伊藤さとりさんの「映画が好きすぎて」始まる!!

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伊藤さとり オフィシャルブログ 映画番組始めましたぞ。
『個人的オススメ新作映画をじっくり解説する番組のレギュラーというと、スターチャンネル「GO!シアター」が現在あるだけでして、ラジオ番組も終わったことだし、有り余るこの新作映画ネタをどこかで喋れないかと考えていたら、賛同してくれたマイデジさんと、映画宣伝会社MUSAさんにより、YouTube映画番組をスタートしたのであります!番組タイトル「映画が好きすぎて」
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10分番組の中に新作オススメ映画2本。記念すべき第一回は、愛すべき「バーフバリ 王の凱旋 完全版」ラージャマウリ監督インタビュー!掘り出しものな傑作「オー!ルーシー」/試行錯誤中の手作り番組であります。面白くなるようバージョンアップしていこう。頑張るんで、温かい目で見守って頂けるとありがたい。』

●伊藤さとりの【映画が好きすぎて】
バーフバリ 王の凱旋 完全版」「オー・ルーシー!」の魅力を語りつくす!


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※相方がヌイグルマー。NHK教育番組スタイル?

☆コメント書いた。
『開設おめでとうございます!隣の相方のオバチャンのお名前は、
「どんな映画観たらええか、ナヤムわぁ~~」というのが口癖の
ナヤミちゃんというのはどうでしょう?
「サトリとナヤミの映画談義」w 因みに悟りと悩みは対義語です!』

※『オー・ルーシー!』観たいなぁ~~、と思っていま調べたら、
ここいらでかかってるのは、シネリーブル梅田だけ。しかも上映、
明後日の金曜までで終わってまうやーーん!DVD待ちだな、コリャ。


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寺島しのぶの「アイ・ラブ・ユー」が切ない。。。



☆書籍「元気が出る言葉」&サライ「日めくり漱石」をお届け♪

(詳細は、1月2日の日記を参照のこと!)

☆さ~~て、本日5月24日(木)の、「元気が出る言葉」は~?

『何もかも失われた時にも、未来だけはまだ残っている。』
出展:?
発言者:ボブ・ディランアメリカのミュージシャン 1941年5月24日~)
『解説:「風に吹かれて」はボブ・ディランが20歳のときにつくった名曲だ。ピーター・ポール&マリーのカバーが世界的にヒット、反戦歌や公民権運動賛歌として口ずさんだ。若者はギターを持ち、日本のフォークソングはスタートしていく。彼に「自由なものなど何もない。鳥さえも空につながれている」という言葉があるが、その閉塞感にあっても、やはり未来はあるのだ、2016年、ノーベル文学賞に輝いた。』

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◎関連書籍、楽曲、映画(ドラマ)などなど・・・

HUFFPOST ボブ・ディラン、ノーベル賞受諾の意向 授賞式は「行けたら行くよ」2016年10月28日
『2016年のノーベル文学賞に選ばれながら、これまで沈黙を続けていたアメリカのミュージシャン、ボブ・ディラン氏(75)が受賞を受け入れる意向であると、10月28日にスウェーデン・アカデミーが発表した。アカデミーによると、ディラン氏から今週連絡があったという。ディラン氏は「ノーベル文学賞を受賞したと知り、私は言葉を失った。この栄誉をとても光栄に思う」と連絡があり、受賞を受け入れる意向を示した。
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ディラン氏は28日にデイリー・テレグラフに掲載されたインタビューで、ノーベル文学賞に初めて言及。「素晴らしいし、信じられない。こんなことを夢見る人がいるかい?」と語った。一方で、受賞から2週間も沈黙した理由については明らかにしなかった。/12月10日にストックホルムで開かれる授賞式への出席するか問われると、「もちろん。行けそうならね」(“Absolutely, If it’s at all possible.”)と明言を避けた。ただ、スウェーデン・アカデミーは声明の中で、ディラン氏が授賞式に出席するかどうかは「決まっていない」としている。
ディラン氏をめぐっては13日、ノーベル文学賞の選考委員の一人が受賞発表後も沈黙を貫いたディラン氏を「無礼で傲慢(ごうまん)だ。でもそれが彼ってものだ」と述べ、波紋が拡がっていた。また、ディラン氏にはノーベル賞の賞金800万クローナ(約9400万円)を受け取る権利があるが、一定の期限内に受賞理由となった功績に関する講演をしなければ賞金の権利は消滅する。期限は授賞式が行われる12月10日から換算して6カ月以内となっている。』

