「北野誠のズバリ!」しょこたんパパの思い出話
☆北野誠さんがMCを務めるラジオ番組「ズバリ!」で、しょこたんの
お父さんの話題が出たと聞き、どこかの共有サイトに上がらないかなぁー
としばらく待ってみたが、どうにも見つかりそうにないということで、
見切り発信、見切り投稿することとなったーーー。
お父さんの話題が出たと聞き、どこかの共有サイトに上がらないかなぁー
としばらく待ってみたが、どうにも見つかりそうにないということで、
見切り発信、見切り投稿することとなったーーー。
RadiChubu CBCラジオ 北野誠は中川翔子の第2のお父さんだった!? 2019年03月23日
→ 『3月21日放送「北野誠のズバリ」は祝日特別企画ということで、ゲストに中川翔子さんが出演しました。 翔子さんのお父さんである、歌手の中川勝彦さんは1994年に亡くなったのですが(享年32)、実は北野が若い頃にラジオ番組で共演していただけでなく、北野の実家に何度か泊まったことがあるほどの仲でした。 さらに北野は、小さい頃の翔子さんに「高い高い」をしたこともあったとか。 この日は番組全般に渡って、北野と中川翔子さんが、中川勝彦さんとのエピソードを語りましたが、ここではその一部を紹介します。
【ラジオ番組を急に休んで失踪】
勝彦さんはまだ独身の時、北野と1986年に関西のラジオ番組「ヤンタンキンド館」(MBSラジオ)での共演をきっかけに意気投合。一緒にライブイベントを開いたこともありました。しかしある日、勝彦さんは失踪し、番組に来なくなったことがありました。北野「事務所も連絡が取れない。当時ケータイもなかったからね。それで何ヶ月かしたら復帰したんよね。その頃(番組共演者の)兵藤ゆきさんがちょうど「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」(日本テレビ系)とか出て売れ出した頃やったんで、ラジオの収録も大阪じゃなくて東京がメインになったの。ある日、ラジオが夜中の1時頃終わった時に、急に勝彦が「誠さん、これから付き合ってもらっていいですか。ちょっと家に来てもらいたいんですよね」って言うから。失踪した後やったから、また悩みの相談かなと思って。確か東京ドームの近くにタクシーで連れて行かれて、着いたら「これ、俺の家なんですよ」って。その後(扉を)開けて『俺、結婚して、こどももできたんですよ』って。“はあ?”“これ、翔子”って」/失踪から戻ってきたと思いきや、結婚してこどもまでいる事実を告げられた北野、急展開に思わずビックリです・・・。
【失踪の理由が明らかに】
翔子「昭和の時代ってのもありますけど、よくぞそれを内緒にしてやってたなと。ちょうどデビューの頃と、母とお付き合いしていた頃が重なっていて。事務所の人と家族同伴の話し合いで“1回別れてください”って言われて。(母は)あきらめようと思ったけど、父からこどもを作ろうと言われて、でも(事務所からは)許されないから、駆け落ちしようかみたいになって、駆け落ちしたんですよね」/北野「その頃が、ヤンタンの失踪」/翔子さん「それかー!つながったー!」/女性ファンが多かった勝彦さんの結婚は、なかなか公にはしづらかったようです。北野「勝彦に“いつ結婚したん?”って言ったら“グアムで”って。いや、そんなこと聞いてるんちゃうねんと」/翔子さん「ベータのビデオが家にあって。いろんな国の駆け落ちの人が集まる集団結婚式みたいな」/北野「こんな秘密を俺に言われても…。言うても関西で三本の指に入るぐらい口軽い男やのに。でもさすがに、これは俺でも言われへんわと思って。そのことだけは、誰にも言わへんかった」/翔子さん「ありがとうございました!