ここ最近の外食状況・・・

イメージ 1

※姫路テラッソの「とんかつ 夢の大地」のデラックスセット♪
メチャウマーΣ(゜Д゜)♪←ミク友 nontaくんの真似しんぼ。

イメージ 2

※姫路駅地下グランフェスタ「ぽっぽ家」の海鮮丼。
ネタが新鮮で超美味しい~~~~ぃ!(by スマスマの中居クン風)

イメージ 3

※やっと入れた、老舗の「やま義」のあなごめし(上)。ここ、いっつも
行列ができていて、入りづら~~~い雰囲気なのだった。
思い切って、休みの日の閉店間際に入って大正解ぃ~~♬

イメージ 4

※これは最近よく行く、「王将加古川東店」のオリジナル定食メニュー。
唐揚げ&シューマイの容器がお洒落ザーンス。

イメージ 5

山陽電車近くにある「姫路食堂」のおでん定食。素朴な味わいが
癖になるヨーーーゥ。

イメージ 6

※これはボリューム満点の、「2国ラーメン東加古川店」のぼっかけセット。
前日、TVでぼっかけ特集やっていたのを見て、無性に食いたくなったのだ。
姫路のイオンにも、本場・神戸長田のお店の出張店舗があると情報を仕入
たので、今度行ってみるべし、見るべし、見るべし~~~!!ヤワ。

★今日は以上で。ごっちそうさんでしたぁ~~~~~~~(๑′ᴗ‵๑ )♪

☆書籍「元気が出る言葉」&サライ「日めくり漱石」をお届け♪

(詳細は、1月2日の日記を参照のこと!)

☆さ~~て、本日10月12日(金)の、「元気が出る言葉」は~?

『我死なば 焼くな埋めるな 野に捨てて 飢えたる犬の 腹を肥やせよ』
出展:?
発言者:歌川(安藤)広重 浮世絵師 1797年?~1858年10月12日
『解説:江戸時代に次々と天才浮世絵師が現れるが、広重もその一人。海外に与えたインパクトも凄まじく、ゴッホやモネのオマージュぶりはすごい。「東海道五十三次」はどの一枚を見ても驚くが、なかでも雪の蒲原や雨の庄野など、静と動、遠と近、寸分の無駄もない見事な作品だ。生涯2万点以上という多作家で62歳で亡くなる。この言葉のように言い切れる、一度きりの達成しきった人生を歩みたいものだ。』

イメージ 7


◎関連書籍、楽曲、映画(ドラマ)などなど・・・

Amazon.c.jp 広重「東海道五十三次」の秘密―新発見、その元絵は司馬江漢だった (ノン・ブック) 新書 対中如雲(著)
『■内容(「MARC」データベースより):新たに発見された、もう一つの「五十三次」。その作者の名は司馬江漢。あの広重の名作は、はたしてコピーだったのか? 二つの「東海道五十三次」全55点を徹底比較する。■登録情報:/新書 227ページ /出版社  祥伝社 /言語 日本語 /ISBN-10: 439610372 ISBN-13: 978-4396103729 /発売日 1995/10/1 /梱包サイズ 17.4 x 10.6 x 2 cm /おすすめ度 5つ星のうち 2.6 /Amazon 売れ筋ランキング: 本 - 395,034位 4位 ─ 安藤広重の本 44位 ─ ノンブック 136位 ─ 浮世絵・絵巻物 /■カスタマーレビュー:榎戸誠 5つ星のうち5.0 「広重の「東海道五十三次」には手本となった絵があった」2012年1月14日・・・【定説への挑戦】ビジネスパースンが、長らく定説とされてきたビジネスのあり方に異議を呈するには、勇気が必要である。しかし、仕事であれ、趣味の世界であれ、定説への挑戦が知的興奮を呼び起こすことは間違いない。【広重の秘密】古き日本への郷愁をかき立てる、あの歌川(安藤)広重の浮世絵「東海道五十三次」が、広重のオリジナルではなく、広重より50年前の画家・司馬江漢(こうかん)の画集「春波楼画譜」を手本にして描かれたものだ、と突然言われて、素直に納得する日本人がいるだろうか。
イメージ 8

「広重~東海道五十三次の秘密~新発見、その元絵は司馬江漢だった」(對中如雲著、祥伝社・NON BOOK)の内容は、緊迫感に満ちている。著者の主張を打ち破ろうとする読者にとっては、かなり手強い本である。己の主張に対する著者の自信のほどは、広重の絵55枚(出発点の日本橋+53次+終点の京都)を下段に、それぞれに対応する江漢の絵55枚を上段に並べて、比較検討を徹底的に行っていることに見てとれる。しかも、これら110枚全てがカラーなのだから、浮世絵に興味を持っている者には堪えられない。/著者の検証は緻密で多岐に亘るが、その主張は3点――●両者の絵がこれほどよく似ているのは偶然とは言えない、●江漢が亡くなったのが1818年、広重の「東海道五十三次」が刊行されたのが1833年だから、江漢の方が広重の絵を手本にしたという考え方は成り立たない、●広重は東海道を旅したことがないから、手本無しに「東海道五十三次」を描くことはできない――に要約することができる。
イメージ 9