●ガロ - 学生街の喫茶店

♪~学生で賑やかなこの店の 片隅で聴いていたボブ・ディラン~♪

Movie Walker 『ボブ・ディランの頭のなか』
『■作品データ:/原題 Masked and Anonymous /製作年 2003年 /製作国 アメリカ /配給 ザナドゥー /上映時間 106分
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■映画のストーリー:近未来。終わりの見えない内戦で混乱する国で、一人の男が刑務所から釈放された。彼の名はジャック・フェイト(ボブ・ディラン)。ミュージシャンである彼は、かつてのマネージャー、アンクル・スウィートハート(ジョン・グッドマン)が企画するチャリティーコンサートに出演するため、釈放されたのだ。コンサート会場でジャックを迎えたのは、アンクル・スウィートハート、彼のビジネスパートナーのニナ・ヴェロニカ(ジェシカ・ラング)、ジャックの熱狂的ファンであるボビー・キューピッド(ルーク・ウィルソン)、そして、ベテラン音楽ジャーナリストのトム・フレンド(ジェフ・ブリッジス)と彼の恋人のペイガン・レース(ペネロペ・クルス)たち。それぞれの思惑が交錯する会場で、ジャックがバンドメンバーとリハーサルを重ねている頃、国も大きな転換期を迎えようとしていた。大統領(リチャード・サラフィアン)が死の床に伏し、彼の息子・エドムンド(ミッキー・ローク)が政権を掌握したのだ。新大統領に就任したエドムンドは軍隊を派遣し、コンサート会場は破壊され、混乱をきたす。カオスと化した、乾いたこの国に、果たしてジャックの歌は平和をもたらすことができるのだろうか?
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■スタッフ:/監督 ラリー・チャールズ /製作 ジェフ・ローゼン 、 ナイジェル・シンクレア /製作総指揮 マリー・キャンティン 、 ジョゼフ・ニュートン・コーエン 、 ヴラディミール・ドスタル 、 ガイ・イースト 、 アナトリー・フラディス 、 ピエトロ・スカラ 、 デイヴィッド・M・トンプソン /脚本 ボブ・ディランラリー・チャールズ /撮影 ロジェ・ストファーズ/音楽 ボブ・ディラン /■キャスト:ジャック・フェイト(ボブ・ディラン) トム・フレンド(ジェフ・ブリッジス) ペイガン・レース(ペネロペ・クルス) アンクル・ウウィートハート(ジョン・グッドマン) ボビー・キューピッド(ルーク・ウィルソン) ニナ・ヴェロニカ(ジェシカ・ラング) 未亡人(アンジェラ・バセットエドガー(スティーヴン・バウアー) 編集者(ブルース・ダーン) オスカル・ヴォーグル(エド・ハリス)』

☆本日の、『日めくり漱石』は・・・
サライ 「夏目漱石」の記事一覧

“何にも拘泥(こうでい)していない自然の顔をみると、感謝したくなるほど嬉しい(『行人』より)”

【1894年5月24日の漱石】若き夏目漱石、神田の旅館に「人生の達人」を訪ねる。

今から122年前の今日、すなわち明治27年(1894)5月24日の夜、27歳の漱石神田淡路町の旅館・関根屋に太田達人(おおた・たつと)を訪問した。達人は、成立学舎、大学予備門(のちの一高)以来の漱石の友人。丸い目と赤い頬、ふっくらとした顔の輪郭の持ち主だった。いかにも東北出身者といった感じで、口の利き方もゆったりして性格も穏やかだった。/学生時代、青年らしくいろいろと議論することはあっても、太田達人の激したり怒ったりする顔を、漱石は一度も見たことがなかった。まるで長者のようだった。「人生の達人」という意味合いをこめ、漱石はいつからかその名前も「たつと」でなく「たつじん」と読むようになった。