(ファンの)みんなが傷ついちゃうかもしれないので。父が言ったんですよ。“寂しくないようにこどもを作ろうね”とか。でも、母の日記が出てきて、ちらっと見ちゃったんですけど、妊娠してる時に“もうすぐ生まれるよ。あなたは今どこにいるの?どこに行ったの?”って書いてあって。失踪ってどういう失踪なのかなと思って。本当に父さんは自由すぎますね」/かなりモテていたという話もあり、心配な面もあったようですが…。ただ、最後に翔子さんは、「でもまだ若い頃に反対にあっても、(自分を)作ってくれて良かったです」と感謝していました。(岡本)』
※「ヤンタンキンド館」はワチクシにとっても思い出深い番組。
「キンドカンロマンス」というラジオドラマのコーナーによく
採用してもらっていたが、中川勝彦ことかっちゃんは、台本無
視でしょっちゅうエロアドリブをかましてくれて、しかも滑る
ことが多かったので、幾度も迷惑をかけられたという印象が強い。
→ 『3月21日放送「北野誠のズバリ」は祝日特別企画ということで、ゲストに中川翔子さんが出演しました。 翔子さんのお父さんである、歌手の中川勝彦さんは1994年に亡くなったのですが(享年32)、実は北野が若い頃にラジオ番組で共演していただけでなく、北野の実家に何度か泊まったことがあるほどの仲でした。 さらに北野は、小さい頃の翔子さんに「高い高い」をしたこともあったとか。 この日は番組全般に渡って、北野と中川翔子さんが、中川勝彦さんとのエピソードを語りましたが、ここではその一部を紹介します。
【ラジオ番組を急に休んで失踪】
勝彦さんはまだ独身の時、北野と1986年に関西のラジオ番組「ヤンタンキンド館」(MBSラジオ)での共演をきっかけに意気投合。一緒にライブイベントを開いたこともありました。しかしある日、勝彦さんは失踪し、番組に来なくなったことがありました。北野「事務所も連絡が取れない。当時ケータイもなかったからね。それで何ヶ月かしたら復帰したんよね。その頃(番組共演者の)兵藤ゆきさんがちょうど「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」(日本テレビ系)とか出て売れ出した頃やったんで、ラジオの収録も大阪じゃなくて東京がメインになったの。ある日、ラジオが夜中の1時頃終わった時に、急に勝彦が「誠さん、これから付き合ってもらっていいですか。ちょっと家に来てもらいたいんですよね」って言うから。失踪した後やったから、また悩みの相談かなと思って。確か東京ドームの近くにタクシーで連れて行かれて、着いたら「これ、俺の家なんですよ」って。その後(扉を)開けて『俺、結婚して、こどももできたんですよ』って。“はあ?”“これ、翔子”って」/失踪から戻ってきたと思いきや、結婚してこどもまでいる事実を告げられた北野、急展開に思わずビックリです・・・。
翔子「昭和の時代ってのもありますけど、よくぞそれを内緒にしてやってたなと。ちょうどデビューの頃と、母とお付き合いしていた頃が重なっていて。事務所の人と家族同伴の話し合いで“1回別れてください”って言われて。(母は)あきらめようと思ったけど、父からこどもを作ろうと言われて、でも(事務所からは)許されないから、駆け落ちしようかみたいになって、駆け落ちしたんですよね」/北野「その頃が、ヤンタンの失踪」/翔子さん「それかー!つながったー!」/女性ファンが多かった勝彦さんの結婚は、なかなか公にはしづらかったようです。北野「勝彦に“いつ結婚したん?”って言ったら“グアムで”って。いや、そんなこと聞いてるんちゃうねんと」/翔子さん「ベータのビデオが家にあって。いろんな国の駆け落ちの人が集まる集団結婚式みたいな」/北野「こんな秘密を俺に言われても…。