新生サーカス 「Mr.サマータイム 2018」など

☆6月30日のNHK「アニソンアカデミー」に、新生サーカスの4人が生出演、
アニソンにまつわる話3、サーカスとしての活動話7の割合でトークが展開
されたのだった!身内独特の一体感に、父勝彦と歌いたかった気分に浸る
しょこたんだった。。。

アニソンアカデミー 公式HP
『【第242回6月30日 OA曲】●愛のカンタータ/サーカス(映画「シリウスの伝説」)●オバケのQ太郎石川進(「オバケのQ太郎」OP)●南の国のパームタウン/山野さと子(「新メイプルタウン物語 パームタウン編」OP)●あの風を今でも/サーカス●時よゆるやかに/サーカス(映画「シリウスの伝説」)●風のメルヘン【生】/サーカス(「まんが日本史」ED) ●Mr.サマータイム(2018)/サーカス●幸せのドア/中西保志沢田知可子(映画「のび太結婚前夜」)●空色デイズ中川翔子(「天元突破グレンラガン」OP)●CHANGE/J-Min(「花咲ける青少年」OP)●Front breaking/林原めぐみ(「スレイヤーズEVOLUTION-R」OP)●マジックナンバー坂本真綾(「こばと。」OP)●オレンジ/逢坂大河釘宮理恵)、櫛枝実乃梨堀江由衣)、川嶋亜美喜多村英梨)(「とらドラ!」ED)●Poo/Neko Jump(「あにゃまる探偵 キルミンずぅ」OP)●星空のダイアリー【生】/しょこたん生徒会長&あべし (「魔法少女ちゅうかなぱいぱい!」ED)』

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しょこたん☆ぶろぐ ミスターサマータイム
『アニソンアカデミーに、サーカスの4人さまがゲスト!生ライブ、涙がでました、血族の絆、ハーモニー。すばらしいです。長く歌い続けることがとても尊く大切な瞬間の積み重ね。/勝彦さんと、一緒に歌うことは叶わなかったけど、もし一緒にライブできてたらどうなったんだろう、とふと思いました。空色デイズを勝彦さんと歌ってみたいなあ。』
※かっちゃんはお茶目だから、きっといましょこたんの側にいるネコたんの
うちのどれだかに転生して、見守ってくれてるんだと思うジョーー。

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サーカス 公式HP バイオグラフィー
◎サーカス
叶 高(リーダー、叶正子の弟)
ありさ(新メンバー、叶高の娘)
叶正子(デビュー以来の歌姫)
吉村勇一(新メンバー、オーディションで抜擢)

2018年4月25日 ソニーミュージックより
NEW ALBUM「POP STEP 40」リリース

◎プロフィール
1978年『Mr.サマータイム』、1979年『アメリカンフィーリング』が大ヒット。男女二人ずつ、しかも3人姉弟+従姉というユニークなヴォーカルグループとして、音楽界に颯爽とデビュー。その後メンバーチェンジを経て現在のメンバーとなる。
洗練されたそのハーモニーは各方面より高い評価をもって迎えられ、レコード大賞編曲 賞などを受賞。NHK紅白歌合戦など多くの音楽番組や多くのCM等でそのハーモニー を披露。コーラスグループのパイオニアとし日本のミュージックシーンに新たな風を吹き込んだ。

また”We love harmony!”を合言葉に全国各地でのコンサートツアーを開催。万博な ど様々なビッグイベントにも出演し服部克久前田憲男らとの共演を機に多くのオーケストラ、ミュージシャンとの共演も果たす。一方、地元合唱団らとの共演も多く2011年5 月にはニューヨークの「JAPAN DAY」から招聘され、セントラルパークでライブを行っている。
35周年を迎えた2013年3月、メンバーの叶央介、原順子が卒業。それに伴いソロシン ガーとして活動していた吉村勇一と、サーカスメンバー叶高の娘である、叶ありさが加 入し新たなサーカスの歴史がスタート。

2013年4月にデビュー35周年の記念アルバム「We Love Harmony!」を、また5月には80年代 JPOPをカバーした「The Reborn Songs~80’sハーモニー」をリリース。
2015年10月から、コンセプトミニアルバム”POP STEPシリーズ”の制作をスタート。第1弾「Pop Step Jazz」を、2016年5月に第2弾「Pop Step Bossa」を、そして2017年1 月には第3弾「Pop Step Ballad」をリリース。

新生サーカスのテーマは「繋ぐ」。
親子世代の4人が奏でるハーモニーは、世代もジャンルも超えた音楽を生み出し繋いで ゆく。
2018年3月には結成40周年を迎え、同年4月、武部聡志をプロデューサーに迎えた ニューアルバム「POP STEP 40」をリリース予定。
またグループ活動と並行し各メンバーそれぞれソロ活動も行っている。

●Mr.サマータイム 2018/サーカス


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※ぐはぁあーーーっ!このイントロ!たまらーん!心は一足飛びに
40年前にタイムスリップじゃあーーーーっ!!


