とある休日の風景

★今日は写真だけで失礼しまーーーす!

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※散髪に行ったら隣の「ハトヤ」の“ちくわパン”が気になって・・・

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※購入!かまぼこ専門店の提供するチクワパンは絶品でございやした!

●できたてを味わう「かまぼこ作り」(姫路市

※かまぼこ作りの工程を見てると、「泣くな、はらちゃん」の越前さん
麻生久美子さん♬)を思い出すノォ~~~~ゥ。

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※地下へ降りると、極濃プリンで有名なマイドリームさんがあるノダヨ!

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※コーヒー味とリンゴ味を購入~~~~~!

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※そして、アガン・ザ・サード!(ルパン・ザ・サードみたいに言うなっ!)
3度目にして初めて「おつまみセット」を注文。普通のビールを味わう。

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コロナビールに、シシカバブーーー!これ、何のお肉だろ?
 今度行ったら聞いてみようー。

●シシュ・カバブ - 江利チエミ


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※野菜チョウミン。要はヤキソバやねぇー。

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※入り口でお客さんを出迎える2頭のエレファント像。
(撮影失敗)




☆書籍「元気が出る言葉」&サライ「日めくり漱石」をお届け♪

(詳細は、1月2日の日記を参照のこと!)

☆さ~~て、本日10月30日(火)の、「元気が出る言葉」は~?

『まさかこんなところにメメクラゲがいるとは思わなかった。』
出展:「ねじ式」(小学館
発言者:つげ義春 (漫画家 1937年10月30日~)
『解説:「ねじ式」はシュールとは何か、を知りたい人に最適の入門テキストだ。冒頭からしてこの言葉だ。メメクラゲていったい何なんだ!しかす、この短編漫画が与えたインパクトはあまりに大きかった。蛭子能収はこの作品と出会って漫画家になれる!と錯覚し、本当になってしまったという。未読の人は作品の舞台ともなっている千葉県の鴨川、太海、大原あたりをぶらぶらしながら読むといい。つげ義春一人と出会っただけで、漫画に対する認識、世界観の領域がどれだけ広がっていくことか。』

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◎関連書籍、楽曲、映画(ドラマ)などなど・・・

新潮社 つげ義春プロフィール
『マンガ家。1937年、東京都生れ。小学校卒業後、メッキ工場などで働き、1954年にマンガ家デビュー。貸本マンガを経て、1960年代後半から1970年にかけて「月刊漫画ガロ」に発表した諸作は、マンガ史の画期をなす。1987年以降、新作は発表していないが、その作品群は新たな世代のファンを生みつづけている。』

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●もっきりやの少女 [映画]ねじ式(1998)より


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※この頃は浅野忠信ってダイコンだなぁー、とか思っていたっけー。
杉作J太郎の方がリアルなスケベオヤジを熱演しておった。

Amazon.co.jp つげ義春コレクション ねじ式/夜が掴む (ちくま文庫) つげ義春(著)
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『■内容(「BOOK」データベースより):つげ義春ワールドの極点「ねじ式」に始まる“夢の作品群”と、それと並行して書かれた若い夫婦の生活を描いた“日常もの”を集大成。/■登録情報:/文庫 343ページ /出版社 筑摩書房 /言語 日本語 /ISBN-10: 4480425411 ISBN-13: 978-4480425416 /発売日 2008/10/8 /梱包サイズ 15 x 10.8 x 1.4 cm /おすすめ度 5つ星のうち 3.9 /■カスタマーレビュー:鶯餅15 5つ星のうち5.0 「生まれて来てよかった」2013年6月23日・・・日本人として生まれ育ち、この作品に出会えて、心底よかったな、と感じられた。感動した!と言うのとも異なる。読んでよかった。心が温まるお話は詰め込まれておらず、幸せな読後感、と言うのも全くない。じっとり・どんより・ぐったりとする一冊だ。それでも。「闇」を掬い取って見せてくれる稀有な作品だと思う。単なるエログロではなくて。淡々と描かれる日常と非日常の狭間、その闇に。懐古趣味でもなくて。平成の世だからこそ、じっくりと味わって頂きたい作品だとお薦めできる。闇は傍らに口を開けているものだ。「大好きな作品」と公言するのは憚られるかもしれぬ。だが「中身」がある。ペンと言う刃で刻まれていった暗い記憶を共有したい。』