言うても関西で三本の指に入るぐらい口軽い男やのに。でもさすがに、これは俺でも言われへんわと思って。そのことだけは、誰にも言わへんかった」/翔子さん「ありがとうございました!(ファンの)みんなが傷ついちゃうかもしれないので。父が言ったんですよ。“寂しくないようにこどもを作ろうね”とか。でも、母の日記が出てきて、ちらっと見ちゃったんですけど、妊娠してる時に“もうすぐ生まれるよ。あなたは今どこにいるの?どこに行ったの?”って書いてあって。失踪ってどういう失踪なのかなと思って。本当に父さんは自由すぎますね」/かなりモテていたという話もあり、心配な面もあったようですが…。ただ、最後に翔子さんは、「でもまだ若い頃に反対にあっても、(自分を)作ってくれて良かったです」と感謝していました。(岡本)』
※「ヤンタンキンド館」はワチクシにとっても思い出深い番組。
「キンドカンロマンス」というラジオドラマのコーナーによく
採用してもらっていたが、中川勝彦ことかっちゃんは、台本無
視でしょっちゅうエロアドリブをかましてくれて、しかも滑る
ことが多かったので、幾度も迷惑をかけられたという印象が強い。
◎ウィキペディアにも載っているなー。
ウィキ 中川勝彦
→ 『中川 勝彦(なかがわ かつひこ、1962年7月20日 - 1994年9月17日)は、東京都文京区出身のマルチタレント(ミュージシャン・歌手、俳優、声優)。主に1980年代に活動した。娘は、同じくマルチタレントの中川翔子。/1980年代前半の日本の歌謡界では珍しいヴィジュアル系アーティスト、日本版グラムロックアーティストとして、本田恭章と人気を二分した。美しいルックスとは裏腹に、気さくで腰が低く茶目っ気のある人柄で関係者に親しまれた。歌手や俳優活動以外にもラジオ(ヤンタン・キンド館)のパーソナリティーとしても活躍。下ネタを持論を交えて大真面目に滔々と語る喋りが受け、中川のファンだけではなく、番組のファンからも評価を集めた。下ネタ発言がエスカレートし、放送禁止用語発言による2度の謹慎処分を受けたこともある。2度目の謹慎明け以降は、開始1時間は番組に参加出来ない(遅れ参加)処分扱いを受けていた。NHKのラジオ番組で、桑田靖子とパーソナリティを務め、まだ無名の新人アーティストの曲や、ヒットしていない曲を自ら選曲し、多数紹介した。桑田からは「お兄ちゃん」と呼ばれていた。
デビュー当時はムーンライダーズのメンバーが全面的にサポートし、楽曲提供や演奏で参加。その後、Charとユニット「MAJI-MAGIC」を結成するなど、アーティスト色を濃くしていく。本人による作詞・作曲も数多い。ヴォーカリストとしては妖しさと力強さを兼ね備えており、伸びのある歌声で評価が高かった
/交際していた女性が妊娠したことをきっかけに結婚したが、その事実は秘密裏にされた(その時に授かった子が長女・翔子である)。美麗なルックスと天真爛漫なイメージでアイドル的路線タレントとして活動していたこともあり、イメージダウンになりかねない婚前妊娠結婚を事務所も中川自身も公にすることはなかった。信頼できる近しい関係者とわずかな友人達[1]にしか結婚も子供が生まれたことも知らせなかったため、後年、タレントとして活動を始めた翔子自身が「父は中川勝彦」と明かすまで、勝彦と翔子が親子である事実が芸能界に知られる由もなかった。
1992年9月に急性骨髄性白血病を発症した。以後9か月の闘病生活を経て復帰するも1994年8月に白血病が再発し、32歳で死去。病状に関しては親しい知人にも詳細は明かしていなく、ラジオ番組を通して公私とも交流していた兵藤ゆきと北野誠は人づてに「体調が悪いらしい」と聞き、見舞いの頃合いを検討していた折に突然の訃報を受け言葉を失ったという。戒名は「惠空院耀翔日彦居士」、墓は台東区谷中の常在寺にある。』
