東映俳優養成所の「殺陣講座」盛況!(福本清三さんら指導)

日刊スポーツ 「5万回斬られた男」福本清三らの殺陣講座が人気
『京都の技を直伝します-。「5万回斬られた男」の異名を持つ俳優福本清三(75)らが指導する東映俳優養成所(京都市)の「殺陣(たて)講座」が好評だ。4月に初心者向けと現役俳優向けの2クラスが新設され、福本らが所属する東映京都撮影所の殺陣集団「東映剣(つるぎ)会」のメンバーが実技指導する。「刀の切っ先に神経を集中させて」。東映京都撮影所の稽古場に福本の声が響く。毎週金曜日の夜に開かれる現役俳優向けの殺陣講座。刀を持った若手俳優が「とりゃ~」と斬りかかると、身をかわした福本は、直後に斬り込まれ、絶命…。「昔から切っ先三寸で斬るといい、切っ先に集中すると刀が伸びる」。福本の説明に若手俳優がうなずいた。/各クラスは週1回、約2時間、夜間に開講している。講座はチケット制(1回4000円)。初心者には時代劇の基礎を学ぶ講座もある。今夏は京都でも連日、猛暑日が続くが、受講生のまなざしは真剣だ。開講約4カ月、受講希望者が増え続けているため、講座の増設も検討している。
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  時代劇の格闘シーンで必要な殺陣の講座を新設した背景には、時代劇人気の復活がある。民放地上波ではほとんど制作されなくなった時代劇だが、BS、CS放送を中心に増えている。一方で立ち回りをする俳優の高齢化が進み、時代劇の担い手が不足してきた。/東映京都撮影所俳優部の進藤盛延部長(58)は「撮影所がある京都で培われてきた京都の技を、次世代に伝えたい」と意気込む。制作会社などの枠を外して、関西全体で時代劇の殺陣をできる人材を育てようというのが出発点だ。受講中の俳優西村諭士(さとし、41)は「技術を身につけ、いつか時代劇に出演したい」と力を込めた。60年以上の伝統のある殺陣集団の技が、継承されている。【松浦隆司】

 福本清三(ふくもと・せいぞう)1943年(昭18)2月3日、兵庫県香美町生まれ。58年、東映京都撮影所に入る。「水戸黄門」「暴れん坊将軍」などに斬られ役として出演。03年公開のトム・クルーズ主演の米映画「ラストサムライ」に出演。04年日本アカデミー賞協会特別賞。初主演映画「太秦ライムライト」(14年)でファンタジア国際映画祭の最優秀主演男優賞。172センチ、50キロ。

 東映剣(つるぎ)会 東映京都撮影所を拠点として1952年(昭27)に発足した、殺陣技術を駆使する俳優や殺陣師からなる集団。「大菩薩峠」など60年前後の時代劇映画の黄金期には、殺陣に優れた100人を超すメンバーがいた。その後の「仁義なき戦い」など任侠(にんきょう)映画の人気を支えてきた。現在、30~80代の18人が所属している。』

