『We Love Television?』ドキュメンタリー欽ちゃん

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eiga.com 作品情報 『We Love Television?』
■解説:萩本欽一の素顔、番組作りの裏側を「電波少年」で知られるテレビディレクター土屋敏男が追ったドキュメンタリー。ある日、萩本の自宅を訪れた土屋が「視聴率30%超えの番組を作りましょう」と萩本に提案する。そこから、かつて出演する番組の一週間の合計視聴率の高さから「視聴率100%男」の異名をとった萩本と、萩本を敬愛する土屋による新たな番組作りがスタートする。演者との顔合わせ、番組構成スタッフとの打ち合わせなどを精力的にこなしていく76歳の萩本欽一。笑いを追求し続け、新しい要素を取り入れ、関わる人々の熱量を最大限に引き出していく萩本欽一独自のテレビ作りの奥義、萩本欽一の真の姿が土屋のカメラによって記録されていく。
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■スタッフ:/監督 土屋敏男 /企画 土屋敏男 /構成 土屋敏男 /製作 今村司 /エグゼクティブプロデューサー 伊藤響 /プロデューサー 齋藤政憲 /技術コーディネーター 鴇田晴海 /編集 木村恵子 /主題歌 岡村靖幸 /監督助手 山崎恵美子 /アートディレクター 布村順一 /フォトグラファー ワタナベアニ /アシスタントプロデューサー 片山暁穂
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■キャスト:萩本欽一 田中美佐子 河本準一 タカガキ 稲葉友 和田彩花 瀬川凛 高須光聖 猪子寿之 ガダルカナル・タカ 肥後克広 寺門ジモン 上島竜兵 東野幸治 田村淳 黒沢かずこ 大島美幸 西山浩司
■作品データ:/製作年 2017年 /製作国 日本 /配給 日活 /上映時間 110分 /映倫区分 G
オフィシャルサイト
eiga.comニュース 「映画に出た覚えない」萩本欽一が「We Love Television?」 公開初日に爆弾発言!?
→『土屋敏男氏が追ったドキュメンタリー映画「We Love Television?」が11月3日、全国で初日を迎え、出演の萩本、河本準一土屋敏男監督が東京・渋谷のヒューマントラストシネマ渋谷で舞台挨拶を行った。/映画を見ていないという欽ちゃんは観客に向け、「映画の内容とか、余計なことを言わないように。ご近所の方には、『そういう映画があるらしいよ』とだけ言ってください。舞台あいさつでは『みんなで作り上げた。充実感でいっぱいです』とか挨拶するけど、充実感もないので……。だって、映画出ている意識がないのに、なんで挨拶に来なきゃいけないんだ。土屋って、ろくなことしないなと思った」と、冒頭からまさかの発言だった。
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隣に立った河本にも「なんで、お前いるの? 映画に出ているの?」と質問。河本が「僕も、いつのまにか出てましたから」と返すと、「どうしてカットしなかったの?」と聞く始末。「番組で言うと、もう一つだった。河本には助けてくれたなという気持ちがあるんだよ。だからといって、次もやりたいということはなかったけど」とバッサリ。映画は、欽ちゃんの無茶ぶりとプレッシャーに耐えながら、出演をやりきった河本が欽ちゃんにポンと肩を叩かれた瞬間、号泣するというのが見せ場の一つ。それにも、欽ちゃんは「あ、そこ流れているの? 河本、出てよかったな」。初メガホンの土屋監督は「河本は、(欽ちゃんが)“頑張ったな”といったら、舞台の袖から泣き始めた。「控室に呼んでよ」といったら、大泣きですよ」と解説するも、「あんまり覚えていないなぁ」と欽ちゃん。これには、河本は「あの涙はなんだったのだろう」と言うしかなかった。
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欽ちゃんは「そんなことよりも、今日来てくれた方がうれしいよ。なんで、(映画に)出てないヤツが来ているんだろうと思ったもん。いいやつだなって。しかも、一回の付き合いで」。土屋監督も「ここは、ドキュメンタリーの大事な、唯一の泣き所の部分です」と慌ててフォローしていた。それでも、「ここだけは見て、というのは土屋の無謀さだね。僕は、日活の人に会って、初めて映画だと知ったんだ。『あ、それを映画にしたの?』と聞いたもん。(日活の関係者には)『よく引き受けたな、俺と同じで、だまされたんじゃない?』と言ったら、『そういうこともある』って。土屋ちゃんというのは、いい友達を持ったな、と思うね。そこは見てほしい」とアピール。/映画は、2011年のある夜、土屋監督が欽ちゃんの自宅前で「視聴率30%の番組を作りましょう」といい、欽ちゃん宅に招き入れるところからスタートする。「うれしいこというなぁと思ったんだよ。うちでしゃべっているのも流れていると聞いたけど……。あれは、番組が終わった後、次をどういうものを作るか、しゃべっておいてと言われて、カメラを渡されたの。だから、遺言かなと思っていたんだ。まさか表に出ると思っていなかったら、すごいイヤなんだよ」。黄金期には合計視聴率100%を叩き出した欽ちゃん。舞台挨拶でも、独壇場だった。』
※子供のころは、欽ちゃんの番組をずっと観ていた記憶がある。
「なんでそうなるのっ!?」とか、「谷啓さん大当たりぃ~♪」
とか。わかるかなー?同世代の人なら解ってもらえるフレーズ
じゃないかと思うーーー。