ウィキ 中川勝彦
→ 『中川 勝彦(なかがわ かつひこ、1962年7月20日 - 1994年9月17日)は、東京都文京区出身のマルチタレント(ミュージシャン・歌手、俳優、声優)。主に1980年代に活動した。娘は、同じくマルチタレントの中川翔子。/1980年代前半の日本の歌謡界では珍しいヴィジュアル系アーティスト、日本版グラムロックアーティストとして、本田恭章と人気を二分した。美しいルックスとは裏腹に、気さくで腰が低く茶目っ気のある人柄で関係者に親しまれた。歌手や俳優活動以外にもラジオ(ヤンタン・キンド館)のパーソナリティーとしても活躍。下ネタを持論を交えて大真面目に滔々と語る喋りが受け、中川のファンだけではなく、番組のファンからも評価を集めた。下ネタ発言がエスカレートし、放送禁止用語発言による2度の謹慎処分を受けたこともある。2度目の謹慎明け以降は、開始1時間は番組に参加出来ない(遅れ参加)処分扱いを受けていた。NHKのラジオ番組で、桑田靖子とパーソナリティを務め、まだ無名の新人アーティストの曲や、ヒットしていない曲を自ら選曲し、多数紹介した。桑田からは「お兄ちゃん」と呼ばれていた。
デビュー当時はムーンライダーズのメンバーが全面的にサポートし、楽曲提供や演奏で参加。その後、Charとユニット「MAJI-MAGIC」を結成するなど、アーティスト色を濃くしていく。本人による作詞・作曲も数多い。ヴォーカリストとしては妖しさと力強さを兼ね備えており、伸びのある歌声で評価が高かった
/交際していた女性が妊娠したことをきっかけに結婚したが、その事実は秘密裏にされた(その時に授かった子が長女・翔子である)。美麗なルックスと天真爛漫なイメージでアイドル的路線タレントとして活動していたこともあり、イメージダウンになりかねない婚前妊娠結婚を事務所も中川自身も公にすることはなかった。信頼できる近しい関係者とわずかな友人達[1]にしか結婚も子供が生まれたことも知らせなかったため、後年、タレントとして活動を始めた翔子自身が「父は中川勝彦」と明かすまで、勝彦と翔子が親子である事実が芸能界に知られる由もなかった。
1992年9月に急性骨髄性白血病を発症した。以後9か月の闘病生活を経て復帰するも1994年8月に白血病が再発し、32歳で死去。病状に関しては親しい知人にも詳細は明かしていなく、ラジオ番組を通して公私とも交流していた兵藤ゆきと北野誠は人づてに「体調が悪いらしい」と聞き、見舞いの頃合いを検討していた折に突然の訃報を受け言葉を失ったという。戒名は「惠空院耀翔日彦居士」、墓は台東区谷中の常在寺にある。』
☆白血病で若くして亡くなった勝彦さんは、自身が演じ
た沖田総司とキャラが丸かぶり。もう自分の中では沖
田総司のイメージはかっちゃんそのものになっておる!
(実際は肖像画で見る総司増像は結構ブサイクだったりす
る訳だが・・)
●bycotai13
●クール・ロマンティック カッちゃん 1986
※大林監督と親交が深かったとは、知らなんだっ!!
年度・団体【2007年・WWE】 |
カテゴリー【海外】 |
見出し:『レッスルマニア23でドナルド・トランプとビンスが髪切り戦』 |
◎関連書籍、ニュース記事、試合動画、など。
●The Battle of the Billionaires takes place at WrestleMania 23
※この悪役顔のいけすかない金持ち野郎がのちに大統領になるなんて・・・まさに悪夢!
宝島オンライン トランプの芸風はビンス・マクマホンのパクリ?