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※中1の夏が蘇る蘇るぅ~~~♬

☆彡ではでは、サーカスの手掛けたアニソンの数々をば!!

●『シリウスの伝説』オープニング 「時よゆるやかに」


●『シリウスの伝説』エンディング 「愛のカンタータ


●「マンガ日本史」主題歌 「風のメルヘン

※この曲を「アニソンアカデミー」生放送中に生ライヴ歌唱してくださいました♪

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※ずっとメンバーを身内で固めてきたが、ついに他人を取り込むことに。
この、他人である吉村勇一が、けっこうなアニヲタのようで、しょこたん
と同調していたw サーカスに参入した若きヲタクの遺伝子、これが今後
どのような化学反応を起こすのか、興味はある。。。
新参入の叶ありささんと結婚でもすれば、また身内グループとしての
歴史がスタートするんだけどもなぁーーー。その可能性は低い、の、か?

はいから 家族で繋いだサーカスのハーモニー。新しくパワフルになった響きを楽しんでほしい
『洗練されたハーモニーと都会的でおしゃれなサウンド、さらに姉弟と従妹という珍しいメンバー構成も注目され、70年代後半から日本の音楽シーンを席巻した〝サーカス”。そんなサーカスの原点は、「家族皆でうたった楽しい思い出」と、長女の叶正子さんは語ります。「よく父のピアノに合わせて、母が家事をしながらうたっていました。母の楽しげな姿を見て、私たち姉弟も自然と歌が好きになって。コーラスグル―プのように家族で歌を楽しんでいましたね」  そんな両親の影響もあり、音楽の道へ進んだ正子さん。ソロシンガーとして活動していたある日、後のサーカスとなるバンドに誘われます。  「ところが当時ABBAなどが人気だったこともあり、バンドはやめて男女混声グループにしようということになって。男性メンバーがやっぱりバンドをしたいと抜けてしまうのです。それで、元のメンバーの私と従妹に、弟の高と央介を加えて再結成しました」  1978年、この4人でうたった『ミスター・サマータイム』がその年のセールスチャート1位を獲得。サーカスは世間にその名を響きわたらせます。その後、メンバー変更を経て、正子さんら姉弟と、後に央介さんと結婚する原順子さんの4人でサーカスは長年活動を続けてきました。しかし、央介さん夫婦が自分たちの音楽を見つめ直したいと、2013年にグループを卒業。サーカスのひとつの時代が幕を閉じるのです。  寂しかったですが、と正子さんはふせた目をこちらに向けて続けます。  「バトンタッチの気持ちもあって、新メンバーを募集することにしたのです。それで加入したのが高の娘のありさとオーディションで選出した吉村勇一君。ありさは小さい時から見ていたので、一緒にうたうなんて思いもしませんでしたが、これからの成長も含めて期待しています。勇一君はハイトーンボイスが魅力で音楽的にとても幅広い子です」  まだ30代のありささんと吉村さん。フレッシュになった新生サーカスですが、当初、正子さんは若いメンバーを入れることは考えていなかったそう。  「前のサーカスはハーモニーが心地良く溶け合う大人の音楽が魅力でした。そのイメージを若いメンバーで崩してしまうのではないかと不安があったのです。ですが、ふたりのパワーで弾けるようなパワフルさが加わりました。ライブも踊りだしたくなるくらい楽しい雰囲気なのですよ。まだまだ発展途上ですが、4人のハーモニーがどう変化していくのか楽しみです」』

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※前メンバーとも時には合流して、「東映漫画まつり7人ライダー全員集合」
(byしょこたん発言より)のごとく、大合唱を聴かせてもくれる。実際はメン
バーの仲は良くないのか悪いのか知らないけれど(アレ?)聴取者としては、美
しいハーモニーが聴ければなーんの問題もないのです、ハイ。

●サーカス/オフィシャルプロモーションムービー





☆書籍「元気が出る言葉」&サライ「日めくり漱石」をお届け♪

(詳細は、1月2日の日記を参照のこと!)

☆さ~~て、本日7月4日(水)の、「元気が出る言葉」は~?