●映画「We Love Television?」予告編


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※全部足すと100%超えるんだなー。そういう意味だったのか、「視聴率
 100%男」って!!

News Walker 萩本欽一、救急車姿まで撮った“T部長”土屋敏男に感服「若い人、ここだけは見て!」
『バラエティ番組「電波少年シリーズ」などの“T部長”としても知られる土屋の初監督作品となる本作。萩本が救急車で運ばれた姿も収められているそうで、萩本は「意識があまりなかったんで、誰が一緒に乗ったかも知らない。土屋くん、乗っていたの?どうして乗っているの?」と驚くが、なんとその様子を土屋監督はスマホでしっかりと撮っていたそう。
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萩本は「僕が映画に出た記憶にないものを、映画にしちゃった人がいる」と土屋監督をチクリと刺しながらも、「日活の人も騙されているかもしれない。そういう無謀なことをする、いい友達を持ったなという覚えはある。若い人に土屋ちゃんの勢いみたいなもの、これだけは見てほしい」と土屋監督の貪欲さに惚れ惚れ。土屋監督は「無謀に関しては自信があります」とうれしそうに目を細めていた。【取材・文/成田おり枝】』
※現在のバラエティ界は、ある種「欽ちゃんイズムを否定した創り」になっている。
否定した状態で、「面白くなくなってきた」と世間的には言われてきてるわけだ。
ここらで、かつての欽ちゃんメソッドも採り入れる柔軟さが必要なのかも知れない。

萩本欽一、密着ドキュメンタリー映画 土屋敏男監督と完成披露に登場

※かつて上岡龍太郎は言った。「テレビは、プロがプロの芸を見せる
ところではない。プロレベルの素人芸か、そうでなければプロが見せる
素の部分か。そういったギャップを見せることで生き残ってゆく」と。
欽ちゃんの笑いはそのどちらにも当て嵌まらない。素人の味を引き出す
プロとしての欽ちゃんが(神のごとき立場で)いるだけである。
プロが表立って出てこないから安心感がハンパない。いつしか素人参加
番組自体が消失してしまったが、個人的には未だにオモロい素人の出る
番組が好きだ。「探偵ナイトスクープ」とかネー。欽ちゃんスタイルが復
興すれば、いろんなタイプの番組が生まれる素養も出来ようーー。

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東野幸治との企画はたぶん不愉快なだけだったと思われ。(欽ちゃんの本音としてはw)

