オマケ発信の回 ~保科正之と漱石~

☆書籍「元気が出る言葉」&サライ「日めくり漱石」をお届け♪

(詳細は、1月2日の日記を参照のこと!)

☆さ~~て、本日6月17日(日)の、「元気が出る言葉」は~?

『ならぬことはならぬ』
出展:「什の掟
発言者:保科正之 (大名 1611年6月17日~1673年2月4日)
『解説:江戸時代、会津藩の子弟たちは、「什の掟」をとなえ、最後に「ならぬことはならぬものです」で締めくくった。どんなことでも決めたことは固く守ろうということだ。たしかに理不尽な考えであり、その不合理さゆえに幕末に悲劇の藩ともなる。しかし、ならぬことはならぬ、ことはある。そう言い切ってしまえば、その愚直さが生き方の迷いを正しくしてくれることもあるのだ。その考えはいまも、「あいづっ子宣言」として引き継がれている。』

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◎関連書籍、楽曲、映画(ドラマ)などなど・・・

会津藩家訓15ヶ条と什(じゅう)の掟
会津藩士の子弟は、6歳になると「什(じゅう)」と呼ばれるグループに入ります。什とは、町内の6歳~9歳の子供たちが、 9歳の什長を中心に10人前後集まって構成される集団のことです。 什は毎日午後から当番の家に集まり集団で活動しますが、最後に什長が「什の掟」を話しながら 「ならぬことはならぬものです」で締めくくります。』

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※今の今まで、掟の項目が“十個”あるもんだとばかり思ってたワ。
勘違い長かったーーーー!

会津什の掟と白虎隊をたどる旅


●「白虎隊」(1986年) 第二部ドラマOP

・1986年12月31日のオンエア映像。若者たちの悲劇の死には胸が
 毎度毎度、締め付けられる思いでありんス。今やお昼の顔となった
 坂上忍が今とほとんど同じ顔なのが、ツボってしまって緊張感が
 削がれますけど・・・

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※「安藤さん、あとは宜しくお願いしまっす!!」

Amazon.co.jp 名君の碑―保科正之の生涯 (文春文庫) 中村彰彦(著)
『■内容(「BOOK」データベースより):江戸時代初期、二代将軍秀忠のご落胤として生まれた幸松は、信州高遠の保科家を継ぐ。やがて異母兄である三代将軍家光に引き立てられ、幕閣に於いて重きをなすに至る。会津へ転封となった後も、名利を求めず、傲ることなく、「足るを知る」こそ君主の道とした清しい生涯を、時に熱く、時に冷静に描く著者渾身の書。/■登録情報:/文庫 698ページ /出版社 文藝春秋 /ISBN-10: 4167567059 ISBN-13: 978-4167567057 /発売日 2001/10/1 /梱包サイズ 15.2 x 10.6 x 3 cm /おすすめ度:5つ星のうち 4.5 /出版社:文藝春秋 /ISBN-10: 4167567059 ISBN-13: 978-4167567057 /発売日 2001/10/1 /梱包サイズ 15.2 x 10.6 x 3 cm /おすすめ度 5つ星のうち 4.5
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/■カスタマーレビュー:ゼンダー 5つ星のうち5.0 「生きるとは何か」2015年12月12日・・・恥ずかしながら、私は保科正之を知らず、みなもと太郎氏の漫画「風雲児たち」から彼に興味を持ち、読み始めました。彼の行いはことごとく無私の物です。主君たる徳川家と民のために、言葉通り生涯を捧げた彼の生き様は、現代を生きる私にも確かに届きました。特に印象に残ったのは、彼が死の間際、彼の功績とも言うべき幕府に献策した書類を、自ら全て焼き払ってしまったくだりです。理由は「幕府の善政が、実は保科正之の提案によるものだった、と人々に知られては後世の人達に迷惑がかかるから。」清廉潔白の士という他ない、だがそれ故に現代で彼を知る人は少ない。彼の人生、生き様が、今私の人生にも少なからぬ影響を与えていくでしょう。間違いなく、もっと語り継がれるべき人物です。彼の生涯を読み応えある一編のストーリーに紡いだ筆者の仕事に脱帽。』

☆本日の、『日めくり漱石』は・・・
サライ 「夏目漱石」の記事一覧

“なに失礼な細君だ? 別に失礼な事はないさ。礼も非礼も相互の解釈次第でどうでもなる事だ(『吾輩は猫である』より)”

【1911年6月17日の漱石】汽車旅に出た夏目漱石!当時の「駅弁」には何が入ってた?

