした尽力に謝意を表したい。またもしそれが、相当の物質上の収入を目的とする事業としての出版ならば、著作権者として応分の取得を請求したい。これは利得の問題というより理非の問題として申し上げるものである。」/翻訳出版に関する著作権の扱いがまだ日本では未整備な中で、将来を見据えて、個人の利害を超えた正当な対応をしておかねばならない、という漱石の高い意識が窺える。/その後のジョーンズとのやりとりの中で漱石は、『二百十日』が選ばれたのは、以前「ローマ字ひろめ会」でローマ字訳したものが出版されていて翻訳に便利だからと推察されるが、大した実質のある作物ではないので、まだ『坊っちゃん』の方が翻訳に価するかもしれない、とも述べている。

それでもあえて『二百十日』を選ぶなら、こんな断り書きを入れてほしいとまで付言した。「作者を代表するに足る好(よ)い作品ではないが、ローマ字で出版されているので、英訳上便宜があるから、著者の意向如何(いかん)にかかわらず、とくにこれを翻訳した」/漱石本人の自作への評価の一端がうかがえる逸話である。漱石先生自身、『坊っちゃん』は好きな作品のひとつだったのだろう。/また後に、『草枕』のドイツ語訳の書物を刊行したいという連絡があった時は、漱石は、「『草枕』は劣作なるゆえ、御免こうむりたい。『倫敦塔』は『草枕』よりはまだましかも知れず」と返答している。これも、作者の評価なのか。あるいは、読者たるドイツの人々の趣味嗜好を意識した言い方なのか。

漱石の思いとは別に、結局、このときジョーンズの手によって翻訳されたのは『二百十日』だった。後日、雑誌『英語青年』に、対訳・注釈つきの形で発表されることになる。/なお、ジョーンズは大正11年(1922)に東京商科大(現・一橋大学)に転じるまで、小樽高商で英語教師をつとめた。小説『蟹工船』の作者・小林多喜二は、大正10年(1921)に小樽高商に入学しているから、おそらくこのジョーンズ先生に英語を習った。ひょっとすると、英訳の『二百十日』をテキストに使う場面もあっただろうか。/『二百十日』の中で登場人物が、横暴な金持ちどもをいつか打ち倒そうと気炎を上げる姿は、のちのプロレタリア作家に何がしかの刺激を与えたようにも思えるのである。

細かすぎて伝わらない関連動画など

(「二百十日」「漱石」で動画検索してみました!!)

夏目漱石二百十日」を歩く(5分56秒)

・2016年は夏目漱石が旧制五高(現・熊本大)に赴任して120年。熊本県内でにわかにわき始めた「漱石ブーム」に興味をそそられ、小説「二百十日」の舞台になった阿蘇路を歩いた。

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※これはなかなか斬新な朗読スタイルじゃまいかっ!

ジョニーAのつぶやき:漱石作品の朗読動画っていっぱいあるんだなぁー。聴きながら眠るというのがなかなか心地良いことに気付いたぞイ!