miyearnZZ Labo 宇多丸 熊本・鹿児島・那覇ツアーの事件と黄金コースを語る
『番組を作っていくプロセスと、その番組が実際にテレビでやって。しかもそれが、アナログ放送が終わって地上デジタル放送に切り替わるそのタイミングという。あと、もしくは震災も挟んでいるわけですよね。2011年。で、実際に放送して、さあ数字はどんぐらい取れたのか? そしてその後、欽ちゃんはどうするのか? というのを描いたドキュメンタリーで。
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これ、評判を人からものすごく……「これは物を作る人は全員見た方がいい。ドスンと来た」って言われて。これは本当に、僕も来ました。超食らいましたし、俺また全然見たいんだけど。とにかく、欽ちゃんという人は非常にテレビの番組で革命を起こしてきた人なんだけど。イノベーターというか、いろいろと作ってきて、とにかく常に思考停止に陥らないように考え続けているスタンスとか。あとはやっぱり、欽ちゃんにしかわからない一線。たとえば稽古をする時も、周りのそこにいる人全員が、いま欽ちゃんがなにを求めているのかがわからないんだけど。でも、欽ちゃんは「うーん、ここ、○○をこうやってみて。君、同じことを。そうじゃなくて、もうちょっと棒読みで……」とかっていろいろと試していって。で、いろいろとつかみかけてきたのかな?っていうのがあったところで、本番では「これ、今日やったことは一切やらないでね」みたいなさ。要は、笑いの鬼人としての欽ちゃんの面があったりとか。でも、やっぱり常にどんな細部にも目を配って、手を抜かず、そして新しいテクノロジーにも常に挑戦していって。ピンマイクを導入した男なわけですから、そんなのもやって。で、いろいろとあって。またこれがいいんだよな。
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次長課長の河本さんが参加して、河本さんが……やっぱり素晴らしいんですよ。河本さんが本当に優秀で、欽ちゃんにすごい褒められて。河本さんのその時のあれとかもすごく感動的ですし。そしてなにがやっぱり感動的って、我々は一連の……カウントダウンが画面の横に出てくるんだよね。放送まで、そして放送し終わった後に視聴率が出る日。現在の2017年の我々は欽ちゃんが再び30%番組を作り出したという歴史はないことを知っているわけじゃないですか。でもなお、カウントダウンがあって。で、欽ちゃんはどうするんだろう? どう考えるんだろう? みたいなところ。そこですよね。最後、岡村靖幸さんの『忘らんないよ』っていう曲が流れて。/で、ずっと欽ちゃんを正面から捉えて、エンドロールなんですけど、ドローンなんだよね。グーッと後ろに上がっていくショットがあるんですけど。もうね、そのショットの流れを思い出すだけで泣きそうになっちゃう。これ、本当におすすめですよ。東京でも渋谷のヒューマントラストシネマとかでやっていたりすると思いますので、絶対におすすめですね。』
※「細かすぎる選手権」での、とんねるず石橋に楯突く傲慢なキャラ・イメージ
もあったので、終始欽ちゃんリスペクトに徹した今回の河本は、イメージアップした
んちゃう~?

ダウンタウン松本人志萩本欽一の笑いは俺の好きな笑いではない」

高須光聖がこの映画に構成作家として呼ばれているので、松っちゃんと
その話をしてくれてるかと期待してしまったヤー。「好きではない」と言い
ながら、「松本家の休日」なんて、欽ちゃんの家族コントに近いセンス
(しかも欽ちゃんを超えれていない)だと思うンダケドーーー。

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※もっともっと、欽ちゃんの悪魔の部分を見せてほしかったかなー?
関根勤さんとかも制作に絡んでほしかった気はする。。。

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※正直、「良い子悪い子普通の子」みたいなノリは、もうキツいと思う。
でも、今回は、次長課長・河本の踏ん張りで、人間ドラマとして十分見
られるものに仕上がっていた。その辺は、結局演者次第ってことか・・・。

原一男のネットde「CINEMA塾」#002 ゲスト:土屋敏男監督

※欽ちゃんを怒らせるシーンは蛇足だった、と認める土屋さん。

ツイッター 萩本欽一(NHK欽ちゃんのアドリブで笑)
※「コラ画像選手権」とかやってんのな。ま、素人さんの投稿ってゆー企画
は「欽ドン!」がパイオニアなんだろうけど。素人クオリティはきっと随分
上がってるんだろうなーとは思う。

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※ニコ動などのメディアと、かつての「欽ドン」の手法が、うまく結合
するかどうかはいまんとこ不明だ。(試行錯誤状態がしばらく続くと思う)
でも、、、現在の閉塞気味のテレビ界に、一石は投じたんじゃないだろうか。

岡村靖幸「忘らんないよ」


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※ラストにこの曲が流れ、余韻を残してエンディングを迎える・・・。
最後に伝わってきたのは、欽ちゃんの人間力、そして奇跡を信じる
貪欲な姿勢だ。そのまんまでは30%番組には繋がらないだろうが、
精神的な部分で今の時代に必要な何かを提示してくれたように思う。
惰性でテレビに出続けてる類のタレントさんは必見の映画だゼイ!!

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☆書籍「元気が出る言葉」&サライ「日めくり漱石」をお届け♪

(詳細は、1月2日の日記を参照のこと!)

☆さ~~て、本日7月2日(月)の、「元気が出る言葉」は~?