→ 『まさかと思われた「トランプ政権の誕生」を筆頭に、本来、ガチガチにシリアスなはずの国際政治がエンターテインメント化してきている。「不法移民対策のためにメキシコとの境界に壁を建てる」「イスラム教徒のアメリカ入国禁止」など、暴論ともいえる主張を連発するトランプ大統領。かつて、小泉政権はワンフレーズ・ポリティクスによる「劇場型政治」と称されることもあったが、トランプ大統領にいたっては、大統領選から現在まで、劇場化を飛び越え「プロレス化」を突き進んでいるのだ。
プロレス化するトランプ大統領は、実際にプロレスのリングに上がったことがある。米国の世界的プロレス団体『WWE(ワールド・レスリング・エンターテインメント)』において、WWEのオーナーであるビンス・マクマホンと「億万長者対決」を繰り広げたのだ。2007年4月、『レッスルマニア23』ではビンス相手に敗者髪切りマッチも決行。この一連の抗争によって、「歯に衣着せぬ発言」や「過激なパフォーマンス」を体得したとも言われている。現実では許されない「確信的なタブー破り」で観客をあおる「WWE=アメリカンプロレス」の手法を、トランプ大統領はパクったのだ。
大統領選において「勝って当たり前」の典型的ベビーフェイス(善玉)=ヒラリー・クリントンが、極めつけのヒール(悪玉)=トランプに破れたのはなぜか? その答えもプロレスにある。リング上で悪役ながら「本音でものを言う」ヒールが、優等生すぎておもしろ味に欠けるベビーフェイスを人気で上回ることが、ままあるのだ。圧倒的なベビーフェイスであったヒラリーが、突如、ヒールに転落したわけは、トランプの「本音の刺激」が、ヒラリーの「建前の正しさ」を凌駕してしまった結果といえる。プロレス界では「ヒールターン」と呼ばれ、今回の大統領選もまさにこの関係性そのものである。
就任後のトランプ大統領といえば、プロレス的な芸風を指南してくれたビンスの妻で、WWEのCEOも務めたリンダ・マクマホンをアメリカ中小企業局(SBA)局長に指名するなど、ますますプロレス寄りの自己演出を見せている。トランプ・ファミリーである長女イヴァンカ補佐官と、その夫であるクシュナー氏に絶大な信頼をおき、WWEでのマクマホン・ファミリーさながら、ホワイトハウスを家族経営してしまうトランプ大統領。トランプ・ファミリーのニュースは、トンデモ見出しで知られる『東京スポーツ』にも大きく掲載された。もはや、「一般紙=世の中」と「東スポ=プロレス」の境界線はなくなってきているのだ。』
→ 『まさかと思われた「トランプ政権の誕生」を筆頭に、本来、ガチガチにシリアスなはずの国際政治がエンターテインメント化してきている。「不法移民対策のためにメキシコとの境界に壁を建てる」「イスラム教徒のアメリカ入国禁止」など、暴論ともいえる主張を連発するトランプ大統領。かつて、小泉政権はワンフレーズ・ポリティクスによる「劇場型政治」と称されることもあったが、トランプ大統領にいたっては、大統領選から現在まで、劇場化を飛び越え「プロレス化」を突き進んでいるのだ。
プロレス化するトランプ大統領は、実際にプロレスのリングに上がったことがある。米国の世界的プロレス団体『WWE(ワールド・レスリング・エンターテインメント)』において、WWEのオーナーであるビンス・マクマホンと「億万長者対決」を繰り広げたのだ。2007年4月、『レッスルマニア23』ではビンス相手に敗者髪切りマッチも決行。この一連の抗争によって、「歯に衣着せぬ発言」や「過激なパフォーマンス」を体得したとも言われている。現実では許されない「確信的なタブー破り」で観客をあおる「WWE=アメリカンプロレス」の手法を、トランプ大統領はパクったのだ。
大統領選において「勝って当たり前」の典型的ベビーフェイス(善玉)=ヒラリー・クリントンが、極めつけのヒール(悪玉)=トランプに破れたのはなぜか? その答えもプロレスにある。リング上で悪役ながら「本音でものを言う」ヒールが、優等生すぎておもしろ味に欠けるベビーフェイスを人気で上回ることが、ままあるのだ。圧倒的なベビーフェイスであったヒラリーが、突如、ヒールに転落したわけは、トランプの「本音の刺激」が、ヒラリーの「建前の正しさ」を凌駕してしまった結果といえる。プロレス界では「ヒールターン」と呼ばれ、今回の大統領選もまさにこの関係性そのものである。
