シモネタGP(abemaTV)は松竹芸能勢、頑張る!!

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まさかこんなに早く・・・?!
シモネタ限定のお笑い番組「シモネタGP」がパワーアップして帰ってきた!
春に放送し話題となった前代未聞のシモネタだけの賞レース。

●芸人の幅もパワーアップ!
前回東京芸人のみでのコンテスト開催だったが、今回は全国に範囲を広げてシモネタの強者が集結!

●放送回数もパワーアップ!
1ヶ月4回だった前作から、3ヶ月12回のレギュラー放送にパワーアップ!

さらにさらに、12月3日には決勝戦の生放送も決定!!
生放送で大丈夫なのか・・・?!豪華芸人100組が全力体当たりの至極のシモネタを披露!毎回、10組のシモネタ芸人の中から決勝進出者が決まり、12月3日に2代目のシモネタ王者が決まる!

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シモネタGPとは・・・
全ての笑いの原点でもあるシモネタ
下ネタは、幼稚園から部室、新橋の居酒屋まで
老若男女問わず話されている鉄板中の鉄板ネタ。
お笑い業界&マスコミ業界では
シモネタ好き=「安易」「笑いのレベルが低い」
などのレッテルを貼られてしまうため
多くの芸人たちはシモネタを使うことを封印しているのが現状
この番組では・・・あらゆるシモネタを全肯定!!
美女も思わず笑ってしまうようなシモネタをだらけの
お笑いコンテストそれがシモネタGP
キャスト
▼MC ケンドーコバヤシ
▼アシスタント 山田菜々
▼審査員 笑福亭鶴光(審査委員長) 関根勤
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イジリー岡田 大川藍 久松郁実
▼【第5週】出演芸人 あまからひやし アメリカザリガニ キタキーナ
日本クレール バーゲンセール ハッピー遠藤 ハブサービス
ハローケイスケ プラスワン やさしい雨 (※50音順)

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※その決勝進出者がなんとーーー

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アメザリオジオズになすなか。松竹芸人には追い風の大会となっている!?
さすが、ベテラン先輩芸人に“汚れ”が多いだけにシモネタもお得意な事務所
ということなのか。。。


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『10/15(月)22:00~23:00/AbemaTV「シモネタGP2018 シモ半期#5」にアメリカザリガニでますねん!!さらに!この放送はAbemaビデオで1週間無料で見ることができます!アメリカザリガニの至極の下ネタを御覧くだされ!!!』

アメリカザリガニが有名なアニソンをシモネタver.で歌う

ケンドーコバヤシの「君ら、商店街の漫才大会 荒らしに来たプロか!?」っていうツッコミが一番ワロタわ。

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※「年取って声が落ち着いた!」と関根さんに褒められていたが、
実は前日歌いすぎて声が飛んでいただけだったというオチも付いたw
いや、マジ最初この動画観たときビックリしたよー。ついに柳原に
声替わりの時期が訪れたのか!!??って・・・w

なすなかにしのシモネタ動画も~♬

※いきなりネタが飛んだが、そのあとのリカバリーがさすがですな♪

オジンオズボーンのは途中でキレてますが・・・


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※シモネタは女性の反応が露骨にプラマイ出ますな~~~。めっちゃ笑うか
めっちゃ引くか・・・。オジオズはいつも斬新です。ま、今回のはちょっと
シャッフル男爵ネタのアレンジではあるけど~。

★ただ、松竹芸能でもこういう評価を受けた者も・・・
AbemaTIMES 関根勤「こんな粗い芸、久しぶりに見たわ!」
『お笑い芸人・ハッピー遠藤が披露した下ネタ芸が、あまりにも「不完全、未完成」過ぎて逆に絶賛されるという奇跡を生んだ。
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MCのケンドーコバヤシにコメントを求められた関根は、開口一番「こんな粗い芸、久しぶりに見たわ!」と笑いを堪えながら吐き捨てた。するとケンコバも、ハッピー遠藤がショートコントの間に言う決め台詞である「ハッピー」に触れ、「ハッピーのところで本来は笑いをとれるはずなのに、ハッピーのたびに、お客さんが悲しい顔をしていた」と続いた。』

●「オメ…コはるかあ!」日本エレキテル連合の“日活ロマンポルノ”の様な仕上がり

※エレキテルも、元松竹ッスもんねーーー。あと、さらば青春の光
出るみたいだし・・・。この大会に限っては吉本勢より松竹勢の活躍
が期待できるようデッス。頑張れみんな!微妙な優勝を勝ち取れーーっ!w




☆書籍「元気が出る言葉」&サライ「日めくり漱石」をお届け♪

(詳細は、1月2日の日記を参照のこと!)