『大部分の人たちが行く道は楽だが、僕たちの道は苦しい。-でも、行こうじゃないか。/その夢があなたの運命であるあいだは、あなたは夢に忠実であらねばなりません。』
出展:どちらも「デミアン」(新潮社)
発言者:ヘルマン・ヘッセ (ドイツの小説家 詩人 1877年7月2日~1962年8月9日)
『解説:「新約聖書」~「マタイ福音書 第7章第3節」~に、“狭き門より入れ、滅びに至る門は大きく、その道は広く、これより入る者多し”とある。楽な道ではなく、苦しい道へ行こう。これが青春の正しい選択だ。そして夢にこそ忠実でありたい。デミアン!青春の精神世界を描いた一等の作品だ。なにか青春小説を読みたいと思ったら、「デミアン」はお勧めだ。』

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◎関連書籍、楽曲、映画(ドラマ)などなど・・・

Amazon.co.jp デミアン (新潮文庫) ヘッセ (著), 高橋健二(翻訳)
『■内容紹介:ラテン語学校に通う10歳の私、シンクレールは、不良少年ににらまれまいとして言った心にもない嘘によって、不幸な事件を招いてしまう。
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私をその苦境から救ってくれた友人のデミアンは、明るく正しい父母の世界とは別の、私自身が漠然と憧れていた第二の暗い世界をより印象づけた。主人公シンクレールが、明暗二つの世界を揺れ動きながら、真の自己を求めていく過程を描く。/■登録情報:/文庫 223ページ /出版社 新潮社; 改版 /言語 日本語 /ISBN-10: 4102001026 ISBN-13: 978-4102001028 /発売日 1951/12/4 /梱包サイズ 15.2 x 11.6 x 1 cm /おすすめ度 5つ星のうち 4.0 /■カスタマーレビュー:無意味への献身 5つ星のうち5.0 「ティーンの記念碑」2015年8月16日・・・主人公のシンクレールと同じ、いろいろなことに気づき、揺れ始めた18歳のころこの本を読んだ。まさに自分のために書かれたような本だと思ったのである。内容が一番心に訴えかけてくるティーンの時期に読んだことも明らかに大きかった。自分のために書かれたような本だと思える本が本当の名著なのだと誰かが言っていた。そういう本に出会うことは一生のうちなかなかない。僕も大学生になってからかなり乱読しているが、いまだ「デミアン」につぐ一冊には出会えていないのである。どんな人になりたいのか?とか、どんな人を目標にしたいのか?という命題は違っている。人は、本当の自分自身になるために生きるのだ。そして、それが一番難しいことなのだ。そう、ヘッセに教わった。』
※ヘッセと聞けば、「車輪の下」しか思いつかない。典型的な、テスト知識のみの丸暗記教育の成果であるww

★「デミアン」に興味を持ったけど、読む時間がないという方向けに。。。
Book Styles 救いはどこにある?『デミアン』ヘッセのあらすじを簡単に紹介!
『【あらすじ/要約】ジンクレールは光の世界と、闇の世界という二元的な世界が存在することに対して疑念の念を抱く少年です。ある日ジンクレールは、見栄を張るために嘘の武勇伝を披露してしまいます。その結果、ジンクレールはクローマーという人物から口止め料を請求されてしまうことになります。口止め料を請求されたものの、幼いシンクレールには、そんなお金はありませんでした。クローマーからの脅迫に悩まされ続けていた時、1人の転校生が学校にやって来ます。彼の名前はデミアンデミアンはジンクレールが脅迫されているという話をきき、シンクレールがクローマーに脅迫をされないように働きかけます。クローマーはその後、ジンクレールを脅迫することはなくなります。時が経過し、ジンクレールとデミアンはそれぞれ別の学校に行くことになり、疎遠になっていきます。そして数年後、彼らは再会するのでした。
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【善と悪、2つの世界】ジンクレールは2種類の世界が存在することに疑問を抱きながら生きていました。2種類の世界とはすなわち善の世界と悪の世界です。「善の世界・・・家族や正義に代表される秩序が保たれている世界」「悪の世界・・・苦しみや裏切りのある暗い暴力的な世界」/ジンクレールは光の世界で生きていた少年でした。しかし、その世界は突然、音を立てながら崩壊していくことになります。きっかけは、他愛もない嘘。しかし、それが原因となって、ジンクレールはクローマーという上級生から脅迫を受けるようになってしまいます。秩序が保たれていた世界から突如、暴力的な世界へと足を踏み入れてしまったジンクレール。善の世界と悪の世界という2種類の世界を知ったジンクレールは、自分自身の人生を考え、歩き始めます。
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【救いは自己の中に】先ほども少し触れましたが、ヘッセが「デミアン」を書き上げたのは1919年です。1919年は第一次世界大戦終結した翌年ということになります。当然のことながら、戦争はキリスト教徒のヘッセにも強い影響を与えました。ヘッセは第一次世界大戦によって、妻と別れることや、住む場所を変えることを余儀なくされてしまい、精神はかなり不安定だったと言われています。同じキリスト教徒であるにも関わらず、戦争で敵対関係になり、互いに血を流し合うという状況も目の当たりにしたのでしょう。戦争によって重苦しい状況の中、ヘッセは自己の中に救いを見出しました。それは、戦争によって、自己の外の世界で救いを得られなくなったことに対しての一種の処世術だったのかもしれません。自分がなぜ生きているのかは、外側から与えられるものではなく、自分自身の中から見つけ出さなければならない。本書「デミアン」には、自分の人生を悲観的に見つめるのではなく、自分の人生と正面から対峙したヘッセの決意と力強さがあります。』