就任後のトランプ大統領といえば、プロレス的な芸風を指南してくれたビンスの妻で、WWEのCEOも務めたリンダ・マクマホンをアメリカ中小企業局(SBA)局長に指名するなど、ますますプロレス寄りの自己演出を見せている。トランプ・ファミリーである長女イヴァンカ補佐官と、その夫であるクシュナー氏に絶大な信頼をおき、WWEでのマクマホン・ファミリーさながら、ホワイトハウスを家族経営してしまうトランプ大統領。トランプ・ファミリーのニュースは、トンデモ見出しで知られる『東京スポーツ』にも大きく掲載された。もはや、「一般紙=世の中」と「東スポ=プロレス」の境界線はなくなってきているのだ。』
※かつて、世の中の現象をプロレスに例える趣向が、マニアの間では日常化
していたものだが、いまや、世の中そのものがプロレス化してきているとい
うことのかもしれない・・・。
【今日のことば】「自己に親切になれ、何人にも親切になれ、職務に親切になれ、物品にも親切になれ、時間に親切になれ、金銭に親切になれ」――星一 |
【解説】
星一(ほし・はじめ)は明治6年(1873)福島県で生まれた。米国コロンビア大学卒業後、星製薬株式会社を創業。人材育成のため社内にもうけた教育部が、現在の星薬科大学の基礎となった。
明治41年(1908)に郷里の福島県から立候補して衆議院議員に当選したのを手始めに、政治家としても活躍。とくに戦後混乱期の昭和22年(1947)におこなわれた第1回参議院議員選挙の全国区ではトップ当選を果たしている。
そんな星一のモットーは「親切第一」。「星製薬株式会社本領」にも、第1条として「本社は親切第一を主義として、営利事業を経営しつつ社会奉仕を為し、其(そ)の並行の可能性を世界に示さんとするにあり」と記し、最後の第16条には掲出のことばを書いた。
16条は、さらにこうつづく。17条「親切は平和なり、繁盛なり、向上なり、親切の前に敵なし。親切は世界を征服す」/星一は、そのものずばり『親切第一 Kindness First』と題する本まで刊行。その中には次のような一文も読める。「親切は神仏なり。神仏の本体は親切そのものであって、親切の外(ほか)に神仏は存在せぬものと余は信じる。神仏は吾々に生命を貸して下すっている。従って夫(そ)れを有意義に働かし、生命を大事にして健康を重んじ、人として為すべき最大の仕事を成し遂げたならば、其人の生命は取り上げられたる後でも、其人の魂は之を愛していつまでも生かして下さる」
後年、日本医学界の基礎づくりに貢献したドイツの医学界が窮状にあると聞いて、自分の家を抵当に入れてまで多額の寄付をしたのも、自己の信念である「親切第一」主義に基づくものであった。/長男の名前も、そのモットーから「親一」と名づけた。後年「ショートショート」の名手として知られるようになるこの小説家が星新一(本名・星親一)である。
樟葉 遠い空の想いで
→『星薬科大学での感動の出逢いの続きです。本館の前に星一の像があります。星薬科大学での感動の出逢いの続きです。本館の前に星一の像があります。なぜだか恥ずかしく、顔をちゃんと見ることができませんでした。この本館は星一がアメリカで学んだコロンビア大学のローホールを模したものだそうです。
その後本館の中に入り、3階に上がると星一自筆の親切第一の文が額におさめてありました。』
→『星薬科大学での感動の出逢いの続きです。本館の前に星一の像があります。星薬科大学での感動の出逢いの続きです。本館の前に星一の像があります。なぜだか恥ずかしく、顔をちゃんと見ることができませんでした。この本館は星一がアメリカで学んだコロンビア大学のローホールを模したものだそうです。
その後本館の中に入り、3階に上がると星一自筆の親切第一の文が額におさめてありました。』