☆さ~~て、本日10月14日(日)の、「元気が出る言葉」は~?

『黙ってこらえているのが一番苦しい。盛んにうめき、盛んに叫び、盛んに泣くと 少し苦痛が減ずる。』
出展:?
発言者:正岡子規 俳人 1867年10月14日~1902年9月19日
『解説:』

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◎関連書籍、楽曲、映画(ドラマ)などなど・・・

tenki.jp 球春到来! 正岡子規が生んだ野球にまつわる言葉 2018年03月31日
正岡子規といえば、日本の近代文学に多大な影響を与えたとされる人物ですが、実は野球にも大きな影響を与えていたのです。/正岡子規は日本に野球が伝わったころから熱心にプレーをしていたといわれています。しかも、他のスポーツにはまったく興味を示さなかったにもかかわらず、野球だけは夢中になったのだとか。そんな正岡子規は、このような俳句を詠んでいます。「まり投げて 見たき広場や 春の草」→春の草が生えてきた広場をみて詠んだ句です。「まり」というのはボールのこと。広場を見て真っ先に思い浮かんだのが野球だったのでしょう。そのくらい、正岡子規が野球好きだったということがわかりますね。
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今では当たり前のように使われている野球用語が、実は正岡子規の手により日本語訳されたものというのをご存じでしょうか? 例えば、このような言葉があります。「バッター=打者」「ランナー=走者」「デッドボール=死球」「フライ=飛球」これは現在でも野球用語として当たり前に使われている言葉です。太平洋戦争中に、英語が禁止となる際にも、野球用語がすべて日本語になりましたが、正岡子規の訳が影響を与えていることは間違いないでしょう。さらには、テレビや新聞においても端的に表現できる日本語訳は欠かせないもの。日本ならではの野球文化を広めるにあたり、正岡子規は大きな役割を果たしていたのです。/正岡子規は、季節ごとに野球にまつわる句を残してきたといわれています。そんな正岡子規の影響があったのかは定かでありませんが、「球春」という言葉は「季語」として認められるようになりました。2006年の「季語集」(岩波新書)に初めて掲載されました。正岡子規が知ったら、きっと喜ぶことでしょう。
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このように、野球ファンにとっては、野球シーズンの幕開けが春の訪れを感じさせるものなのですね。また、球春というのは、四季がある日本だから感じられる言葉です。今ではドーム球場が増え、気候に左右されず野球ができる環境でもあります。かつて屋外球場中心だったころの春の訪れは、プレーヤーにとってもファンにとっても今の時代よりいっそう待ち遠しく感じられたことでしょう。』

心の常備薬 偉人 正岡子規 名言集

人の希望は、初め漠然として大きく、後、ようやく小さく確実になるならびなり。

明治維新の改革を成就したものは、20歳前後の田舎の青年であって、幕府の老人ではなかった。

良句もできるが、駄句もできる。しかし、できた駄句は捨てずに書きとめておかねばならない。自分のつくった句を粗末にして書きとめておかぬひとは、とてものこと、一流の作者にはなれない。