シネマトゥディ “5万回斬られた男”福本清三、斬られ役の美学 2017年8月25日
『「5万回斬られた男」の異名を持つ俳優の福本清三が25日、大分県由布市で開催中の第42回湯布院映画祭の特別上映作品『時代劇は死なず ちゃんばら美学考』シンポジウムに中島貞夫監督、女優の山本千尋らと共に出席、斬られ役の美学を語った。
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本作は、東映京都撮影所出身の中島監督が、京都で制作された時代劇の魅力や神髄について解説するドキュメンタリー。時代劇の斬られ役として長きにわたるキャリアを持つ福本は、「やはり、ちゃんばらは死にざまが一番だと思って、東映で斬られてきました。斬られる方にも色気がないとダメ。美学があってもいいんじゃないかなということがやっと最近、わかるようになってきました」としみじみ。さらに「斬られるということは大変なこと。殺陣師も(動きの)手は教えてくれるが、死に方は教えてくれないから。いろいろと一生懸命やりましたけど、今でも難しいなと思っています」と付け加えた。さらに福本は、「倒れるときはバーンと倒れること。いたくなさそうな倒れ方は、アカンと思う。お客さんが見ていて、絶対にあいつ頭打ってるで、と思わせるような痛みを感じてもらいたい。もちろん若い子にそうせいと言ったことはありませんが、僕はそれを心がけようと思っています」と語る。
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  一方の中島監督も「実は僕と彼(福本)は、映画界に入ったのが同じ年なんです。彼は15歳の時、僕は大学を出てからという差はありましたが、キャリアは一緒。とにかく彼は礼儀正しくて、われわれの目から見ても、真面目ひと筋でやってきた人。東映京都での作品は五十何本かありますが、そのうちの半分以上は彼に出演してもらっていると。そういう関係です」と説明する。そして中島監督は、殺陣のうまい俳優として若山富三郎さん、中村錦之助さん、そして故・松方弘樹さんの父である近衛十四郎さんの名前を挙げる。「中でも殺陣の迫力という意味では、弘樹ちゃんのお父さんが一番ですね。弘樹ちゃんは本当におやじさんを尊敬していた」と切り出した中島監督は、『太秦ライムライト』のクライマックスで行われた福本と、松方さんの殺陣の例を挙げながら、「あの映画では年寄り同士の殺陣が一番迫力あった。若ければいいものではなく、刃と刃が交錯し、その瞬間に火花が飛び散るかどうかなんですね。殺陣というのは単なるパフォーマンスではなく、殺し合いなんだと。殺し合いというのはある種の悲劇性を帯びますよね。それが今の日本映画には欠けている。キャリアというのはバカにできないものなんですよ」と熱弁。その話を聞いた山本は「わたしはデビュー作が太秦で、多くのことを学びました。だからわたしもいつか太秦に帰って時代劇を盛り上げたいです」と意気込み、会場の拍手を浴びた。
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さらに福本も「ちゃんばらというのは目の芝居なんですよ。僕も入りたての頃は、(往年の巨匠)内田叶夢先生に目に力が入っとらん、目を見開いて見ておけと。そういうことを習いましたね。もちろん最初はケガさせたらいけないから、なかなか主役を相手にすることができなかった。段階を経て、殺陣師さんから、福本なら大丈夫だなと思ってもらうまでに20年はかかる。僕は下手だからそれくらいかかったけど、先生(近衛十四郎)に斬られて、松方のお兄ちゃんにも斬られて。僕は親子2代に斬られたわけです」と誇らしげに振り返った。(取材・文:壬生智裕)』

動画で振り返る、福本清三先生!


●懐かしい「探偵ナイトスクープ」から貼ろう。(15分15秒)

※いまこの動画を観ると、なんだか泣けてしまう。小枝探偵の小馬鹿に
した言動からして、これはいろいろとヤバい・・・

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※いまや、清三株急上昇、小枝株急暴落w

◎カナダ・モントリオールの第18回ファンタジア国際映画祭で最優秀作品賞を、
そして日本人初の最優秀主演男優賞を受賞した『太秦ライムライト』に結実。

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デイリー 斬られ役の福本清三、米映画祭で受賞 2014年7月29日
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『“5万回斬られた男”こと、斬られ役俳優の福本清三(71)が役者人生55年目にして初主演した映画「太秦ライムライト」が、ニューヨークアジアンフィルムフェスティバルで最優秀観客賞を受賞したことが29日、発表された。/米ニューヨークでアジアの最新映画を上映する映画祭で、今回が13回目。同賞は13年の「変態仮面」、12年の「逆転裁判」など、邦画の受賞が続いている。/吉報に福本は「(撮影した)京都の地を遠く離れたニューヨークの観客のみなさまによって選ばれる賞を戴いたことは、何よりの光栄です」と喜びのコメントを寄せた。』

●『太秦ライムライト』ラストシーン

※実に美しい。まさに桜のような散り際だ!!

山本千尋さんのインスタより
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※なんだかんだで、やっぱり『ラストサムライ』でトムちんに気に入って
貰えたことが一番の幸運だったんだよなーーー。


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※のけぞり角度はやや浅めにて候。

松平健福本清三・パチンコ暴れん坊将軍3 ─CM─


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※見よ、この年季の入った「反り死に」を!!