高校時代の漱石はそんな達人を敬愛し、毎週のようにその下宿に遊びにいき、泊まっていくこともしばしばだった。ある夏休みには1日も欠かさず達人の下宿を訪ね、一緒に両国の水泳場へ通いつめた。空の澄みきった秋日和に連れ立って散歩に出かけ、黄色に染まった小さな葉がはらはらと舞い散る景色を眺めたり、上野の菓子処「岡埜栄泉(おかのえいせん)」で汁粉を食べたりもした。愉しい思い出ばかりだった。/この前年に東京帝国大学の物理科を卒えた太田達人は、当時、石川県尋常中学校の教師を務めていた。かたや英文科を卒業した漱石は、大学院に進んで勉学を続けながら、高等師範学校と東京専門学校(早稲田大学の前身)の講師として働いていた。/この夜の達人のもとには、すでに先客があった。漱石とも学生時代から交流の深い狩野亨吉(かのう・こうきち)だった。亨吉は先頃まで勤めていた金沢の第四高等学校を辞任し、ちょうど東京へ戻っていた。3人で面談するのは久しぶりのことで、話は尽きず、この翌日も上野広小路の青陽亭で顔をそろえ夕食をともにすることになったのだった。

時は流れ、太田達人は明治45年(1912)5月、樺太(現・サハリン)の中学校の校長になった。樺太は、日露戦争終結後のポーツマス条約によって、北緯50度以南が日本の領土となったいわば新天地であり、太田達人は大泊に開設された中学校の初代校長に迎えられたのである。この人事の陰には、どうやら秋田県知事の森正隆の意図が働いていたらしい。森正隆は豪腕ぶりで知られるやり手の知事だったから、おそらく長者のような風合いの太田達人とあまりソリが合わなかったのだろう。それで、横手中学校長だった太田達人を北限の地へ追いやってしまった。そんな流れがあった。それを知った漱石は、満鉄でしかるべき役職に相応しい人を探しているという話を受け、狩野亨吉とも相談の上で太田達人を推薦しようと思いついた。満鉄理事の龍居(たつい)頼三あての、こんな手紙が残っている。《拝啓 本日、狩野亨吉君をたずね例の人物につき相談致し候ところ、(略)ふと太田達人のことを思い出し候。あれなら君とも熟知の間柄ゆえ双方にて気がねなく至極便利と存じ候がいかがにや。彼は大器ゆえ秋田の馬鹿知事森正隆よりグズと思われ今は樺太に赴任致しおり候。狩野も太田には賛成致し候。出来得べくんば、あの下に腕のききたる人ひとりをつけたら妙ならんと存じ候。》(大正2年7月10日付)

大器の太田達人の下に小回りのきく部下をつけたら、相当の仕事をこなすに違いないと、漱石は推薦するのだ。この話、満鉄の方は大歓迎だったが、太田達人が断った。太田達人は秋田県知事の思惑など「どこ吹く風」と受け流し、樺太での仕事に精一杯取り組む意志を固めていたのである。/さらに1年半の時が過ぎた大正4年(1915)冬、漱石は筆をとって、随筆『硝子戸の中』にこんなふうにしたためた。《私は彼を想い出すたびに、達人といふ彼の名を考える。するとその名がとくに彼のために天から与えられたような心持になる。そうしてその達人が雪と氷に鎖ざされた北の果に、まだ中学校長をしているのだなと思う》

東北生まれの太田達人にとっても、かの地の冬は寒かろう。それでもやっぱり、その名の如き「達人ぶり」で、悠々と過ごしているのだろうか--。年齢も50に近づき、ふと懐かしく旧い友人のことを思い起こしている漱石先生なのだ。太田達人は、漱石没後も黙々と樺太での勤務に励んだ。健康を害して退官し、故郷の盛岡に帰ったのは大正12年(1923)2月。樺太滞在はじつに10年以上に及んだのである。

細かすぎて伝わらない関連動画など

(「達人」「旧友」で動画検索してみました!!)

●タイケ 「旧友」


●オードリー若林が本音で語る、春日の芸人スキルの成長 (10分22秒)


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※オードリーはある意味旧友か・・・。春日がスキルアップする話w

ジョニーAのつぶやき:春日は「すべらない話」でMVS獲ってたしなァーw