あせっちゃ、ならんぞな。

死ぬまで、ひっこむわけにはゆかない。

実際の戦争は危険多くして損失夥し。ベースボールほど愉快にてみちたる戦争は他になかるべし。

※「あせっちゃ、ならんぞな」とか、ニャンコ先生みたいでカワイスなぁーー♪

ホンシェルジュ これは意外!?正岡子規にまつわる9つの逸話
『①自分の目の位置をとても気にしていた?・・・あの横顔の写真は、両目が離れているのを気にしていてそれを隠すためだったのだそう。②英語が大嫌い!カンニングまでして乗り越えた英語の試験 ③実は子規の自宅は火事で焼失していた・・・3歳ごろの時、自宅が火災に遭い母屋を全焼させてしまいました。そのあと正岡家は同じところに家屋を再建し、その際焼け残った以前の家屋の木材も再利用して作ったそうです。そして明治16年、上京するまで彼はそこに住んでいました。④女の子の行事・遊びを好んだ・・・ひな祭りはとても楽しみにしていたそうで、彼自身も「一年の内にてもっとも楽しく嬉しき遊びなりき」と、「わが幼時の美感」という随筆の中で書かれています。⑤無類の大食いだった・・・日記には、給料の半分が食費に消えてしまったとの記載があるほど。
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⑥たくさんのペンネームを持っていた・・・その数は100個以上にものぼります。その中には「ひねくれ者」という意味で「川を枕にして石で口をすすぐ」が元になった「漱石」という言葉をペンネームに使ったことがあり、その言葉を気に入った、親友の夏目金之助ペンネームとして譲り受け、夏目漱石という名前が誕生しました。⑦名前にもいろいろと紆余曲折があった・・・幼名は處之介(ところのすけ)であまり評判がよろしくなく、升(のぼる)という名前にしたのです。その後家族からは、のぼさんと親しみを込めて呼ばれるようになりました。⑧思わぬ災難を与えた左利き・・・学校にて左手に箸を持ってお昼の弁当を食べていると、先生に叱られたり友達にからかわれたりということがあったそうで、そのため弁当を食べないで家に帰ったこともあったそうな。⑨「俳句」という言葉を作った・・・江戸時代にはまだ「俳句」という言葉はなく、「俳諧」の一番初めの句「発句」が今の俳句を意味していました。正岡子規はそれを「俳諧」の「発句」ということで「俳句」と名づけ、2万以上の作品を残し、「俳句」の第一人者として確立しました。また「短歌」という言葉も彼が考えたものです。』
※「俳句」「短歌」が子規の考案した名前であったとは。初めて知りましたわい!

☆本日の、『日めくり漱石』は・・・
サライ 「夏目漱石」の記事一覧

“よく思い切って旅に出掛けましたね(『行人』より)”

【1909年10月14日の漱石】下関と広島をたった一日で見物してまわる

今から107年前の今日、すなわち明治42年(1909)10月14日、漱石は朝6時にボーイに起こされた。船室の中である。窓から島影が見える。「もう玄界灘は通りすぎたのだな」と漱石は思った。昨日、釜山港を後にしてから、もうすぐまる1日が経過しようとしていた。まもなく船が停止した。漱石は馬関(下関)に到着したのかと思った。ところがこれは、検疫のための停船であった。

予定より30分ほど遅れて、午前8時、船は馬関の港に到着した。こうして『満韓ところどころ』の旅は、静かに終幕へ向かっていく。9月2日に新橋停車場を発して以来、まもなく1か月半が経とうとしていた。馬関の港には、大阪朝日新聞五十崎夏次郎が出迎えにきていた。下関停車場から東京方面へと向かう汽車の発車時刻までは、少し間があった。漱石五十崎に案内を乞うて、下関の街を歩いた。

「あれが春帆楼です」しばらくすると、五十崎がそう言った。彼の指し示す遠方に、堂々たる構えの建物があった。日清戦争終結にあたり、日本側を代表する伊藤博文と清国全権の李鴻章の間で講和条約の締結会議が行なわれた場所であった。その伊藤博文がこの日から2週間も経たぬうちに、漱石も足跡を刻んできたばかりのハルビン駅で暗殺されることを、漱石はまだ知る由もない。

講和条約の会議の場となった春帆楼は、建物を焼失し建て替えたりしながらも、現在も旅館として営業を続けている。漱石五十崎は、1時間ほど周辺をぶらついた。そうして下関停車場へ到った時に、漱石の胸の中に残ったのは「なんだか細長い街だ」という漠然たる印象だった。汽車は午前9時30分の発車だった。一等客室には満鉄の大塚素(しるし)も乗っており、2日後に京都で落ち合い、紅葉狩りをしようと約束した。そう約しておいて、漱石は広島で途中下車した。広島市街を見物がてら、一高時代の友人の井原市次郎にも会っていきたいと思っていたのだ。

しかし市街見物に雇った人力車夫の諄々と述べたてる説明はうるさいくらいで、漱石は少々閉口した。目的を果たした漱石は、その夜9時30分発の夜行寝台列車に乗り大阪へ向かった。42歳の漱石先生、なかなかの強行軍であった。

細かすぎて伝わらない関連動画など

(「下関」「春帆楼」で動画検索してみました!!)

●河豚料理公許第一号店 下関春帆楼


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※河豚料理の元祖なんですなぁーーーーー。

●献上フグ刺しの調理を公開 山口・下関ふく連盟


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※もはや芸術品で御座いヤス!

ジョニーAのつぶやき:ふぐ料理「三枡」さんの壁の「人生は七十才より」という貼り紙がインパクトあったので、それも載せまひょ載せまひょ・・・w


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