だからといって、著者が広重の行為を盗作だと非難しているわけではない。浮世絵制作は、絵師の描いた絵を元にして彫師(ほりし)が版木を彫り、それを摺師(すりし)が版画作品として最終的に仕上げていく共同作業であり、絵師が他人の絵を手本にして絵を描くことは当時の常識であったからである。/著者は、広重が東海道を歩いていない以上、風景画家としての才能ではなく、類稀なグラフィック・デザイナーとして評価されるべきだと述べている。広重の手によって、より親しみ易く、ユーモアたっぷりに、そして、版画の特性を生かしてアレンジされた「東海道五十三次」は、当時の庶民のガイドブックとして人気を博し、ゴッホピカソらに大きな影響を与え、今なお私たちを魅了してやまないのである。』

東海道五十三次 歌川広重 浮世絵スライドショー


●「北斎」が波打ち「広重」が飛び跳ね!動く浮世絵展(17/01/28)


イメージ 11

※これはちぃ~~と邪道な気がするなーーー。

Japaaan これは珍しいっ!浮世絵師 歌川広重によるスケッチ画集「浮世画譜」可愛い猫ちゃんも登場!
『江戸時代の浮世絵師 歌川広重はもはや説明の必要もないかと思いますが、世界的にも有名な浮世絵師でゴッホやモネにも影響を与えた絵師として紹介されることも多い人物。歌川広重は風景画を得意とし、代表的な作品には東海道五十三次や名所江戸百景があります。みなさん一度は目にしたことがあるでしょう。
イメージ 12

今回紹介するのは歌川広重によるスケッチ画集なのですが、広重の錦絵や肉筆浮世絵は有名作品も多くよく目にしますが、スケッチ画集というのはかなり珍しいのではないでしょうか。作品は3巻からなる「浮世画譜」(うきよがふ)というもの。この画集の作者は渓斎義信(10/15追記: 渓斎英泉[けいさいえいせん]の間違いでした。読者さまよりご指摘いただきました。)という江戸時代後期に活躍した絵師なのですが、1〜3巻のうち3巻に限っては歌川広重が担当しているようなのです。渓斎英泉と歌川広重による合作はこれに限ったことではなく「木曽街道六十九次」という作品も2人による合作なのだそうです。/歌川広重が担当した浮世画譜 3巻は人物や動植物が絵手本というかたちでさらりさらりと描き上げられています。その中でも秀逸なのが1ページに24匹もの可愛い猫ちゃんが描かれた部分。
イメージ 10

これは可愛すぎるぞ!シンプルなスケッチではありますが猫のしぐさを見事に表現仕切っています。この猫のページはファンも多くグッズのデザインとして採用されることも多いんです。歌川広重と猫と言えば名所江戸百景「浅草田甫酉の町詣」に登場する猫しか印象がありませんでしたが、可愛い猫ちゃんをこんなに描いていたんですね。』
※猫ちゃん絵で、ずいぶん歌川広重が身近に感じられるようになった!

☆本日の、『日めくり漱石』は・・・
サライ 「夏目漱石」の記事一覧

“一つ送別会を開こう、君を愉快にするために(『明暗』より)”

【1895年10月12日、28歳の漱石】東京へ帰る友・正岡子規に送別の句を贈る

今から121年前の今日、すなわち明治28年(1895)10月12日、28歳の漱石正岡子規の送別会に出席した。会場は愛媛県松山市二番町の「花廼舎(はなのや)」という料理屋。漱石の下宿している上野家の離れ、名づけて「愚陀仏庵」での50日に及ぶ同居・静養生活に終止符を打ち、子規はいよいよ東京に帰ろうと決意していたのである。出席者は、柳原極堂をはじめとする俳句結社「松風会」の面々。漱石と子規を含め総勢18名の会となった。

子規の『病餘漫吟』の中に、「留送別会」と題して《明治二十八年十月十二日松風会諸子余のために祖筵(そえん)を花廼舎に開く 競吟終り酒めぐる事三行戯れに坐中の諸子の雅名を読み込みて俳句十有七首を得たり》とあるのは、まさにこの日のこと。花廼舎に集って皆で俳句を詠み合い、酒も酌み交わし、その後、子規は風流心から、仲間17人ひとりひとりの雅号を織り込んで作句をしたというのである。いかにも子規らしい。

漱石は、席上、子規のために次のような送別の5句を詠んだ。
《疾く帰れ母一人ます菊の庵》
《秋の雲只むらむらと別れ哉》
《見つゝ行け旅に病むとも秋の不二》
《この夕野分に向て分れけり》
《お立ちやるかお立ちやれ新酒菊の花》

東京で待つ母親のもとに早く帰りなさい。折角だから旅の途中、天下の明峰・富士も仰いでいけばいい。病を抱えていても見るべきものは見ていくさ。さあ、お立ちなさい。別離の哀しさを飲み込んで、友の背中を押し励ますような心持ちがあふれている。一方の子規の留別の句。《送られて一人行くなり秋の風》

そこには、友人たちへの感謝の念とともに、一抹の淋しい風が吹いている。実際に子規が松山を離れ東京へ向かったのは、この7日後。漱石のもとに残された置き土産は、ともに過ごした友情の日々の余韻と、子規が勝手にとって食べまくっていた鰻の蒲焼の出前の勘定書き。漱石はさらに、東京までの路銀の足しとして子規に10円の餞別を渡した。この10円を元手に、途中、奈良見物をすることで、子規畢生の名句《柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺》が生まれることになる。

細かすぎて伝わらない関連動画など

(「柿食えば」「10円」で動画検索してみました!!)


イメージ 13


●柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺 他 朗読


イメージ 14

※髪の毛の感じが「ガラスの仮面」の月影先生っぽいのうーー。

ジョニーAのつぶやき:猫のスケッチは収穫だった。昔も今も、猫は研究材料になったのだろぅねえ~~~。