『チャンスというものは、準備を終えた者にだけ、微笑んでくれるのです。』
出展:?
発言者:マリア・スクウォドフスカ・キュリー (ポーランドの物理学者 化学者 1867年11月7日~1934年7月4日)
『解説:キュリー夫人のすごいところは、20世紀初頭のまだ女性科学者に偏見のあった時代、貧困の研究者生活のなかで女性初のノーベル賞を受賞しただけでなく、初めて2度の受賞者、しかも物理学者・化学賞という異なる分野で受賞していることだ。科学者は他の職業より偶然とか運命といったものとの出会いが業績を左右する。しかし、それを運からチャンス、チャンスを結果に結びつけるのは、どれだけその準備にたゆまない努力を重ねたかにかかる。キュリ-夫人の伝記、また読んでみたいな。』

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※ちなみに、娘のイレーヌもその夫とともにノーベル化学賞を受賞している。

◎関連書籍、楽曲、映画(ドラマ)などなど・・・

Amazon.co.jp キュリー夫人伝 単行本(ソフトカバー)エーヴ キュリー (著), 河野万里子 (翻訳)
『■内容紹介:「放射能」の命名者、マリー・キュリー。強い信念とたゆまぬ努力によって二度のノーベル賞に輝いた、女性科学者の比類なき生涯。
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没後80年、世界中で読み継がれる名著の新訳。「大きくなったら何になる?...キュリー夫人みたいになりたい。どれだけの女の子たちがそう言ってきたことだろう。なのに、「悪魔の光線」を発見したこの破天荒な女性の、科学に仕えた無私の生涯について、わたしたちはいったい何を知っているだろうか。本書で彼女に対する敬愛はますます深まるだろう。」上野千鶴子マリー・キュリーの生涯には、ドラマチックなできごとやめぐりあわせが数かずあったため、ひとつの伝説のように、その一生を語ってみたくなる。その人は、女だった。他国の支配を受ける国に生まれた。貧しかった。美しかった。大きな天分に突きうごかされるように、祖国ポーランドをはなれてパリで学んだが、待っていたのは何年もの孤独と困難の月日だった。しかしやがて、彼女と同じくらい才能あふれる男性に出会う。そして結婚した。ふたりの幸せは、比類ない次元のものだった。心血を注ぎ、不毛にも思える努力を重ねて、キュリー夫妻マリーとピエールは、魔法のように不思議な物質ラジウムを発見した。この発見は、新たな科学と哲学を生みだしただけでなく、人類に、おそろしい病気を治療する手立ても与えたのである。(「はじめに」より)
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/■登録情報:/単行本(ソフトカバー) 542ページ /出版社 白水社542版 /言語 日本語 /ISBN-10: 4560083894 ISBN-13: 978-4560083895 /発売日 2014/7/19 /梱包サイズ 18.2 x 13.2 x 2.4 cm /おすすめ度 5つ星のうち 4.7 /■カスタマーレビュー:小宮菱一 5つ星のうち5.0 「女性の素晴らしさを再認識する書」2013年1月16日・・・妻として、母として、主婦としてそして世界的な物理学者としてのキュリー夫人の生き様をてにとるように理解できる素晴らしい書である。特にフランスの学会や大学での当時の女性差別をものともせずに自分の信念を貫いて死の直前まで実験を続けたこと、家庭生活や2人の娘のしつけや教育にまったく手を抜かなかったことなど驚嘆に値する。われわれ凡人はノーベル賞をもらうほどの実力や実績はまったくないが、人間としてすべきことを時間に有効に使って追究することは可能なはずなので、残された人生を更に有効に過ごしていきたい。』