今から105年前の今日、すなわち明治44年(1911)6月17日、漱石は朝5時半に目を覚ました。そして妻の鏡子と一緒に家を出て、東京・上野の停車場へ向かう。信濃教育会に依頼された講演を行うため、8時10分発の列車で長野へ赴こうとしているのだった。漱石は伊豆・修善寺での危篤状態を経て、この2月に退院したばかり。鏡子が同行しているのは、夫のまだ不十分な体調を案じてのことだった。はじめ漱石は、「講演に行くのに女房なんか連れていくのはみっともない」と言って、鏡子の同行を拒絶していた。だが、鏡子の方も譲らない。たまたま子供が熱を出して、小児科の医師の豊田鉄三郎が往診で自宅にやってきた時、漱石はここぞとばかり、医師に同調を求めた。

「ねえ、豊田さん、今度、長野へ講演に行くんですが、女房がどうしてもついて行くと言い張るんです。小学校の先生が集まっている中に、女房なんか連れてゆくのは、みっともないですよね」/漱石先生、ここで賛同を得て、鏡子を説得しようとの目論見であった。ところが、豊田医師はこう答えた。「いいえ、そんなことは決してございません。僕の恩師の先生なんか、講演にいらっしゃる時は決まっていつも奥さんとご一緒です」/こうして、思わぬ先例を突きつけられ、漱石と鏡子、夫婦ふたりの講演旅行が実現することになったのである。漱石は少しでも体が楽なように1等車で行きたかった。だが、1等席は高崎までしかないという。途中で乗り換えるのも億劫(おっくう)なので、夫婦は2等車の乗客となった。

列車には食堂車もついていなかった。大宮まできたところで、前の座席の乗客から「弁当はここで買っておいた方がいい」とアドバイスされた。漱石はそこで、昼食用の弁当をふたつ、50銭で買い求めた。北陸新幹線開通前の信越本線・横川駅で人気を博した駅弁「峠の釜めし」が売り出されるのは、この47年後(1958年)のこと。高崎名物のだるま弁当は、さらにその2年後の販売という。漱石先生が買った駅弁はどんなものだったのか、興味深い。/藤森清著『漱石のレシピ』には、明治5年(1872)創業の「駅弁の井筒屋」に伝わる話として、当時の駅弁はご飯は白飯で、《おかずは玉子焼と蒲鉾、煮豆がいわば三種の神器。あとは魚か鳥肉を焼いたり、煮たり、佃煮にしたものが入れられる》と紹介されている。小説『三四郎』で、東海道線に乗った三四郎が食べる駅弁には、三種の神器(玉子焼、蒲鉾、煮豆)以外の4番目のおかずとして「鮎の煮びたし」があったようだが、内陸部の駅弁だと、魚ではなく、鳥肉の甘煮(うまに)あたりが入っていただろうか。

漱石が窓の外に目をやっていると、高崎付近から山が見えだし、その高さが段々と増していくのが感じられた。横川からいくつものトンネルを抜け軽井沢までくると、出迎えの人がふたり来ていた。ここから長野市内の宿まで、案内しながら同道するという。出迎えにきていたふたりのうちのひとりは、一高時代から漱石の顔見知りの野田六次だった。現在は内務部土木課の技師として、長野で働いているとのことだった。野田六次は車窓から見える山や樹木などを、ひとつひとつ丁寧に説明してくれた。/長野停車場に着いたのは夕方5時過ぎ。ここにも師範学校長以下、何人かの人々が出迎えにきてくれていた。宿泊場所として準備されていたのは、現在も老舗ホテルとして営業を続ける「犀北館」(さいほくかん)だった。翌日は善光寺見物のあと、県会議事堂で「教育と文芸」と題する講演を行なった。善光寺の門前では、漱石は旧知の松崎天民(「大阪朝日新聞」「国民新聞」などで新聞記者をつとめた文筆家)とばったり出逢った。

白チョッキに麦藁帽子、細君を連れてにこにこやってくる人がいると思ったら、それが夏目漱石だった--天民はのちに、自身の紀行文の中にそんなふうに綴っている。出発前はあれこれ文句を言っていた漱石先生も、夫婦での旅を結構楽しんでいたのだろう。漱石の講演旅行は、長野市で追加の依頼を受けて、新潟県高田市、長野県諏訪市へと続いていく。鏡子はその旅のあいだ中、漱石の食べ物に気をつかい、「そんな堅いものはいけない」とか「今度はパンにした方がいいでしょう」などと、口やかましく世話を焼きつづけたのだった。

細かすぎて伝わらない関連動画など

(「駅弁」「漱石のレシピ」で動画検索してみました!!)

●賛否両論弁当を開けてみた

堀田勝彦 2015/07/15 に公開
人気和食店、「賛否両論」の店主、笠原将弘さんのプロデュースした駅弁が、賛否両論弁当です。東京の駅弁屋で見かける事ができます。外箱は豪華で期待させてくれますが、中身はやや豪華な幕の内弁当といった風情です。

●日本全国の駅弁ランキング【TOP10】


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※証にこんな弁当があるとは知らなんだ~~。

ジョニーAのつぶやき:お弁当片手に列車旅。。。いいッスなぁ~~~♪