水戸黄門公式インスタより
mitokomon.tv

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水戸黄門のご老公の役も似合いそうな年齢になられた清三先生。。。

●【時代劇MAD】福本先生フィーバー

※殺陣講座で講師として活躍する福本先生の所に、もう一度取材に行って
欲しいもんだな~~。ナイトスクープの、小枝元探偵に・・・

●まとめ 斬られ屋清三一代記


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☆書籍「元気が出る言葉」&サライ「日めくり漱石」をお届け♪

(詳細は、1月2日の日記を参照のこと!)

☆さ~~て、本日7月30日(月)の、「元気が出る言葉」は~?

『かなしみはだれでももっているのだ。わたしばかりではないのだ。わたしはわたしのかなしみをこらえていかなきゃならない。』
出展:「でんでんむしのかなしみ」
発言者:新見南吉 (1913年7月30日~1943年3月22日)
『解説:新見南吉は結核で29歳の時亡くなった。感動の名作「ごんぎつね」を書いたのはまだ10代だった。「手ぶくろを買いに」もそうだが、彼の作品はかなしみとあたたかさ、さびしさとやさしさがいつも抱き合わさっている。これが南吉のまなざしだ。「でんでんむしのかなしみ」は背中の殻に悲しみをもっていると気付いたでんでんむしたちの交感を描いた小品だ。』

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※「おじいさんのランプ」なども好きだが、、、「でんでんむしのかなしみ」
は知らなかったナァー。

◎関連書籍、楽曲、映画(ドラマ)などなど・・・

デンデンムシノ カナシミ 全文
『イツピキノ デンデンムシガ アリマシタ。アル ヒ ソノ デンデンムシハ タイヘンナ コトニ キガ ツキマシタ。「ワタシハ イママデ ウツカリシテ ヰタケレド、ワタシノ セナカノ カラノ ナカニハ カナシミガ イツパイ ツマツテ ヰルデハ ナイカ」 /コノ カナシミハ ドウ シタラ ヨイデセウ。デンデンムシハ オトモダチノ デンデンムシノ トコロニ ヤツテ イキマシタ。「ワタシハ モウ イキテ ヰラレマセン」ト ソノ デンデンムシハ オトモダチニ イヒマシタ。「ナンデスカ」ト オトモダチノ デンデンムシハ キキマシタ。「ワタシハ ナント イフ フシアハセナ モノデセウ。ワタシノ セナカノ カラノ ナカニハ カナシミガ イツパイ ツマツテ ヰルノデス」ト ハジメノ デンデンムシガ ハナシマシタ。/スルト オトモダチノ デンデンムシハ イヒマシタ。「アナタバカリデハ アリマセン。ワタシノ セナカニモ カナシミハ イツパイデス。」ソレヂヤ シカタナイト オモツテ、ハジメノ デンデンムシハ、ベツノ オトモダチノ トコロヘ イキマシタ。スルト ソノ オトモダチモ イヒマシタ。「アナタバカリヂヤ アリマセン。ワタシノ セナカニモ カナシミハ イツパイデス」ソコデ、ハジメノ デンデンムシハ マタ ベツノ オトモダチノ トコロヘ イキマシタ。カウシテ、オトモダチヲ ジユンジユンニ タヅネテ イキマシタガ、ドノ トモダチモ オナジ コトヲ イフノデ アリマシタ。/トウトウ ハジメノ デンデンムシハ キガ ツキマシタ。「カナシミハ ダレデモ モツテ ヰルノダ。ワタシバカリデハ ナイノダ。ワタシハ ワタシノ カナシミヲ コラヘテ イカナキヤ ナラナイ」/ソシテ、コノ デンデンムシハ モウ、ナゲクノヲ ヤメタノデ アリマス。』