●Madame Curie (1943) Official Trailer


近畿大学付属小学校 【校長室だより】 キュリー夫人の生き方に学ぶ
『毎週月曜日に行われる児童朝礼では、毎回、校長先生から全校児童にお話があります。今週の校長先生のお話を紹介します。「7月4日は、今から82年前、1934年にキュリー夫人が亡くなった日でもあります。66歳だったそうです。今日はキュリー夫人の生き方について一緒に考えてみたいと思います。名前をマリ・キュリーと言い、1867年ポーランドの首都ワルシャワで生まれました。24歳でパリ大学に入学し、数学や物理学を学びました。ポーランド生まれのマリはフランス語があまりわからず、難しい授業に最初はついて行けなかったそうです。
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  その後、フランス人の物理学者ピエール・キュリーと出会い結婚しました。二人で協力して放射能の研究を始めました。粗末な研究室で何トンものウラン鉱石を分別蒸留する作業を根気よく続けたそうです。そしてラジウムという新しい放射性元素の分離に成功し、1903年、キュリー夫妻にノーベル物理学賞が贈られました。しかし、その3年後、夫ピエールは馬車にひかれる事故で亡くなりました。その死にマリは悲しみながらも研究を続け、金属ラジウムの分離に成功し、1911年に今度はノーベル化学賞を受賞しました。/放射線研究に対するキュリー夫妻の功績は大きく、放射線の単位は二人にちなんでキュリーと呼ばれていました。今はウランの放射能を発見し、一緒にノーベル賞を受賞したアンリ・ベクレルの名前にちなんで、ベクレルという単位が使われています。シーベルトという単位もよく使われますが、どう違うのかは調べてみてください。
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  キュリー夫人の研究心と好奇心は、娘のイレーヌにも受け継がれ、後に原子物理学者になり、人工放射性元素の研究でノーベル化学賞を娘も夫婦で受賞しました。2回もノーベル賞を受賞したキュリー夫人は、探究心や好奇心を持ち、そして忍耐力を持って放射能という未知の世界に挑戦しました。女性が科学を研究すること自体が珍しかった時代であり、色々な苦労があったそうです。それでもあきらめないで努力を続け、自分の研究に捧げた一生でした。キュリー夫人と娘イレーヌ夫妻とも白血病で亡くなりました。長い研究活動により放射能を浴び続けた結果だったそうです。皆さんはキュリー夫人の生き方から何を学びますか。自分で色々と深く考えてみて下さい。]』
※校長先生の話は退屈に聞こえることが多いッス。やはり校長も、お笑い芸人さん
などのべしゃりを勉強して、面白おかしく、そしてためになる話をすべきだと思
うんデスがねー。校長のすべらない話!!宮川大輔みたいな校長先生がおったらオ
モロイやろぅなーーーw

☆本日の、『日めくり漱石』は・・・
サライ 「夏目漱石」の記事一覧

“書を見ると人格がわかる(『文芸の哲学的基礎』より)”

【1916年7月4日の漱石】書画骨董の入札会で見た一休の書に憮然とする

今からちょうど100 年前の今日、すなわち大正5年(1916)7月4日の午後、漱石は伊達家の第2回入札会に出かけた。伊達政宗を祖とする東北一の旧大名である伊達家所有の書画骨董など500点余りを展示公開し、入札によって販売するという催しだった。漱石がここに出かけたのは、漱石の著作の装幀なども手がける画家の津田青楓が切符を送ってくれたためだった。

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会は大勢の人出で賑わっていた。第1回の伊達家入札会は、すでに5月に催されていた。これが旧大名家が公然と催した最初の入札会だった。以降、同様のことが次々と行われ、多くの美術品や茶道具が旧大名から新しい富裕層のもとへ移動することになった。これも時流のなせるわざ、と言うべきか。/2度にわたる伊達家入札会での取引金額は150万円にも上った。値のつき方には専門家から見るとかなり偏ったところもあり、成り上がりの富裕層の趣味の悪さを嘆く声も聞かれたという。漱石の一番印象に残ったのは、八言四句の漢詩を3行に綴った一休の書だった。だが、それは必ずしもいい意味ではなかった。

墨跡は乱雑で一休筆という以外は書としての本質的な魅力に乏しいように感じ、漱石は青楓への手紙の中にも、《何で懸物などにする価値があるのでしょう》と綴った。一休という名前だけで無闇にありがたがる茶人が多かったことへの反発もあったのだろうか。/漱石は同じ禅僧でも、闊達な中にやさしさと風格を持つ良寛の書をもっとも好んでいた。いつぞやは、良寛の書をなんとか手に入れたいと新潟の知人(漱石の主治医だった森成麟造)に頼み込み、代価を払うのはもちろんのこと、関係者が漱石の書を所望するのであれば恥を忍んで進呈するとして、手紙の中にこんなふうに綴っている。

良寛を得る喜びに比ぶれば悪筆で恥をさらす位はいくらでも辛抱つかまつるべく候》ちなみに、漱石は絵画を鑑賞する場合でも、描いた画家の名前に寄りかかって観るようなやり方はしなかった。自身の審美眼だけを頼りに、虚心に絵と向き合った。あとでこの一休の書が何千円という高値で売れたと聞き、漱石先生は思わず嘆声を発したのだった。

細かすぎて伝わらない関連動画など

(「一休」「良寛」で動画検索してみました!!)


●感動長編アニメ【良寛さん】(14分)


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※永野のメロディでw

ジョニーAのつぶやき:キュリー夫人、ビジュアルかなりパンチあるなぁ~~~~~w