●【感動名言】一瞬で人生が変わる名言集  ヘルマン・ヘッセ


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☆本日の、『日めくり漱石』は・・・
サライ 「夏目漱石」の記事一覧

“奥さんこの帽子は重宝ですよ、どうでも言うことをききますからね(『吾輩は猫である』より)”

【1905年7月2日の漱石】「吾輩は猫である」の原稿料で念願のパナマ帽を買う

今から111年前の今日、すなわち明治38年(1905)7月2日、38歳の漱石は東京・本郷で念願のパナマ帽を購入した。もともとがお洒落な漱石先生。夏を迎え「帽子がほしい」と思っているところへ、『吾輩は猫である』の稿料15円が入った。そこで奮発して、稿料をそっくりそのまま帽子の代金に充てたのであった。/パナマ帽は、南米エクアドル産のトキリャ草という草を編んで作った夏用の帽子。パナマ港から出荷されたため、その名がついたとも言われている。形状も優美で上品、被り具合もよい。その上、肌理(きめ)の細かい草で編まれているため、簡単に折り畳んで鞄や懐の中にしまうことができた。この頃、上流紳士の間では、もっとも人気のある夏帽子であった。

漱石先生、ちょっと得意になって、門弟の野村伝四へこんな葉書をしたためた。《一 パナマ製夏帽一 右者(みぎは)本日、本郷唐物店にて相求め、爾後(じご)カブッテあるき候間(そろあいだ)御驚きにならぬよう致したく、右御届け及び候なり》:お気に入りのパナマ帽を手に入れた、今日からかぶって歩くことにするから、驚くなよ、という宣言なのである。/手紙文中、「本郷の唐物店」というのは、いまも本郷三丁目の交差点付近で営業を続ける老舗洋品雑貨店「かねやす」のことをいったのかもしれない。「かねやす」は小説『三四郎』にも登場する。

すでに江戸時代にはその場所にあり、「本郷もかねやすまでは江戸の内」という古川柳でも知られる。江戸期享保年間の大火のあとの復興で、かねやすから南側は耐火のため土蔵づくりとし、屋根も茅葺きでなく瓦葺きとするよう求められた。その北側は相変わらず板づくり、茅葺き屋根の家々が並んでいたため、見た目の印象から、かねやすまでが「江戸の内」で、そこから北側は「江戸の外」のように受けとめられたのだ。実際の境界線を示す「朱引」は、もっと北側に引かれていたという。

さて、パナマ帽を手に入れ上機嫌の漱石先生だったが、数日後、思わぬカウンターパンチを浴びる。南京の師範学校へ赴任している友人の菅虎雄が夏休みで帰京し、漱石のもとへ遊びにきた。その時さりげなく被ってきたのがパナマ帽。しかも、よく見ると、漱石自慢のものより一段と上等な品なのである。「こりゃあ、1枚50銭の原稿を書いているより中国へ出稼ぎに出た方が得策ということだな」漱石先生、半ば嘆息しながら、そんな言葉を呟くのだった。

細かすぎて伝わらない関連動画など

(「パナマ帽」「漱石」で動画検索してみました!!)

漱石の美学(パナマ帽)


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※これは『ユメ十夜』第8話の藤岡弘、さん。

●朗読】夏目漱石吾輩は猫である』(95)

パナマ帽のもてあそび方が、あたかも猫が様々なものにじゃれつく様子を思い起こさせるのが興味深い。それにしても、高級品のパナマ帽がこれほど変化自在であるとは、主人や細君ならずとも驚きを禁じ得ない。

ジョニーAのつぶやき:パナマ帽といえば、工藤直子さんのエッセイでよく登場するお父上が、第一礼装にしているというエピソードが思い出されるヤ。