Amazon.co.jp でんでんむしのかなしみ 単行本 新美南吉(著), かみやしん(イラスト)
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『■内容(「MARC」データベースより):「かなしみはだれでももっているのだ。わたしばかりではないのだ。わたしはわたしのかなしみをこらえていかなきゃならない」 表題作のほか、「里の春、山の春」「木の祭り」「でんでんむし」を収録。/■登録情報:/単行本 29ページ /出版社 大日本図書 /ISBN-10: 4477010230 ISBN-13: 978-4477010236 /発売日 1999/7/1 /梱包サイズ 22.2 x 20.8 x 1.6 cm /おすすめ度 5つ星のうち 4.3 /■★★★ 5つ星のうち5.0 「素敵な絵本です。」2017年12月14日・・・自分用に購入しました。優しいで絵と文章に癒されます。本棚からたまに出して読みたくなる1冊です。』

新美南吉の童話朗読 動く絵本/日本の昔話「ごんぎつね」(3分38秒)


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※めっちゃかいつまんでまとめた「ごんぎつね」w

●「てぶくろをかいに」(8分34秒)


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※これはほのぼのと心が温まるシーンですーー。絵柄が良いですナー

☆本日の、『日めくり漱石』は・・・
サライ 「夏目漱石」の記事一覧

“時代後れの人間は東京のような烈しいところには向かない(『虞美人草』より)”

【1912年7月30日の漱石】「明治」という時代の終焉に直面する

今から104 年前の今日、すなわち明治45年(1912)7月30日、漱石は深い感慨をもってひとつのニュースを受け止めていた。深夜の午前零時43分、明治天皇が心臓麻痺で崩御していた。午前1時、皇太子嘉仁親王践祚の式が執り行われ、続いて《明治四十五年七月三十日以降ヲ改メテ大正元年ト為ス》という勅書が出され、元号が大正へと変わった。/漱石が自身の人生の歩みを重ねてきた「明治」という時代が、ここに終焉を迎えた。漱石が深い感慨をもって受け止めるのも当然のことであった。

明治天皇の体調悪化は旧知のことで、7月20日には新聞の号外で、尿毒症のため昏睡状態に陥ったと報じられていた。このとき、当局が隅田川の花火を含む川開きを禁じたことに漱石は違和感を覚えた。当日の日記に漱石はこう記している。《川開きの催し差留られたり。天子未だ崩ぜず川開を禁ずるの必要なし。細民これが為に困るもの多からん。当局者の没常識驚くべし。演劇その他の興行もの停止とか停止せぬとかにて騒ぐ有様也。天子の病は万臣の同情に価す。然れども万民の営業直接天子の病気に害を与えざる限りは進行して然るべし。当局これに対して干渉がましき事をなすべきにあらず。もし夫(それ)臣民衷心より遠慮の意あらば営業を勝手に停止するも随意たるは論を待たず。然らずして当局の権を恐れ、野次馬の高声を恐れて、当然の営業を休むとせば表向は如何にも皇室に対して礼篤く情深きに似たれども、その実は皇室を恨んで不平を内に蓄うるに異ならず》

何かというと当局や周囲の圧迫で過剰な自粛に縮こまる性向は、今も引き続く日本の悪癖なのかもしれない。それでは却って、庶民の暮しや経済活動に支障が生ずるだけではないかと、漱石は見るのである。陸軍大将の乃木希典とその妻・清子が殉死したのは、それからひと月余りを経た大正元年(1912)9月13日のことだった。この日は明治天皇大葬の日で、午後7時40分頃、柩をのせた車が青山斎場に向かって宮城を出る際に弔砲を鳴らした。それを合図とするように、乃木夫妻は自刃したのである。

漱石は同時代人として、この殉死をも、ある程度の理解とともに受けとめた。小説『心』の中に、漱石はこんな言葉を綴っている。《夏の暑い盛りに明治天皇崩御になりました。そのとき私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟(ひっきょう)時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました》《御大葬の夜私はいつもの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知の如く聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです》/文中の「私」は、物語の登場人物としての「先生」であるが、そこには漱石自身の気持ちも映し出されていたように思えるのである。

細かすぎて伝わらない関連動画など

(「明治」「大正」で動画検索してみました!!)

●【明治、大正時代】昔の日本人女性がきれいすぎる件


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※髪型と着物とで美人度は3割り増しぐらいになっていると思われ・・・

明治天皇崩御 (1分38秒)


ジョニーAのつぶやき:昭和から平成へ、そして平成から〇〇へ。我々は二度、元号が変わる瞬間を目撃することになりそうだ・・・