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☆本日の、『日めくり漱石』は・・・
サライ 「夏目漱石」の記事一覧

“小生への書信その他は凡て在倫敦日本公使館宛にて御出なさるべく候(『書簡』明治33年10月8日より)”

【明治33年(1900)10月30日の漱石】ロンドンの夏目漱石、手紙を受け取りに日本公使館へと出向く

今から116年前の今日、すなわち明治33年(1900)10月30日、漱石がロンドンのガワー・ストリート76番地の下宿で起床したのは、午前10時頃であった。朝寝坊が常態の妻の鏡子と違って、漱石は本来は朝が弱いわけではない。長途の旅の疲れもあったので、少しゆっくり起きようと、就寝前から決めていたのであった。

一昨日の夜、漱石はようやくロンドンへ到着していた。横浜港をあとにして、すでに50日余りが経過していた。パリまでは留学生仲間が一緒だったが、ロンドンに向かう際にはひとりになっていた。昨日は、用事を片づけながらちょっと市街を散策に出たが、道に迷ってしまい、20回余りも道を聞き聞きして、やっと下宿へ帰り着くありさま。まさに、《丸で御殿場の兎が急に日本橋の真中へ抛(ほう)り出された様な心持ち》(『倫敦塔』)であった。身支度を整えると、漱石はヴィクトリア駅のすぐ北側にある日本公使館へ向かった。あいさつ旁(かたがた)、自分宛ての書信などを受け取るためであった。漱石の今いる下宿は、先に欧州留学から帰朝した友人の大塚保治に予め教えてもらっていた場所。日本人客が多く利用しているところだったが、宿料が高く、限られた留学費で長居できる場所ではなかった。まだ定住先の決まらぬ旅行者さながらの身の上で、手紙や通信をやりとりするには、公使館がもっとも確実で安心な窓口であったのだ。

公使館では、一等書記官の松井慶四郎と面会。ノット夫人からの手紙や日本からの電報を受け取った。ノット夫人は、日本から欧州大陸へと向かう汽船プロイセン号の中で出会った英国人。漱石が熊本にいた時代からの顔見知りで、ケンブリッジ大学の知り合い宛ての紹介状を書いてくれるという船中での約束を、違(たが)えず履行してくれていたのであった。翌31日、漱石はテムズ河畔を目指し、タワーブリッジ、ロンドン塔、大火記念塔などを見学した。後年、『倫敦塔』の中に、漱石は次のように綴る。

《倫敦塔は宿世の夢の焼点の様だ。倫敦塔の歴史は英国の歴史を煎じ詰めたものである。過去と云う怪しき物を蔽える戸張が自ずと裂けて龕中(がんちゅう)の幽光を二十世紀の上に反射するものは倫敦塔である。凡てを葬る時の流れが逆しまに戻って古代の一片が現代に漂い来れりとも見るべきは倫敦塔である。人の血、人の肉、人の罪が結晶して馬、車、汽車の中に取り残されたるは倫敦塔である》

市街の散策では不案内な地理に翻弄された漱石先生、どうやらここでは、時間軸の交差に進んで身をゆだねている。

細かすぎて伝わらない関連動画など

(「ロンドン塔」、「大火記念塔」で動画検索してみました!!)

●英国旅行 ロンドン 「ロンドン塔」


●歴史暦。9月2日は ロンドン大火!

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ジョニーAのつぶやき:ブリティッシュ・ロックのBGMが心地良い動画だ・・・